劫祈の羅針




その世界を探して、ずっと旅を続けてきた。
道は、見えているだろうか。
優しき光に満ちたそれは、紛うことなき安息の世界であるのだ。

闇を凌駕し得るその世界への道を創る。
永き時を要するのだと、それでも、いつか必ずその道は見えてくるのだと、
そして全ては、最善の方向へと進んでゆくのだと、
それを信じて疑わなかった。
闇の波動に心融合させることなく、信じていれば頑張れば必ず報われる、
だから、決して諦めてはならないと。

惜しみなく援けをくれる人々に恵まれた。
励み溢れる嬉しい言葉を、心に刻んだ。
全ては最善の方向へと繋がっているのだと、
必ずそれは見えてくるのだと――――

なのに・・・ こんなにも切ないのは何故だろうか。
こんなにも心が痛いのは、何故なのだろう。

解かっている、己の無力さ故だ。
ここにいると、如何に自分が無力であるかを知る。
確かに、想いは人の間に拡がり大きな力になっていく。
自分は独りではないのだと、それもまた知る。
だが、この切ない思いは今も静かに燻り続け、消えることはない。


ほら――――今もそこに無数の手が迫っている。


見渡せばそこは暗い混沌とした世界。
とてつもなく大きな力が圧し掛かる、息が詰まる、逃れる自由もない光も射さない暗黒の世界。
その手はしたたかにも、かの存在を捕らえようと迫る。
払っても払っても留まることなく伸びてくる。決して消えはしない。
纏わり付く悪夢のようなそれが、あの人を捕らえようとする。
なのに、そんな中で彼は、独り戦い続ける。

俺が行く、と――――

ああ、いつだってあなたは・・・
自ら先立ち、他を護ろうとする・・・
いつも、いつも・・・ 己を犠牲にして・・・

やめて、
お願い、もうやめて。
これ以上あの人を苦しめないで。
ねぇ、お願いっ。

あの人が何をしたと言うの?
何故あの人を苦しめるの?

「・・・オマエガ・・ソレヲ謂ウカ」

――――!?

「オマエガ、目覚メサセル者デアルオマエガ・・・ソレヲ謂ウカ・・・」

違う・・・

「カノ者を苦シメル根源デアロウニ・・・ソノオマエガソレヲ謂ウカ・・・」

違うよ。あたしはあの人を苦しめたくない。
そんなこと望んでいない。
その為に傍にいるんじゃない。違う。

「アレハ、魔ノ者ニ成ル・・・我ト共ニ成リテ・・・」

違う――――っ!!

「我ニ委ネヨ・・・アレハ既ニ我ノモノ、我ノ器・・・」

嫌、絶対に嫌っ。そんなことさせないっ。
あたしがあの人を護るっ。

「護ル、ダト・・・?」

約束したもの。誓ったもの。あの人の心を護りたいっ。
一緒に光の世界を見つけるんだって・・・ あの人の背には光の翼が――――!!

「笑止ナ・・ オマエニ何ガ出来ル、何ノ力モ持タヌ小娘ノオマエニ・・・」

・・・確かにそう、自分には力はない。だけど、だけど・・・

「オマエニ何ガ出来ル・・・ ソレトモ死ヌト謂ウカ・・・アノ男ノ為ニ、オマエハソノ命ヲ投ゲ出スコトガ出来ルカ」

命・・・

「オマエニソノ覚悟ガ在ルカ」

冷たく放たれた言葉の後、空間に嘲笑が響く。出来るまい、出来る筈がなかろう、と。

「誰シモ己ガ一番可愛イモノ・・・如何ナ理モ、己可愛サニハ勝テヌノダ・・・オマエトテ、同ジ・・・」

闇の中から無数のおぞましい姿の手が。懸命に走り抗うあの人を捕えようと、信じられない速さで迫り――――
嫌・・・ あの人が捕えられる・・・ 嫌・・・

駄目ぇぇぇぇぇーー――――――っ!!!!

