手のひら




泣きながら、ただ走っていた。
大切なものを失いたくなくて、
何ものにも替えられないその存在を、失いたくはなくて、


躊躇いはなかった。
先の事など、何一つ頭にない。
ただ傍にいたかった、その傍に。
約束。その言葉しか、あたしにはなかったの。
あの約束が、今のあたしに出来る全てだったから。



流れ出す命の証・・・ 止まらない・・・

眩い光、煌く大きな翼が見えたのに。
優しいあなたの笑顔を見られたのに。
生きている・・・と、
再び逢えて、もうこれで離れる事はないんだ、
離れたくない、離したくない・・・と、
そう思ったのに。

額には脂汗、そして苦しげな呼吸、
こんなにも苦しんでいるのに、あたしは何もしてあげる事が出来ない。
それが歯痒い、そして悔しい。
苦しくて息が詰まる。だけど、代われるものなら、代わりたい。
苦しくていいから、どんなに苦しくてもいいから。
あなたを失うくらいなら、いっそこの命、幾らでも・・・
たとえそれで叱られてもいい。
無茶だと諌められても、寧ろあなたのその声が聴きたいから。

笑顔が、見たいから――――




苦しげに歪む眉。
どくんどくんと命が、生きている証が脈を打つ。
ああ、どうか、彼を生かして。
彼の中にその力が息づいているなら、
彼をあたしに返して・・・

祈りながら、黒の髪に、そしてその頬に触れた。
冷たい。
たくさんの血が流れ、冷たくなった頬。
そっと手のひらを這わせる。少しでも体温を伝える為に。
涙で彼の姿が滲む。目を閉じれば、更にそれは頬を伝い落ちる。
彼の頬に落ちる。

イザーク・・・
生きて・・・ どうか・・・ 生きて・・・



不安な中、時だけが流れていく。

僅かに目を開けたあなたの瞳が捉えたのは、何?
深い深い蒼の色。
黒いそれは、壊れやすい硝子。
でも、とても大切な・・・
切なくなるほど、大切な宝玉・・・

微かに、光を取り戻したような・・・
そして、あたしを見つめてくれる。
まだ苦しい筈なのに、それでも微笑い掛けてくれるあなたを
あたしは、泣きながら、抱きしめた。

「イザー・・ク・・」

心を占める愛しい想い。堰を切ったように溢れ出す。
名を呟いたあたしに、微かな声で応えてくれたあなた。
あたしの名を、途切れ途切れに呟いて・・・
もういい、いいの。何も言わなくてもいい。
今は、ゆっくり休んで・・・


あなた・・・









「そこら辺の物は適当に退けちゃっていいから。あ、使える物があったら使ってくれて構わないからね」
「あ、はぃ、有難うございます。お世話になります」

受け取ったシーツを手に、あたしは家の奥さんに礼を告げた。

「干し草足りないかしらねぇ。納屋に行けば去年のが少しはあるんだけど、なにせまだ収穫中期だから十分に作れてなくてねぇ」
「あ・・・いえ、あの・・」

奥さんの言葉に少し逡巡する。

「お気遣い有難うございます。多分、大丈夫だと思います」
「そう? ・・・あ、そっか、ロジーだったら、心配する必要もないわね」
「え・・・、ロ、ジ・・・」

何処からそういう話になったんだろう。
不意に聞かされた奥さんの言葉に、固まる。
イザークも、手が止まったみたい。
ロジー・・・以前に聞いた事のある言葉。あたしが間違ってしまった、あの、言葉・・・

「じゃあ、他に必要な物があったら言ってね。その敷き布は二重にするといいわ。それから、これが掛け布、それに上掛け・・・」

慌ててあたしはまた、礼を言う。
にこりと微笑み、奥さんは母屋へ戻って行った。



「ご免・・・ね、イザーク・・」

何となく気恥ずかしくて、そう言葉を掛ける。きっと今あたしの顔は真っ赤だ。
イザークは苦笑いの吐息を洩らし、

「何を謝る」

再び片付けの手を動かしながら、呟いた。

「うん・・・ なんか・・・前に間違って言った事、思い出しちゃって・・・」

イザークにも、迷惑・・・掛けちゃったんだよね・・・
あの時のあたしは全然解からなかったけど・・・今ならそれが解かるから・・・
センテンスでちゃんと区切り目、理解出来てなくて・・・失敗しちゃったんだ・・・

