Thanks! Fifth Anniversary

 護 り 人



 あら、と家の夫人は顔を上げ、鍋の中身を掻き回していた杓子の手を止めた。
 硝子に映った水滴…――変わりゆく空を見つめ、眉を寄せる。

「あー……降ってきちゃったわねぇ……」

 窓の向こうに見える雲は鼠色を帯びて拡がり、天の機嫌の下り模様を顕に物語る。
 畑の作物も道沿いに点在する野の草花も、にわかに降り始めた雨とまだ僅かに雲の隙間から覗く陽でその緑と大地の色を煌かせていた。

「……濡れなきゃいいけど……ジーナ……」

 杓子の手を再び動かしながら、遣いに出ているノリコの身を案じた。





「――おっと、降ってきちまったなあ……しょうがねぇ、こっちも早いとこ片付けてしまおうぜ、カイザック」
「ああ」

 恨めしそうに空を仰ぎながら溢す青年の言葉に、イザークは軽く相槌を打った。
 納屋に隣接する集積所――収穫した作物を一時置いておく場だが、簡素な屋根と柱そして一部を腰高壁が囲うのみ。ゆえに、外での作業と大差ない。
 作物の袋詰めをし、改めて納屋に積み込む作業を二人はしていた。前半は天候も芳しく捗っていたのだが、そこへ、空模様のにわかなる変調が訪れたのだった。
 表情を変えず返事も短いそれしか返さない相変わらずのイザークに、嘆息めいた苦笑の一瞥をエワンはくれてやる。それでも、本降りになる前にと残りの仕事を片付ける手を休めないのはさすがに農家の倅、手馴れた按配だ。
 詰め込んだ大袋二〜三個を余裕の所作で担ぎ上げると、イザークは納屋へ入っていった。





「!……あー、やっぱり降ってきちゃったっ……」

 小人馬の手綱を引きながら、降り注ぐそれの源泉である天を仰ぐ。観念したような声を洩らすと、
ノリコは額に腕を翳し再び走りだす――
 頼まれていた遣いの帰り道。馬とのんびり歩いていた時、天の按配がにわかに変わりゆくのを認め、その足を些か速めていたところだった。だが降ってきてしまっては、もう走るしかない。

「ご免ね、走らせちゃって。雨宿りできそうな大きな樹があった筈なの、そこまで頑張って」

 馬を励まし、細かい雨粒に当たりながらも暫く走ると、来る途中に見掛けた大樹が見えてきた。
 完璧とは言えないが、多少の雨露なら凌げそうな枝葉振りだ。樹の下まで来たノリコは呼吸を整えながら、雨で濡れてしまった顔を手の甲で拭う。

「すっかり濡れちゃったね、いっぱい走って疲れちゃったでしょう」

 鞄から布を取り出し、馬の毛に付いた水滴を拭いてやる。だがくすぐったかったのか、程なくブルンブルンと身を震わせた為、却ってノリコに雫が飛び、きゃあと悲鳴を上げながらノリコは笑った。
 自分もこんな風に身体を震わせたら、水滴が取れるだろうか――と、思う。
 こういう時、動物とは便利だな、と。
 
「でも上着を被せていたから荷物はそんなに濡れなかったみたい、良かった。きっとこの雨もそんなに長い間は降ってないと思うの、ここで暫く待ってみようね」

 自らはしっとりと濡れた髪で僅かだが雫も滴り落ちているのに、微笑みながら、もう一度改めて馬の顔を優しく拭いてやった。そんなノリコの言葉が解かっているのか否か、頭を大きく一振りさせた後、今度は根元に生えている草を馬は食み始める。
 マイペースであるのは動物の特権であろう。そして先のように感じるノリコもまた、充分にマイペースだ。
 傍に伸びている適当な枝に綱紐を結わえ、それから自分も樹の袂に腰を下ろし、袖で軽く顔を拭うと、ふぅと息をつく。