「あたしが代わりになるっ! この命惜しくないっ、あたしを殺してっ! だからお願い、イザークを自由にしてっっ!!」


「君はね、切り札なのだよ」

――――!? ・・・あなたは・・・

「あの男を我々が取り込み我が主の器と成す為の、君は切り札なのだよ」

その場に浮かび現れた男の姿にただ愕然となった。
勝ち誇ったような鋭い眼光、そして薄く笑う声。


切り札・・・ あたしが・・・
あたしが・・・ あの人を苦しめる・・・




不気味に肥大する黒い思念体、そして男の嘲笑が闇に響く中、いつの間にかノリコの身は雁字搦めにされていた。
振り解こうと抗っても、徒らにその自由が奪われるだけで・・・

イザークが何かを叫んでいる。が、口元が動いているのが認められるだけで、何を言っているのか解からない。
そしてイザークから表情が消えた・・・――――
まるで温かみの欠片すらない、思考と感情の一切が失われたような、無の・・・
拘束の中から必死にノリコが手を伸ばすが無情にもそれは届かず、
ノリコの見つめる中、イザークの身はじわじわと黒い何かに覆われていった。

「ぁ・・ぁ・・・嫌あぁぁぁぁぁぁーーー――――っ!!!」


君は切り札なのだよ――――その言葉が、閉ざされた空間に木霊した。







――――――ビクンッ!!!

弾かれたように、身が強張った。
大きく瞠った瞳が、唇が、震える。

「・・・っは・・ぁ・・」

視界が最初にそれと認識したのは、天井の飾り気ない板だった。



開眼したまま、暫く動けなかった。身体中が汗に塗れ、胸は忙しなく鼓動を打つ。
今在る場所すらすぐに思い出せぬほどの放心。暗く鎮まった空間が未だ夢界に在るような錯覚を引き寄せる。
それとも、夢であるのはこちらで、先のあれが現実か。
思考は混乱のさなかにあった。心落ち着けたくとも思いの外捗らず、震えは噛み合せまでを諤々言わせる。
それほどに、かの夢はノリコの心を圧倒した。

無意識に身に力が入っていたのだろうか、節々が軋む。
放心の眼のままようやくよろよろと起こしたその身は、まるで鉛のようだった。
強張り震える肩を、やはり震える自身の手でぐっと掴んだ。



潮騒が遠くに聞こえる。
閉められた窓からは微かな月明かりさえ届かない。

「く・・ぅぅ・・ふ・・」

掛け布ごと手繰り寄せるように自身の膝を抱え込み、込み上げる想いに咽び泣きそうになった。
いや、既に夢の中から泣いていた。
泣きたくなるほど切ないのは、心が痛むのは・・・・・

暫く経ってノリコはベッドを降り、部屋の扉に手を掛けた。


部屋の外は潮の気配も濃い。壁に手をつきながら――そうでなければ歩くのも難いほど気が萎れていた――それでも他の部屋の客に気取られぬようノリコは静かに廊下を進み、表に出るもう一つの扉を開けた。




この扉が光の世界への文字通りの扉ならば、どんなにか救いであったろう。
そんな微かに抱いた思いも虚しい、扉を開けたそこは白き世界ではない単なる宵闇が拡がるだけだった。
刹那、潮の匂いが風と共に自身に向かって一風吹く――――
淀んだ気までも流し去るかのような真っ直ぐなその風は、宵の為か冷たい。
潮を分けながら進む船が起こす波飛沫の音以外は、喧騒どころか海鳥の鳴き声すら聞こえてはこない。
遅くまで粘っていた酔客達も高鼾の頃であろう。既に夜も更けて久しい、そして数時後には東の空から白んでくる筈だ。

風と凪ぐ気配だけがそこを支配する静寂は、まるで現世に独りきり取り残されたかのような、そんな戯れた錯覚を呼んだ。
潮風は上掛けを難なくすり抜け、纏った汗を掠めることに容赦ない。冷たさに身を竦めたが、それでも今は部屋に戻る気にはなれなかった。
風に責められた方が寧ろマシ、それが大風ならば尚好かったのだ。であるなら、この思いももっと別な意味を成していただろうに・・・  だが、自分はいつも許されてきた。許され、受け入れられ、あまつさえ不安定な立場のままである今もその傍にいることを許されている。
――――それでも誓ったのであろう ?
そう・・確かに、誓いを立てたのは自分だった。傍にいると、最後まで傍にいると、それを守りたいと切に思ったのも自分・・・
でも―――・・・だから、だからこそ――――

そこまで思い、頬に感じる新たな冷たさ。伝い落ちた一筋の雫・・・
指先でその軌跡に触れた。

「――っ・・」

己を責める時など大概皆同じであろう、等しく自虐めいた気分に落ち、浸かった。だが悲嘆に酔いしれているのではない、ただ一心に己を責めた。 それは、ノリコという娘が実直且つ純粋な心を持つ人間であるからに他ならない。
かねてより抱いていた切ない心情に先の夢が拍車を掛け、止めを刺そうとしている。
いや、止めを刺すのは自身なのかもしれない。
切なさの裏に隠されたそれは、ノリコだけが今もその内に消すことの出来ぬ罪悪感であった。