「完全に、その、誤解とか、されちゃってる・・・よ、ね」

再びその手が止まり、彼の視線がこちらを捉える。
気遣しげな瞳、でも真顔だ。
そしてあたしの前に、ゆっくりだけど歩み寄る。

「・・・厭、か?」
「え・・・」

心臓がどくんと跳ねた。固まったまま、ふるふると首を振る。
イザークはまた微笑って・・・
くしゅ・・・とあたしの頭を撫でた。
手のひらの温もりがじわりと伝わる。
ああ、生きている。
それを思い出して、あたしの心は少しだけ落ち着きを取り戻す。

あんたの声が、聞こえたんだ――――

イザークはそう言う。
声・・・?

「そう、あの時―――」

目を閉じた自分に、おまえの声が――――と。

「あ・・」

再びあたしは真っ赤になった。
祈る。ただ、生きて・・・と、必死の祈りの声だった。
生きて、死なないで、あたしを置いて逝かないで・・・


あなた・・・


そう呟いていたんだ。

「あ、・・・あれは・・」

説明に苦慮してしまう。
借りたシーツや毛布をぎゅっと抱きしめたあたしは、滑稽だろう。
思い起こせば、赤面する事ばかり。
だけど、イザークは、そんなあたしの頭に手のひらを添えたまま
懐に優しく抱き寄せた。

とくんとくん・・・ 彼の鼓動が聞こえてくる。

ああ、生きてる、生きてるんだ。
自分の赤面事なんて、どうだっていい。
彼がこうして、生きているのだから。
ここまで回復出来たのは奇蹟。普通の人ならとっくに・・・
それを考え、身が震えた。
厭だ、考えたくない。

「嬉しかった・・」
「ぇ・・」
「おまえに、そう言われて・・・ だから、生きる力がまた漲ってきたんだ」
「イザ・・・ク・・・」

落ち着きを取り戻した筈なのに、あたしの心臓はまた悪戯に跳ねる。

「内在するあの力だけの所為じゃない。その言葉に癒しを得る男の気持ちが、今は解かる。だから、」


構わない、たとえ、誤解されても――――


「ぁ・・」

微笑み掛けてくれる。
涙が滲んできた。
ああ、そんな笑顔は反則だよ、イザーク・・・

「さあ、片付けの続きだ。とりあえず寝れる場所を確保しなくてはな」
「うん」




ドロスさんやイルク達の助けを借りて、あたし達は名も知らない村へと逃げて来た。
この国がアイビスクだと知ったのは、もう少し後の事。

荷物も何も手元にない。
そんな中で、僅かに残っていた金貨、そしてイザークの鞘、
それを元に衣服を譲ってくれたおじさんの家に厄介になる事になった。

でもただ厄介になるんじゃない。
村の収穫を手伝う―――
また旅が出来るようになるまで、仕事を請け負い元手を稼ぐ為。

ドロスさんは、この家の娘さんの嫁ぎ先へと手伝いにいった。
そしてあたしとイザークは、今は物置にしているという、
かつて娘さんが使っていた部屋を使わせて貰う事になった。

夕飯をご馳走になった後、イザークと一緒に部屋の中を片付けていた。
本当に物置状態。広さは六畳弱ってとこかな。
机や箱、その他の物を脇に寄せたら、良いとこ四畳半・・・
イザークもあたしも、この部屋に案内された時には、言葉が出なかった。
使わない物があれこれ置かれていて、おまけに埃っぽい。
でも、有難かった。
休める場所があるなら、今のあたし達には最高の贅沢。
たとえ四畳半でも、最高の砦だ。


藁草を体裁良く積んでいく。
元の世界の家のような靴を脱いで上がる部屋じゃない。
ここも、他の佇まいと同じ・・・土間になっている。
野宿の時を思い出す。
草を上手く使って、地べたの冷たさを凌いだんだ。
干した藁草はとてもいい匂い。
この辺の地域では、パン麦の藁と丘の牧草を混ぜて干し草にしているらしい。
それでも、干し草をベッドにするなんて、余程の事がない限りはしないそう。
そりゃそうだよね、ちゃんとしたベッドがあるもの。
後は、肥料にする為の灰藁用、それから家畜の餌用。