「イザークは、どうしてるかなぁ……そろそろお仕事、終える頃かしら……」

 世話になっている家の息子であるエワンと納屋での作業を中心に、今日は働くと言っていた。
 大方の作物は収穫を終え、積み込みが済めばあの家での仕事にも目処がつく。もっとも、家の者に言わせるなら予定よりも随分早く収穫が済んだらしい。これもイザークの類稀なる体力が所以だが。
 彼の手助けを必要としている農家は他にもたくさんある。それらの依頼を請け負えば、旅支度に必要なお金は十分に工面できるだろう。でも、その為にはイザークに頼るだけでなく、自分も頑張らねばと思う。とにかく自分のできることを頑張っていこう、と。
 今日は家の夫人と夕飯の料理を拵える予定であった。頼まれた遣いを済ませ、昼までには戻り、昼食はイザークと一緒に外でと踏んでいたが、この雨ではお流れは必至のようだ。

「仕方ないよね……この雨じゃ、ね」

 残念には思うが、また次の機会があるさと、これまた前向きに考える。
 イザークが雨に濡れてなければ良いな、と……そんな心配も織り交ぜながらふっと瞼を降ろし、少し長めの息をついた。









 仕事を終え、エワンと共に母屋に戻ってきたイザークは、戸口で、ジーナ(ノリコ)が遣いからまだ戻らないと言う夫人の言葉に目を瞠った。

「……明るくなってきたからじきに止むだろうけど……雨具も持たせてないし、ひょっとしたら濡れてるんじゃないかと思ってねぇ」
「――っ…」

 表情が強張る。すぐに振り返り天を仰いだ。それほど酷くはなくもう今は霧雨であるとはいえ、一時近く前より続いている雨だ。ずっと外であるならば、すっかり濡れてしまっているだろう。

「何処かで雨宿りしてるんじゃないか? その内に戻ってくるだろう……って、おいっ!」

 暢気なエワンの言葉もよそに、イザークは渡された布を掴んだまま戸口を飛び出した。そのイザークも既にかなり濡れていた。布は自身を拭く為に渡された物だったが、無論それどころじゃない。
 道に飛び出し文字通りあっという間に街道の彼方の人となったイザークに、残された二人は唖然となった。

「……あいつ」
「やっぱり、行っちゃったわねぇ。なんだか、あの噂もあながち嘘じゃないのかもって思えてきたわ」
「噂?」
「ジーナが何処かの国の皇女様で、カイザックが忠誠を誓ったその騎士。んで、身分違いの愛に駆け落ちしたっていう話」
「お……」

 話を聞いてすぐに飛び出したイザークにも呆れたが、その噂とやらにも大いに呆れたエワンだ。しかしイザークの行動を見ていれば、それも肯ける気がすると思えてきた自身にも呆れた。

「……じゃあ、その皇女様に遣いを頼んでるお袋は、何処の何様だ?」
「あら。それもそうね、ふふふ。じゃあ、あたしは女王様かしら?」

 土まみれの女王様かよ……微塵も悪びれない母親の物言いに、苦笑する。

「ま、奴の過保護が筋金入りだってのは、確かなようだがな……」

 濡れてしまった髪を布でゴシゴシ拭きながらぼやく息子に、それだけ大切なんでしょう、と夫人は微笑ましく笑う。

「心配で仕方ないのよ」
「ふん」
「ひょっとして、羨ましいんじゃない?」
「…………」

 ……図星だった。
 それでも、やはり憮然とした顔でふんと鼻を鳴らし、頭を拭きながら奥へと引っ込んだ。……が、顔だけを再び覗かせる。

「腹減ったぞ、お袋……じゃない、女王様?」
「はいはい、ちゃんと用意できてるわよ、早く着替えてきなさい、エワン皇子?」
「おう」

「カイザックも雨の中飛び出していっちゃって……二人して風邪引かなきゃいいけど……」

 既に姿の見えなくなったイザークの向かった先を見つめながら案じ、

「……ジーナの分の布も、渡してやれば良かったわねぇ」

 そんな言葉を洩らし、夫人はまた微笑ましく笑った。






 気配を頼りに道を走った。こんな霧雨の中、旅人だって好んでは歩かないだろう。
 前方の道の脇に大樹の形が見えてきた。そして、袂付近に繋がれた馬の姿とその傍に佇むノリコらしい小さな人影を認め、イザークはホッとする。――だが、