極まる感情に思わず、深宵の海原に視線を泳がせた。
闇に塗れる広大な世界にも月は在り、雲に削がれることなき澄んだ月光は海との境界を鮮やかに照らし出す。
さながら銀の如く波間に映ゆる月の繊影。その幻想的な煌きは一抹の希か、それとも終わりなき闇へと誘う魔の徴か・・・
甲板の縁に両の手を掛けそこに自身の額を置いたノリコは、苦しく震える息を搾り出すように長く吐いた。
暫くそうして、自嘲する。
闇と風とに煽られ苛まれることで、自らの贖罪とするつもりだったのか。
居た堪れぬ思い、そしてこの息苦しさ、これらが癒されるとでも思っていたのか。
何と身勝手なことよと嘲笑う、そして歯噛みした。
身の内に潜む罪が消えて失くなることなど在り得ぬというのに――――



かの言葉・・・


――――オマエニソノ覚悟ガ在ルカ・・・


何だってする。その気持ちに偽りはない。
命懸けてイザークを護りたい、あの人が、イザークが、いつも護ってくれているように。
なのに・・・ その思いが強ければ強いほど、逆に自分の無力を思い知る。
色んな人に援けられ、少しずつその道へと進んでいっている、そう思う。
でも、でも、切ないこの気持ちはなくならない。
どうしたら、イザークの重荷を取り除けるのだろう、解放してあげられるのだろう。
どうしたら、この切ない思いに終止符を打てるのだろう。
その為なら、何だってするのに・・・
早く、早く、イザークを自由にしてあげたい・・・


――――目覚メサセル者・・・


間に合わなくなるのでは・・・ もしそんなことになったら・・・
そんな思いに苛まれた時もあった。
イザークを望まない姿に変えてしまう存在ならば、傍に自分がいる真意とは何であるのだろう。
離れなければならないとしたら・・・
それを避けるために、離れなければならないとしたら・・・

「・・・そんなの・・嫌だよ・・・・・絶対、嫌・・・」

絶対に傍にいると、自分は約束した。
消せない不安、僅かな希望、それを信じる気持ち、
互いに前を、未来を見つめてきた。
・・・そんな中で、いつもいつもその身を投げ出し護ろうとしてくれている。
自分や皆を護る為に・・・あなたは、いつも・・・


――――今の俺は、ただおまえを護りたい・・・


苦しげに閉じていた眼が開かれる。

「ぁ・・・」

あの時の言葉が蘇り、頬が染まる。
心を温かくさせた言葉・・・しかし、今の自分にはとても切ない、その言葉。
身が千切れそうだ。いや、寧ろ引き裂いてくれたら、どんなにか笑顔で命を全う出来るだろう。
引き裂いて。殺して。自分の命で購えるなら、それで世界が救われるなら――――!!

「・・・ィ・・ザーク」

再び嗚咽が洩れそうになった、その時・・・

「ノリコ」
「っ・・」

自分を呼ぶ声にビクリと身体が反応する。恐る恐るというように顔を上げ、振り返ると、斜後方より長身の人影。

「イザー・・ク・・」
「そんな所で・・何をしている」

問いながら近付いたイザークは、全くの自然な所作でノリコの頬に触れ、彼女の変調の有無を調べた。
気配を潜め動くことなど彼にとっては容易い。この時もイザークは、請け負った警備で夜半の巡回をしていた。
先の八百長野郎も采を難なく潰したイザークに恐れをなしその鳴りをすっかり潜めたのだが、やはり人の集まる場、痴れ者の一人や二人は必ず出よう、用心した船側が引き続き彼に警備を依頼。
今宵最後の一巡りを済ませた後、イザークも部屋に一度戻るつもりでいた。