「まあ家畜はね、何だって食べるから」

そう言って、奥さん笑ってたっけ。
うん。牧畜業でもないから、そんなに大量の干し草は要らないよね。
だから、あるそれを駆使しても、出来たベッドは二人で何とか寝れるだけの・・・
荷物を寄せて出来たスペースも、やっぱりそんな感じの・・・

でも構わなかった。
ドキドキは続いてるけど、最優先で考えていたのは、それじゃない。
ぐっとシーツの端を下に潜り込ませる。
毛布と上掛けを被せて、なんとかそれは出来た。

「うん、上出来」

にこりと微笑う。
そしてイザークも、微笑う。
この笑顔に安堵する。生きている、良かった。




「離れのお風呂、良かったら使ってねー」

奥さんの人の良さげな声が、ノックと共に聞こえた。
この上にお風呂まで・・・ 有難いな。
ほっとしたら眠気に襲われそうで、
あたしは慌てて、イザークに微笑い掛けた。
笑顔を返してくれる。とても嬉しい。





「いいよー」

あたしが着替えている間、イザークは部屋の外で待っててくれた。
そのイザークは、もう着替えを済ませてしまってる。
そしてあたしの声に、扉を開けてイザークが入ってきた。

「じゃあ、イザーク、ここで休んでね」

布団の中央を指すあたしに、イザークは不思議そうな顔で。
だって・・・ イザークにゆったり休んで欲しいから。

半日前のあの事がよぎる。

あんなに、酷い目に遭ったんだもの。
あんなに、痛い思いをしたんだもの。
見た目の傷は何時間かで治っても、あれからまだ半日しか経ってない。
休息はうんと必要だから。
だから。

あたしは、その、端っこで十分・・だし。

途端に曇る、イザークの表情。
・・・え。

「おまえが使え」
「え・・」
「俺はいい」
「ええっ?」

そ、それはダメ。

ふるふるとただ首を振る。
ダメ、ダメだよ、まずあなたに休んで欲しいのに。

「ノリコが使うと言わないなら、俺も使わない」
「イザーク・・・」
「大変な思いをしたのは、俺だけじゃない」
「・・ぇ」

だって、あたしは何もしてあげられなかったんだよ。
あなたが苦しい思いをしている傍で、あたしは・・・

ただ、回復を祈る事しか、出来なかった・・・ だから・・・

「あんたにも、辛い思いをさせた。俺はあんたを護り切れなかった」

ふるふると首を振った。涙が次々溢れてくる。

「俺が護ると言っておきながら、な」

違う・・・ 違う・・・ そうじゃないよ、イザーク・・・
イザークは何も悪くない。



「ノリコ?」

伺うように顔を覗き込まれる。その表情はとても優しくて。
あたしは、涙が止まらなかった。




結局、間を取って、半分こ。
同じ布団、ドキドキするなー。でも、
野宿で、傍近くで休む事は珍しくなかったし、
相部屋しかなくて、一つのベッドをやむなく二人で使った事だってあった。

それに・・・

こうして休める事、それ自体が奇蹟なんだと、やっぱり思う。
半日前のあの出来事が、嘘のよう・・・ でも、それは紛れもなく起こった事で。
生きているあなたの言葉を聞けて、その笑顔を目にして、
その事に、ただ感謝する。

「農作業なんて、生まれて初めてなんだよ、あたし」

ドキドキするなぁ〜と続けるあたしに、イザークは、そうか、と微笑う。

「家畜の世話なら、多少は覚えはあるが・・・」
「あ、ガーヤおばさんに聞いた事ある。ザーゴで隊商にいた時の話だよね」
「・・・ガーヤは、おまえに何を話したんだ?」
「ふふ、色々だよ。イザークがガーヤおばさんから逃げてばっかりだった事とか」
「・・・・・・ガーヤ」