「ノ……」

 声を掛けようとして一瞬躊躇う。小人馬は大人しく草を食んでいたが、ノリコは幹の袂で瞳を閉じたまま動かない。髪が幾筋か顔に掛かっている……否、貼り付いている。恐らく湿っているのか。
 近付いて窺うと、微かだが規則正しい寝息が聞こえてきた。
 ノリコのいつもの癖。
 雨を凌げる場所を見つけたことで安心して、そのまま眠ってしまったのか……

 こんな何もない村で、いったい何が起きる――

 前に家の息子に指摘されたことだった。確かに、何がある訳でもないだろう。
 だが、無事であったにしても熱を出し易いノリコのこと、こんな雨に打たれては確実に風邪を引く。旅をしていた時、いつだって気掛かりなのはノリコの体調だった……
 渡された布が割と大きなものであったのが幸いだ。ノリコを包むように布を宛がい、頬に掛かっている髪をそっと脇へ流してやる。そして自身も、その場に静かに腰を下ろし、肩に手を回して抱き寄せた。
 これで幾ばくか、体温を分け与えることができる…――



 暫し後――心地好い温もりを感じて、ノリコは微かに身じろいだ。
 なんだかとても安心する、懐かしい匂いと温もり。嬉しくて、瞳を閉じたまま頬を擦り寄せる。

「……ん……」

 頭を誰かが撫でてくれている――それも、また心地好い。
 瞼を何度かゆっくりと瞬かせ、とろんとした心地のまま、尚も温もりを確かめるように寄り添って……

「……ぅ……ん……」
「目が醒めたか」
「れ……ぁ、イザー……ク……?」

 大好きな人がすぐ傍にいる。しかも優しく見守ってくれている。
 いつ仕事が終わったのだろう。嬉しくて、眩しいものを見るように目を細め、ふんわり笑んだ。

「お帰りなさい、あのね……とても美味しいスープを奥さんとね、作ったんだよぉ……外で、イザークとお昼ご飯に食べたいなぁと思って……それにね……凄いんだよ……村の人達皆もね一緒なの、凄く楽しく作ったの」
「皆で……スープ、か……?」

 どうやら、楽しげな夢を見、今もその夢の続きと思っているらしい。暢気なその科白に苦笑する。だが、自分に向けられているこの最上の笑顔。
 寝起きのノリコの顔は何度も見てきたが、夢と現(うつつ)が共になっている刹那を拝めるのは、やはり僥倖なのであろう。そんな姿が愛しくて、また見惚れてしまう。

 うん――とにこにこ頷きながら、ノリコはやおら目を瞬かせて擦り……
 視界に入った前方の景色、それに自分を包んでいる布に目をやり、ようやく何かが違うと気付いたのか、

「……あれ、あたし……」

 繋がれたまま草を食んでいる小人馬、そして積んである遣いの荷。イザークを振り返ると、やはり彼は微笑っていて……

「ぁ……」

 ようやく状況が呑み込め、同時に酷く赤面した。

「迎えに……来てくれたの?」

 返事の代わりに微かに口角を上げて微笑むイザークの顔を、じっと見つめてしまった。
 なんとも恥ずかしい。しかし、目覚めた時に大好きな人がすぐ傍にいるというのは、やはりとても嬉しくて……

「あの……、雨宿りしてたの……ここなら、雨大丈夫かなって……思って……」
「それで、よく拭かずに眠ってしまったのか」
「え……ぁ……」

 笑顔は優しいが指摘は鋭い。馬を拭いたは良いが、自分はまだであったのを思い出し、更に赤面した。おまけにいつの間にか眠りこけてしまったようで、申し開きのしようもない。
 言葉に逡巡していたら、くしゃと髪を撫でられた。