「ぁ、の・・ 外の風に当たりたかったの・・ 急に、・・目が・・覚めちゃって・・・」

こんな時間に会えるとは思ってなかった。だからイザークを見上げる表情には自然喜びの色が浮かんだ。
だが、やはりこんな時間である・・・・・・
人がいる筈のない刻限、しかも本来なら安眠を得意とするノリコが起きてそこにいる不自然さを訝るイザークから問う表情が消える筈もなく、釈明するノリコの口調に焦り取り繕う様が混じるのも当然といえば当然だった。
案じながらもそこは窘める意味合いを含む面持ちのイザークに対し多少のバツも悪さも感じ、事実ノリコの鼓動に鎮まる気配は一向に訪れなかった。 更に間の悪いことに、触れたノリコの肌がまだ若干の湿り気を帯びしかもその所為で冷えているのに気付いたイザークは、即座にその端整な眉を顰めたのだ。

「冷えている・・」
「ぁ・・」

最悪の夢見、挙句掻いた汗の始末もせず外に出た。足元も不確かなほど動揺していたとはいえ、更にバツが悪い。 お陰で目線すら合わせられなくなってしまった。

「っご、ご免なさい・・ぁの、夢を見て、それで汗を・・ ぁたし・・拭かないまま・・で、でも・・大丈夫・・だ、から・・」

気の利いた嘘で誤魔化せずに正直に応えてしまう辺り、ノリコのノリコたる所以であろうか。しかしどんな嘘であれ誤魔化せる相手ではないと解かっていたし、どちらにせよ安穏と流すイザークではない。
かつて同行したかのいかつい顔の仲間、そして某町長の娘婿にもお墨付きの彼の過保護ぶりは、こんな所でもその威力を遺憾なく発揮する。

「風邪を引く、中へ」
「・・・」
「どうした」
「戻らなくちゃ・・駄目・・かな・・」
「当然だ、そのままでは風邪を引く」

言いながらイザークは纏っていた上着を外し、ノリコに羽織らせた。
温もりの充分残るそれに包まれたと思った刹那、背を押される感覚。さして力など入れてない、それでもノリコの軽い体躯は容易く抱き寄せられ、イザークの懐に収まる。

「こんなに身体が冷えて・・・」

身体全体を包み込むような抱擁に、ノリコは瞑目しその胸に寄り添った。が、温もりにホッとする間もない、依然として残る切なさ故か、それを紛らわすようにイザークの背をきゅっと掴む。
そうしたノリコの所作と幾分震えている彼女の様子にやはり徒ならぬものを感じ、イザークは再度ノリコを促した。
そしてノリコも、今度は抗うことなく頷いたのだ。











「さあ、話してくれるか、ノリコ?」

ノリコが着替えをしている間扉の前で待機していたイザークは、思念で呼ぶ彼女の声に頷くと室内へ入ってきた。
甲板にいた時よりその顔色には若干赤みが戻ってきている。だが、表情には依然覇気が足りぬように見受けられた。 心許なさげなその身にイザークは更にもう一枚薄手の上掛けを羽織らせると、ベッドの縁に腰掛けているノリコの足元に片膝を着きその顔を見つめ、問い掛けた。

「・・・イザーク・・」
「風に当たりたかったというのは、本当の理由ではないな?」

じっと見据えるその視線に、ノリコは若干俯き加減で決まり悪げに微笑んだ。

「イザークには・・何でも、お見通しなんだから・・」

これにはイザークも苦笑し、そんなことはないと即座に返す。

「確かに気配は掴んではいるが、こんな夜分にあの場所というのは想定外だ。そして、伝えてくれなくてはノリコが何を
 考えているかまでは解からない」
「イザーク・・」
「解かっているのは、今のノリコが普段とは随分違うということだけだ。そうだろ?」

僅かに笑むイザークに、ノリコも小さく肯いた。

「ご免ね・・お仕事の邪魔、しちゃって・・・」
「ノリコ、それじゃ質問の答えになってない」
「ぅ・・ん、そ、だね・・・ ホントに、そう・・・ご、免・・・・」
「・・ノリコ」

苦笑を交えて受けていたイザークも、終いにはくぐもった声で詰まらせたノリコに若干の戸惑いを覚え、眉を顰めた。
そして、もう一度改めてノリコの頬に手を差し伸べる。その瞳から今にも涙が溢れてきそうだったからだ。