何気ない会話、でもそれが・・・ 嬉しい・・・

「イザークは、優しいもん。おばさん、イザークの事放っておけないって・・・」
「え、・・参ったな・・・」

呆れ半分の吐息。そして、ちょっと困ったような苦笑い。
彼は、そんな表情も素敵。

生きているのを、実感する。
安堵感が、あたしを包んでいく・・・

「あたし、頑張るね・・・ 明日からのお仕事・・・」
「ああ・・・」

俺もな・・・と、大きな手のひらで あたしの頭をまたくしゅくしゅと撫でてくれた。
温もりが伝わる。
嬉しい。

安らかな気持ちが、眠気を呼ぶ。

「また、一緒に旅、出来ると・・・ いい、ね・・・」

それにイザークが頷いて・・・

瞼が重い。
そして、あたしの記憶は、そこで途切れた。




頑張るね、あたし。
あの翼。きっと光の世界への道標。
もう一度、見たい。そして見つけたい、光の世界を。

また二人で旅をしながら・・・








(了)


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++ あとがき ++

何ですか? これ。と思われた御方は至って正常な反応であります(笑)。
久々に書いたのが、これ。短いのは話のテーマが難しいですね。
しかもタイトルがなかなか出てこない。しっくり嵌る言葉、難しいです。


原作に出てくるかの同じ布団の場面、に繋がるまでの話。
このシーンには最初結構驚かせて頂いたというのが正直なところです。
でもあの二人だから、爽やかで許せるというか、あんというか(笑)。

このシーンがあるから、二人はそういうご関係?…という無粋な話題を某所で目にした事がありましてね。
ええ、ずーっとずーっと以前の話ですが。
まあこれに関しては私も一言ならず言わせて頂きますよー、という事で。
本来ならば、こんな無粋な話題であれこれ推察してもしょーがないんです。
知っているのはひかわさんだけですもん(笑)。
ただ、これがあるから、そして平気で一緒に布団に入ってるから「そういうご関係」と括るのはどうか。
そもそもが、そんな単純な状況じゃあございませんでしたでしょう?
あれに至るまでの二人の辿ってきた場面、それを鑑みるに、あーだったかもしれん、こうだったかもしれん… とあれこれ巡らせましたら、まあっ、これって一つ話が出来るんじゃない?

…と言う事で、急遽寄り道致しました。

リハビリのつもりもあります。
何せ「天上〜」が遅々々々々…なもんですから。
何寄り道してるんだ、おめえは(エワン調)…と呆れ返った御方には申し訳ない。

常の自分の書く文体と少し違います。
短いそれですので、こんな感じでノリちゃんに語らせるのも良いかな…と思いまして。
少しポエム調。でも内容的には、結構深刻な感じ混じってます。
彼女も心労キツい場面を経てだと思うし、やっぱり彼女には安眠へと繋げてあげたい。
でも、折角安眠につけたのに、この後彼女が見る夢は残酷でありますね。
これについては「劫祈の羅針」という話もかつて創らせて頂きましたが。

彼女には平安を、そして、イザークの為にお布団を譲ろうとした健気な思いを描きたいなと、…ええ、オチなしですよ。
起承転結も、バリバリ無視しちゃってますよ。ってか、起承転結…それって美味しいんですか?(笑)。。
んで、イザークの性格からして、自分一人が使うとは多分ぜぇーったいに言わんだろう、そんなんじゃ男が廃る(笑)。

作中、ロジーに間違えられたというのは出来過ぎにしても、イイ仲に見られてというのは無理がないでしょう。
これまた妄想の成せる業という事で。
うーん、お風呂は入ったのかなぁ。一応、奥さんにはお風呂勧めさせましたがね。
あの状況で風呂を使ったら、ノリちゃんは即効眠りに落ちるでしょうね、きっと(笑)。

タイトルの「手のひら」。
「掌」とはしませんでした。敢えてです。
その方が、なんとなく温かい感じがしたものですから。
温かさは穏やかさにも通じます。そして柔らかさにも。
幾度か出てくる、イザークによるノリコへの「くしゅくしゅ撫で」。
そしてノリコも、重傷を負ったイザークを見守りながら、頬に手のひら当ててます。
互いが伝える、愛情たっぷり籠った温かな印。
手のひらを当てる事は、心の癒しの第一歩ではないでしょうか。

夢霧 拝(09.07.06)



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