「風邪を引く」
「ご免なさ……」

 謝る言葉ごと呑み込むかのように、温もりにぎゅっと包まれる。

「戻らないと聞いて心配した……無事で良かった……」

 ここにエワンがいたなら、間違いなく過保護だと指摘するだろう。
 だが、どうでもいい。追われる身である自分達の立場が理解される筈もない。この大切な存在を護れるならいい。無事であるのを、いつだって確かめていたい。

「……心配掛けてご免ね……でも、嬉しかった……有難う、イザーク…」

 温もりがとても嬉しい。
 ぎゅっと抱きしめられて……でも、力任せではない、優しい、想いの込められた抱擁。
 とても、安堵する――

「嬉しいの……」
「ノリコ……」

 鼠色だった雲が徐々に薄く明るくなってゆき、陽の形が透けて見える。
 ――見上げたイザークが、呟いた。

「上がったな……」









「――なんだ、てっきり抱きかかえて帰ってくるのかと思ったぜ?」

 戻ってきた二人に、抱える身振りを交えてエワンは微笑った。
 幾らなんでもそこまでは……赤面するノリコに、――風邪を引くなよ、とエワンは続ける。

「で、ジーナは何処の国の皇女様なんだ?」
「え……」

 人の悪い笑みを含んだ鋭い問いに、ノリコも、そしてイザークも言葉が出なかった。





「ノリコ」

 夕食の後、部屋へ戻る時にイザークがノリコにそっと声を掛けた。
 何?――と振り返って見上げたノリコの額に、掌が当てられる。

「ぇ……」
「少し顔が赤い」

 案じるその眼差し――何もかも見透かすような、深い群青の瞳。
 ノリコは瞳を瞬かせ、観念したように若干視線を下げた。

「ご免……実はちょっとだけ、だるい……」

 夕食時から自覚はあった。早めに休もうと思っていた。
 でも大丈夫だよと微笑む。休めば大丈夫だから、と言おうとした――次の刹那、抱き上げられ慌ててしまう。

「っ、イザ…っ」
「家の者に気付かれる。声は立てるな」
「……イザ…ク」

 大人しくなって身を寄せてきたノリコを抱えたまま、イザークは部屋へ向かった。




 寝台にイザークが敷布を当てている間、ノリコは椅子に座っていた。

「できたぞノリコ、横になれ」
「うん……」

 ゆっくり立ち上がると、イザークに肩を抱かれ、そのまま寝台に静かに腰を下ろした。
 小さく息をつく。横になれる安堵感に呑まれ、力が抜けるのに比例して、ゆるゆると顔が火照ってゆく。
 呼吸の息が熱を帯びている。喉の奥が、酷く熱い。
 さっきのように大丈夫だと言える気は、今は何処かに飛んでしまったようだ。
 先の夕食も、半分ほどしか口にできなかった。変調は自覚していたから、自分の分の食事は初めから半量しか器に盛らなかった。残してしまうのは、気が咎めたからだ。
 お陰で、エワンには小食だなと突っ込まれてしまう始末だ。無論かぶりを振って、適当に微笑って応えたが。
 そして――その半量の食事ですら、ゆっくりとしか食べられなかった。
 梅干し入りの粥が、妙に懐かしく思い出される。

 半ば倒れるように横になり、また、息をついた。イザークが靴を脱がせてくれるそれに、ご免ね、と微かに声を出す。
 身体を横たえると、僅かにくらりとした。熱の所為で世界が回る。
 拙いなと思いながら、手の甲を瞼に宛がい視界を閉じた。この方が幾らか楽だった。




 すぐに戻る――そう言ってイザークが部屋を出ていって、暫く後。
 部屋の扉が静かに開いた。
 うつらうつらとして、すっかり眠ってはいなかった。閉じたままの瞼やその内が、音を感じて微かに動く。
 気配のする方へ首をゆるり傾けると、額に掌を感じた。それが、頬へ、そして首の横や後ろへと熱を確かめ移動するのを、やはり、目を瞑ったまま受け入れた。