「夢を見たと言っていたな・・」

ノリコが悪夢に魘されたのは、これが初めてではなかった。
一つは悪霊に襲われ負傷したグゼナ国境付近での晩、その時は手を差し伸べて遣れた。再び二人旅に戻って間もない頃にも。そしてまだ記憶に新しい、傷付いた身体を癒し追手から身を隠す為に逗留したアイビスクの小さな村。その最初の晩、間近で休んでいたノリコが小さな悲鳴と共に目を覚ましたのだった。
自分を気遣ってか、何でもないと健気に謝りまた床についた彼女・・・ 身を竦め何かに堪えていたその姿・・・
慮っても、気の利いた慰めの言葉一つ掛けては遣れなかった。丸一日と経ってなかったのだ、何の夢で魘されたかなど容易に見当がついた。だからこそ、言葉にならなかった。心細げな横顔にそっと口付けて遣るしか出来なかったのだ。
過信していた訳ではない。だが身の限界は確実に自分にも訪れ、厭と言うほど思い知ることとなった。全く思うようにならぬ自身の身体に、途方もなき歯痒さを感じたのは否めない。
元の世界ならば、平穏な暮らしを送れただろう。不憫だった。しかし、自分に何をして遣れるだろう。不確かな自身、今の自分には何もない。ノリコの気持ちが痛いほど解かっていて、それでも自分には何の術もない。探しているそれをとにかく早く見つけるしか、道がない。
歯痒いが、免れぬ。逃げれば闇が確実に口を開ける。それ以外に道も術もない以上、甘受しなければならなかった。

「今度も恐い夢だったのか?」

留まりきれずに零れ落ちたその雫を掬い拭うかのように、イザークは親指を添えた。

「今度・・も?・・・何故、そんなこと・・」
「あの村に逗留した最初の晩。おまえは、何でもないと言っただけだったが・・」
「・・・」

ノリコは言葉を詰まらせる。確かにあの夢も恐かった。でも今度のは・・・

「夢は・・・確かに、恐かった・・・でも、でも、それだけ、じゃない・・・」
「ノリコ・・?」
「イザークに、迷惑・・掛けたくない・・・お仕事の、邪魔も・・ イザークを・・苦しめて、しまうのも・・・あたし、あたし・・」
「・・な・・に・・?」

ノリコの瞳からは止め処なく涙が流れ落ちた。しかしながらその涙よりもノリコの物言いにイザークは驚きを顕にした。 すぐさま立ち上がりノリコの肩を掴んで凝視するも、告白は止まらなかった。

「イザークを、苦しめたくないの・・・ 傍にいたい、けど、イザークばかり、戦って、護ってくれて、いつも、いつも・・・
 あたし、あたしが、イザークの、枷になっ・・・」
「ノリコ・・っ」

思わずノリコを掻き抱いていた。詰まらせ、それでも尚ご免なさいと謝りながら囈言のように先を続けようとする、そんなノリコの言葉を黙れと叱るように遮ってまで。

「いったい、何が・・」

どうしたというのか――――ノリコの取り乱す理由が掴み兼ねた。
それでも即答を求めていたのではない。とにかくノリコを落ち着かせよう、その気持ちが強かった。だから、訊いておきながらノリコが何かを呟こうとすると、それを遮るかのように更に強く抱きしめた。
何があった、何がノリコをこんなに追い詰めた。それに気付いて遣れなかった自分への怒りの問いだったのかもしれない。
イザークの表情がそんな苦悩の色に蝕まれるまで、些少の間も掛からなかった。




激しい鼓動がその落ち着きを取り戻すまで、イザークはノリコを抱きしめていた。腕の中で僅かに身動いでも、それを阻むかのように抱き続けた。 これ以上力を込めればその身が壊れてしまうかもしれない。だが、離してしまうとノリコがどうにかなってしまいそうに思えて仕方がなかった。今の己に何が出来る、態の良い慰めの言葉も行為もない。だからこうして抱いてやるしかない。
思えば先に甲板でノリコを見つけた時からその様子が変であったのだ。華奢な彼女の身が一層か細く頼りなげに見えた。あんな刻限に。安らかに眠っていると思っていた、それなのに――――!!

「・・・ご、め・・あた・・し」

イザークに抱かれるまま身を委ねていたノリコが、ぼそりと呟いた。相変わらずその瞳も涙が流れるに任せていた頬も濡れてはいたが。

「ノリコ・・」
「ご免・・ね、心配させたく、ない・・思ってた、のに・・やっぱり、し・・んぱ・・い、させ、ちゃった・・」
「当たり前だ、心配するなと言う方が奇怪しい」
「ん・・ぅん・・・そ、だね・・ あた・・し、駄目・・だね・・」
「そんな風に言うな、ノリコ」
「イザ・・ク・・」
「それ以上奇怪しな事を言うなら、容赦しない」
「イザーク・・・イザー・・ク・・」