「薬を貰ってきた、ノリコ」

 半目を開くと、イザークが優しく顔を窺っていた。小さく頷いて身を起こすのを、イザークが背を支え手伝う。
 彼の手から薬と水を含む。
 口の中に薬草の苦みが拡がり、僅かに眉を寄せた。

「それから、これは気付けだ」

 そうして見せられた杯にノリコは手を添えた。杯からは少し甘い匂いがした。

「奥さんが作ってくれた。柑橘の甘汁に、少しだが酒が入っている」
「……お酒?……でも、あたし……」

 酒は飲んだことがない。そんな意味合いの表情を晒すと、イザークは僅かに笑んだ。

「煮てあるから、酒の成分は飛んでいるな。果汁の甘みと……それから糖蜜も入っている。きっとノリコ好みの味の筈だ」

 イザークの言葉に杯を見つめる。確かに器は温かかった。ゆっくりと、一口含む。
 ほんのりとだが、酒の風味はある。だが、酔う……というほどのそれは感じない。果汁の温かな甘みが嬉しい。ホットレモンに近いだろうか。

「卵酒なら、飲んだことがあるよ……ずっと以前熱を出した時……」
「卵酒……」
「うん、子どもの頃……お母さんが、身体が温まって早く治るからって……」
「…………」
「これも、美味しい……温かい……」

 ノリコの言葉をイザークは黙って聴き、肩に添えた手に僅かに力を込め、息をつきながらゆっくりと果汁酒を口に含んでいる彼女の髪に静かに唇を寄せた。
 ご免ね――と声がした。ノリコを見下ろすと、彼女もまた頭をもたげるようにして、それでも所在なさげな、申し訳なさそうな顔をしている。

「心配掛けちゃいけないって……いつも思うのに、失敗……奥さんにも、迷惑掛けちゃった……」

 イザークは小さく笑み、ノリコの手から空になった杯を受け取る。そして再びノリコを寝台に横たえた。

「俺のことは気にするな。奥さんも、寧ろ謝っていた」
「え……ど、して……?」
「こんな日にノリコを遣いに出したから、雨に濡らしてしまったと」
「そんな……奥さんの所為じゃ……ないのに……」
「薬があれば分けて貰うつもりで母屋に行ったら、この果汁酒と共に用意してくれていた。顔色が悪いのに、気付いていたんだな」

 長い溜息と共に、悔いるようにノリコは目を閉じた。軽く自己嫌悪に陥る。

「ゆっくり休め」
「う…ん……」

 横になるノリコのすぐ傍に腰掛け、イザークはノリコの髪をゆっくりと弄った。掌が若干冷たくなっていた。それが心地好いのか目を閉じたまま陶酔するように首を傾けてくるノリコを、見つめる。
 掌が冷たいのは、心にある微かな不安の所為だ。
 いつだってその無事を、確かめていたいのだ。いつだって、彼女のすぐ傍で――
 なのに……
 あの帰り道。本当に抱いて戻れば良かったと、今更ながら悔いる。

 寝具に包まれたその身は、とても頼りなげで。
 こんなにも華奢で、壊れそうな、自分とは全然違う身体。
 だから案じている。いつだって。
 そして、不安になる。

 何処にもいないんだ。

 ノリコがこうしてここに、自分の傍に存在している。
 傍に彼女がいることが、彼女の笑顔に触れることが、こんなにも自然に、当たり前になっている。
 もしも、ノリコがいなかったら……
 彼女がいなくなってしまったら……
 そんなことがふとよぎり、その可能性を全力で否定したくなる。
 ノリコが生きていることを、自分の傍にいることを、いつだって確かめていたい。

 恐くなる。
 傍にいてくれる、それだけで自分には何よりの幸ではないか。
 それだけでいい。
 それだけで。
 大切なものが消えてしまう。それを繰り返したくはない。
 今度も、何かが自分から奪っていってしまうように思えるのだ。
 あの時も、そして今度も。離されてしまったそれが記憶に生々しく甦り、全身が総毛立つ。

 まして――
 彼女は、この世界の人ではない。
 別に、生きていた世界がある。
 自分は知らない、別の。

 どれほどの奇蹟で、今こうして自分の傍にいてくれるのだろう。
 答えを模索して、気が遠くなる。
 全てが自分には奇蹟なのだ。
 存在。笑顔。全て。
 もしも多くを望んだなら、儚くも消えてしまうのではないか。
 そう思えて恐くなる。
 いつか、その時が来るのか。
 来た時と同じく、突然にいなくなってしまうとしたら。
 何もかもが儚い夢のように。

 全テガ嘘デアッタカノヨウニ……

 ソンナコトニ、ナルクライナラ…――

「……イザークも……休んで?」

 ノリコが微笑う。熱に浮ついている所為だろう。頬が赤い。
 大切にしたくて、切なくて、もどかしくて――
 そんな気持ちを綯い交ぜに、髪に置いていた手を移し、頬に触れる。

「寒気ね、少し飛んだみたい……身体がぽかぽかしてきたの……だいじょぶ……明日までには、治……」

 身を屈めたイザークの唇がそっと、ノリコのそれに重なる。
 下になっているノリコの身がぴくりと震えた。頬に触れていた指を再び髪に梳き入れながら、驚きで赤みの増したノリコを間近で見つめる。
 何処か痛みを伴った微笑みをイザークは浮かべ……そして、更に重ねた。

「…………イザ……ク…」

 戸惑う声。そして、躊躇いの色を帯びた白い手が、それでも押し戻すように肩に触れる。

「駄目だよ……風邪、感染っちゃう……」

 その手を肩からそっと外し、敷布に留めるように握り、微かに笑みを浮かべる。

「風邪は、ついたことがない」
「……でも……」

 もし……イザークに何かあったら――…


 伝えようとした言葉は、音にならなかった。
 三度目に包まれた温もり。角度を変え、深くなる…――




 彼女の隣に身を横たえ、細い身を包むように抱きしめた。
 分かち合えるのなら、それが風邪でもいいと本気で思った。
 微かに笑ってはいても、苦しい。
 心の中で何かが猛烈に葛藤している。

 失うものなど、もう何もないと思っていたんだ。

 考えて、瞠目する。
 そう、ノリコと出会うまでは……
 なのに今はこの存在を失ってしまうのを、こんなにも恐れている。
 昔、救いたかった人達を失ったその時よりも。

 傍にいる。何があっても。
 何が起こっても。

 こんなにも尊くて、眩しくて、
 どうしようもなく、泣きたくなるんだ。
 大切で堪らなくて、それでももっと大切にしたくて……
 だが、思い込み上げても、言葉にできなくて……
 何度も髪をゆっくり撫で、髪に唇を寄せ、大切に抱きしめた。

 ソンナコトニ、ナルクライナラ……タクサンノノゾミナンテ、イラナイ……

 ノゾミハ、ヒトツ、ダケデイイ……



「明日ね……お天気が良かったら、外でお昼ご飯……食べよ……?」

 撫でる手が、止まる。
 身じろぎ、そっと背に添えられた細い手。それが、ゆっくり上下する。

「大丈夫だよ……さっきよりも、凄く気分がいいの……一晩休んだら、きっと、もっと良くなる……
有難う……」

 黙ったまま、その言葉を聴いた。ゆっくりと尚も労るように、小さな手がイザークの背を往復する。

 呆然として、だが、想いは後から後から溢れてきて……
 震えていたのは、心だ。
 それが解っているかのように優しく往復する掌の温かみが、嬉しくて――
 抱きしめる腕に、力を込めた。









 鳥の囀る声に、薄らとイザークは目を開けた。
 視界の端に僅かに射し込む陽の筋が見え、朝であるのを認める。
 隣にその人の気配はなかった。昨夜、夜着に着替えることなく眠りに就いたのを思い出す。
 大丈夫だと言っていた優しい声が、脳腑に甦る。