感極まりよろよろと背に回した細い腕が手が、先と同じくきゅっと服地を掴んだ。胸に凭れ顔を預けていたが、その顔を少しだけ横にずらし瞑目したまま、はぅと搾り出すように長く息をついた。

「あったかい・・・イザークは、いつも、あったかいよ・・」
「ノリコ」
「こうやって、いつも・・・イザークの、温かさに、許されてきたんだね・・あたし・・」
「許す?」

問う意を含め言葉を重ねた。何を言いたいのであろう、また奇怪しな事を言い続けるのであれば、その口を今度こそ物理的に塞がねばならんと大真面目に考えたほどだ。
だがノリコは小さく頷いただけで、暫く黙って、それからまたゆっくり口を開く。

「警備の、お仕事・・」
「・・ああ」
「まだ・・だよね・・・ あ・・たし、邪魔、しちゃった、のかな・・」
「心配するな、乗客は皆寝ている、乗員も航海士以外は仮眠中だ」
「でも、まだ巡回・・」
「あれを終えたら戻るつもりだった、だから心配要らん」
「そっ・・か・・」

腕の中でノリコは何度も小さく頷いた。自らを納得させる仕草のようにそれは思えた。

「ご・・免、なさい・・・」
「謝って貰う理由が、思い当たらんのだが・・」

僅かに苦笑を洩らしつつ返す。
こいつはいつもすぐに謝る・・・そんなことを、イザークは思い出していた。

初めの頃は怯えたように、そして想い通じ合ってからは戯れを交えての時もあったが、基本的にノリコは腰が低い。 自分に非がなくともそんな風に低姿勢であるのは、イザークの機嫌を損ねない為にとの思いからか・・・・・
依存している。イザークがいなければ、その後について行かなければ生きては来れなかった。これはそうした頃の過ごし方の名残、悪く謂わしめるなら後遺症であった。
そんな態度でノリコに接していた過去のことを省みたのは、これが初めてではない。が、改めて、湧き上がる苦いものを覚え、だが抗うことなくそれを受け入れた。そして、ノリコを抱いている片方の手を彼女の後頭部に据え、その髪を梳くように撫でて遣った。
今は最も大切なこの存在・・・ 報いて遣れることがあるとすれば、それはただ慈しむこと。
まるで過去を償う仕草とも取れるその愛撫は、何処までも優しかった。

暫く黙っていたノリコだったが、イザークの胸に手を添え互いの身の間に僅かに間を設けようと動く。

「話す・・ 話すよ・・全部・・・」

その弱い身動ぎにも即座には腕を解かずにいたが、俯いたままの呟きにイザークは静かに腕を解き、ノリコの挙動を見守った。

「自分に出来ることは、信じ続けることだって・・・ずっとそう思っていたの・・ 信じていれば、いつか必ず道は見えて
 くるって・・・ でも時々、とても切なくなる・・・それに、ずっと・・歯痒い思いが消えなかった・・・」

解せぬその告白にイザークは若干の怪訝の色をその顔に浮かべ、問うようにノリコを見つめた。

「いつもイザークに、頼ってしまう・・・頼ってばかりじゃいけないって・・・思っているのに・・・」
「・・ノリコ」
「何か、自分にも出来ること・・・助けられることないかなって、思っていても・・・最後は、いつも・・・」

そうして、寂しげな笑みをノリコは零す。
変わらずノリコを見つめていたイザークだが、やはり噛み砕けぬ何かをその表情に含んでいた。
ノリコに対し何らかの見返りを期待し行動することは、イザークにはない。だからその告白にもすぐには同意し兼ねた。
頼られるのを厭うことはない。寧ろ護りたいと決めたのは自分だ。ノリコも同じく狙われる立場にある、まして彼女は弱者。庇護を必要とする者を助けるのは当然という認識でいる。
何よりノリコを護りきるのはイザークにとって希であり、男という生物が元来持ち合わせているであろう矜持でもあった。
つまり、惚れた女一人護れないでどうするという理念と大差ない。

「グローシアがね、イザークを羨ましがってた・・・イザークの力が自分にもあったら・・・って・・・・・ 彼女なりに、一生懸命・・・
 国を何とかしたいって・・・純粋にその思いから、そう言ったんだと、思う・・・ 女の子だもの、ね・・強い力に憧れる気持
 ち、凄くよく解かる・・・ でもあたし・・素直に頷けなかった・・・」