 規則正しい呼吸の音を感じ取っても、そのまま腕に抱き続けて眠った。
 離すことができなかった。
 いつ眠ったのかも、覚えていない。
 温もりがすぐ傍に在るのを、確かめていたかった。




「あら、カイザックおはよう――」

 イザークが母屋に出向くと、家の夫人の明るい声があった。
 昨日はお疲れ様だったわね――と労いの言葉を掛けられ、挨拶も兼ねて軽く頭を下げた。

「お陰で、荷積みもすっかり終わって、有難うね〜」

 ジーナとお弁当を作ってたのよと、微笑みながら大きめの籠を食卓に置いた。
 既に食卓に着いているエワンからも、よっ――と軽く指で挨拶のそぶりを見せられる。
 気配の在るのは解っていた。厨房に目が行く。パンを盛った皿を手に、ノリコが優しい表情で振り返った。
 にこりと、最上の笑顔でもって。

「さあさ、朝ご飯にしましょう。こらっ、つまみ食いしてるんじゃないの!」

 ぺちん、という乾いた音が響く――

「イテッ……細かいこと言うなよな、お袋ぉ」
「お袋じゃない、女王様と呼びなさいっ」

 まだ言ってるのかよ……と独りごちるエワンのそれに、知らず苦笑が洩れていた。
 憮然とした顔でイザークを見返した彼は、些か羨ましそうに口を尖らせた後、悪戯な笑顔をしてみせた。

「なんだ、ちゃんと笑えるじゃないか」
「…………」

 意外な言葉に、戸惑う。
 ――別に意識した訳ではなかった。

「だってよ、ちっとも笑わねえから、笑い方を知らないのかと思ってたぜ。ハハハ」
「ったく、失礼なこと言うもんじゃないでしょうが、あんたは!」
「いってぇー……ど突くなよな」
「そんなんだから、いい娘に来て貰えないんだって、早く気付きなさい!」
「……ちぇ……ひっでーなあ……」

 大した女王様だよ――とぶりぶり口を尖らせながら頬杖をつくエワンを見て、ノリコがくすくす微笑う。
 食卓にパンの皿を置いた彼女に近付き、声を掛けた。

「具合は……いいのか……?」
「カイザック……」

 ほんのり頬が染まっている。本当に、熱は出ていないのだろうか――?
 あまり無理をしては……

「大丈夫よ、もうすっかり熱は下がってるの。身体もだるくないよ。あのね、お弁当作ったの。お日様がキラキラで嬉しい」

 後で、丘に行こうね――そう笑顔で告げられる。
 眩しくて堪らない。
 そっと手を伸ばし、額に触れた。
 ノリコは少し遠慮がちに、大丈夫だよと再度呟く。
 また、エワンから、いいよなと声が上がる。

「仏頂面ばかりで、しかも優男で、何処がいいのかと思ったけどな。それでもジーナには、おまえのいい所が見えてるんだな。ったく、ジーナは本当にいい娘だよ。勿体ねーんだぞ? 大事にしろよ? ……って、俺が言うまでもないか、ハハハ!」

「…………」
「エワンさん……」

 ノリコは赤くなっていた。そして、イザークも軽く目を瞠った。
 言うまでもない――その通りだ。
 そのノリコが、自分には全てであるのだから。

 ノリコが見上げて、恥ずかしげに笑んだ。
 何もかも解っている笑顔だった。
 何もかも理解し、何もかも受け入れ。
 いつだって、柔らかな笑顔を向け、見ていてくれる。

「さあさ、ご飯にしましょう。エワン、お父さんを呼んできて!」
「ああ? なんで俺が……親父ー! まだかよ! 先に食うぞ!」

 おおう、と向こうの部屋から家の主人の人良さげな声がした。
 ノリコと二人で、彼等の遣り取りに、笑みが洩れた。呼びに行かずとも、充分に伝わる大きな声だ。

「カイザックとジーナも、さあ座ってね〜」

 夫人の陽気な声を合図にしたように、ノリコがもう一度見上げてくる。

「ご飯、戴こう?」

 手を取って引かれた。その笑顔が眩しかった。

「ああ――」



 護りたい。

 この笑顔を護りたいのだ。
 どうしようもない流れの中で、抗えない無力感に苛まれたこともあった。
 それでも、できることは何もかもしていきたい。
 決して失いたくはない。代わりは、何処にもないのだ。

 たった一つ。
 この唯一無二の存在を、命を懸けて護る。

 これからも、ずっと――




END

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 6年目に入りました。 『蒼の彼方』を 5年間支えてくださった皆様、どうも有難うございます。
 そして、今後ともどうぞ宜しくお願い致します。

 この原稿は、途中まで書きつけた状態で放置中でありました。いや、その先の言葉が、なかなか浮かんでこない有様でして…(苦笑)
 今回、5年の区切りというのもあって、何かやっぱり書きたいな(2〜4年のそれは事実上サボリ…)と思ってフォルダの物色もしていましたら書きかけのこれを見つけ、本当はもっと長い……その翌日のピクニックなんぞも入れて……と思って書き始めていたたヤツだったんですけど、そのピクニックはばっさり割愛(苦笑)。。そこまで書いたら、きっと遅筆の私はもっと遅くなるだろう……と。
 半分ほど書けた辺りで、東北沖の大地震と大津波による被害のことを知り、報道で知る現地の状況があまりにも悲しくて、心折れて……執筆が止まってしまいました。
 娯楽の部分であるし、妄想の産物である。気が引ける要素は満点でしたから……
 しかし、ある御方のお陰で思い直すことができました。
 我が家のお客様の中で、被災地域に住まわれる方がいらして、いつかまた環境が整って我が家に戻ってきてくださった時に、意気消沈の体たらくを見せる訳にはいかん。
 娯楽の部分はゆとりの部分であります。でもそれを楽しめる環境に戻れたなら、それはとても素敵なことだと思うし、ほんの少しでも慰めになれば、奮起復興のきっかけの一つにでもなれば……と思うのです。
 下手な文章ではあります。
 いつまで経っても、納得できる文章になれません。本当、精進の足りない私ですけど、同志様方のお役に少しでも立てたら……少しでも慰めや励みになれたなら、本当に幸いです。
 今日までも、管理人の住む札幌でも何度か余震がありました。家は5階にあるので、震度1でもかなりゆらゆらします。
 いつ何時、もっと大きなそれが来るかというのは解りません。
 でも、今の自分にできること、一つでも。

 書いていた時に、ふと感じたこと。
 失いたくない、大切なものを護りたい。それが、なんだか、今度の震災に被る。
 勿論、架空の物語のそれですし、状況も異なるので単純に比べることはできないですが……
 自分の護っていた世界が壊れる(失う)のを恐れるというのは、通じるのではないかと思うのです。
 そういう意味では、イザークさんはいつもノリちゃんのことを心配し、失うことを恐れている。
 原作軸で、のどかな村に逃れていた頃の話なので、不安がまだ拭われていないという設定になってしまう、非常に切ない按配ではあるのですが……そうした切ない心情の中に、互いの想いの深さ、二人の絆を描けたらいいなと思いました。
 なんというか、多くを望んだら、今のこれも失ってしまうのではないか。
 いてくれるだけでいい。……そういう心情って、本当に切ないものです。だからこそ、ノリちゃんと一緒の時の彼は目一杯幸せであるように描きたいのです。

 ピクニックの様子も、時間が許せばいつか書きたいなと思います。
 それまでは、拙い今回の話でありますが、どうぞお納めください。


 最後になりますが。
 震災で亡くなられた方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 そして被災なされた方々に、一日も早く笑顔が戻って参りますようにと願います。

 夢霧 拝(11.03.19 初出)





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