イザークの手がそっとノリコの腕に添えられる。それまで俯いていたノリコは僅かだが顔を上げ、切なげに目を細めイザークを見つめた。

「その力の為に、イザークが・・・苦しんでいること・・・グローシアは、知らない・・・・・ 苦しみも、辛いことも・・全部背負い
 込んでいること・・・そして誰にも・・相談出来ない・・理解して貰えない・・ 全部独りで解決・・しなくちゃ・・って・・・
 そんな思いで、ずっとイザークが堪えていること・・・グローシアは・・知らない・・」
「・・・ノリコ」
「いつも、イザークが、護ってくれてる・・・必至で、堪えなくちゃ・・ならない、のに・・・ 皆が危ない時にも、いつも、いつも、
 護ろうと先立って・・ それなのに・・あたしは・・・何も・・・ それどころか・・・あたし、の・・存在が、本当に、イザークの・・禍
 となるのなら・・」
「なっ・・」

時折洟を啜りながらもゆっくりと告げるノリコに、イザークは黙って聞くつもりでいた。だが流石に、このノリコの言葉をそのまま流す訳にはいかなかった。 改めて顔を見据え、遂に質す。

「何を言う・・」
「・・・夢・・・夢を、見たの・・」

両の腕を掴まれ、切なげに眉を顰め身を竦めながら、それでもノリコは言葉を続けた。

「紫魂山の、地下遺跡・・・ そこにいた、黒い・・・ それに、ラチェフという・・人・・ あたしを、使って・・・イザークを・・・」
「ノリコ、それは夢だ」
「切り札だって・・・ あたしが、イザークを苦しめる、根源だ・・って・・・」
「違うッ」
「・・イザーク」
「夢だ、ノリコ・・・単なる夢だ、忘れろ」
「・・・・・」
「迷惑を掛けると言ったのは、夢の所為か」

イザークの問いに、ノリコは若干の間を置き小さく肯いた。

「傍にいることに、負い目があるのか」
「イザーク・・あたし・・」
「・・離れたいと」
「っち、違う」

「離れたくない・・ずっと傍にいたい・・・イザークがあたしの前からいなくなってしまうのが恐い・・そんな風になりたくない・・・
 だから、早く光の世界を見つけたい、イザークを自由にしてあげたい・・」

今も頭の中が目まぐるしく渦巻いている。そんな混乱する思考を否定するかのように頭を振り、搾り出すように息をつく。

「・・痴がましい・・よね・・・何の力もないのに、自由にしてあげたいなんて・・ でも・・でも・・あたしに、出来ること・・
 どんなことでもしたいよ・・・ 本当は、身体だってもっと休めて欲しい・・・だってイザーク、気を休められる間もない・・
 全然・・癒される間だってない・・・」
「・・ノリコ」
「船の警備のお仕事だってそう・・・イザーク殆ど休めてない・・・なのに、あたし」
「ノリコ、それは違う」

イザークの言葉にもノリコはゆっくりと頭を振った。

「いつも、イザークに頼ってる、心配掛けてしまってる・・・本当は、心配掛けたくないのに・・・ なのに、こんなあたしに・・・
 イザークはいつも、優しい・・・」
「ノリコ・・」
「いろんな気持ちがぐるぐるして、情けないくらいぐるぐるして・・・ しっかりしなくちゃって、思うのに・・」
「ノリコ、落ち着け」
「恐かったの・・イザークが、あの人達に捕えられて・・・凄く悲しくて・・・恐く・・て・・・夢から醒めた後も、あたし、」

言葉に詰まり、視線は宙を泳ぐ。彷徨うように動めく瞳、弱々しく頭を振る様は、何かを否定したかったのか。

「自分が非力だって、解かる・・・何も出来なかった・・・必至に手を伸ばしたけれど、届かなかった・・・」
「・・・・・」
「信じるしか出来ない・・・イザークのこと想って・・願って・・祈るしか・・・」

「イザークの無事を、祈ることしか・・出来ない・・・」

唇を震わせ、だが声上げることなくノリコは静かに泣いた。イザークも最後には無言となりノリコを見据えていた。
あれほどに前向きな娘が、ここまで、思い詰めた――――




夢は所詮夢だ。しかしその全ては経験が記憶の腑に潜在、それが時を経て夜毎の夢として顕在化する。
快きものならば好い、だが、時に牙を剥く悪夢とも成り得る。思惑通りに運ばないから夢なのだ。ノリコの夢も、体験がもたらした『果』である。
命を賭してあの場所に戻ってきたノリコだ。目にしたもの、挙動、結果、全てが今ノリコの心を哀れなまでに握り潰し、虫の息に追い遣っていたとしても奇怪しくはなかった。 ましてイザークに端を発する夢、そして今、彼を慮り切ない涙を流しながら自身を責めている・・・
普通の娘が堪え得る範疇も、夢なのだからといなせる次元も既に超えていた。

取り乱す相手を宥めることの骨折れなど既に経験済だ。堰を切ったような激しい告白ではないが、宿命を知って涙し自分の許から離れようとしたあの時と同じく、今のノリコも相当動揺しているのは顕かだった。
ノリコがもし堪えきれず自由になりたいと心から望むのなら、イザークはノリコの為に諾と告げたかもしれない。だがノリコの場合、離れようとするのは我欲ではなくあくまでもイザークの為だ。 それが解かるからこそ、イザークは首を縦には振らないだろう。まして今ノリコはそれを望んでいる訳ではない。望んでいないからこそ反って板挟みを招いている・・・ということにもイザークは気付いていた。 離れたくはない、しかし迷惑は掛けたくない、いつか自分の存在が禍となるなら、でもやはり離れたくない、でも・・・―――これでは正に堂々巡りである。
だが、ノリコの間違いをすぐに正して遣ることも出来たが、今はそれをするのを見送った。

代わりに、黙ってノリコを、その腕に抱いた。




「ノリコ、聴け・・」

どのくらいそうしていただろう。ノリコを腕に抱いたまま、今度はイザークから口を開いた。ノリコも僅かに身動ぐ。

「今から言うことを黙って聴くんだ、最後まで・・」
「・・イザーク・・?」
「いいな」

穏やかな物言い、だが毅然とした口調にノリコは静かに頷いた。それを確かめたかのようにイザークは一度瞳を閉じ、改めて開いてから言葉を繋いだ。

「・・そんなに、自分を責めるな・・ノリコ」
「ぇ・・」
「あの時のようだ、まるで、そのままノリコが離れていくかのような気になった。実際ノリコが離れる訳はないと解かっていなが
 ら・・・それでも正直、滅入りそうになった」
「・・・そ、」

そんなことはない、離れたいと思ったのではないと、口を挟む代わりに頭をふるふる振りながら強く心で思った。それはイザークにも伝わり、穏やかに頷いた。

「それと、俺の運命を変える為に、あんたまで巻き込んでしまった・・・ これについては、謝らねばならん・・」
「っ!?」

予想もしない言葉に、ノリコは思わず顔を上げイザークを見つめた。視線が絡み合う。

「―――だっ!・・て・・それは・・っ」

だが、ノリコの発した言葉にもイザークは穏やかに笑み、額同士をこつんと突き合わせた為、ノリコは、あ・・と洩らしたまま次の言葉を発するタイミングを完全に逸してしまった。

「こら、最後まで黙って聴けと言っただろ」

その笑みは、若干悪戯でもあった。お陰であんぐりと開いたノリコの口は是正の文言を吐けぬまま、閉じるしかなくなる。

「俺に関してはあんたは無関係だった。平和な世界で暮らせる筈だったのに、この世界に巻き込んだ。それだけに止まら
 ず、俺の傍にいて欲しいと望み、こうして今も傍に置いている・・」

それは―――・・・ 聴きながらノリコも強く思った。
イザークが好きだからだ。彼が傍にいて欲しいと望んだ、だから自分に出来ることなら、目覚めという立場にあってもそれで何か償いになるのなら、と願ったのだ。
自分が巻き込まれたとしても、それはイザークの所為ではない。同様に運命を変えられたならと思ったし、光の世界を見つけたいと願った。全てを知ったあの日、自分はその全てを受け入れたのだ。無論後悔だってしていない、寧ろイザークの傍にずっといられてどれほど幸せであったか。 想いが通じたというだけで、傍にいられるだけで、あんなにも幸福感に満たされたのだ。
諸々の想いが、過去の記憶と共にノリコの脳裏に鮮やかに描き出される。また涙が零れそうになった。
自分に出来ることなら何でもしたかった。光の世界を見つけられるのなら、イザークを苦しみから解放してあげられるのなら、その役に立てるのなら何でもするつもりでいたのだ。そしてそれは、今でも変わることはない。

「ノリコと出会ってから、図らずも力を使う機会が増えた。それはおまえも周知のことだろう。そして時に、助けを求める者
 達に加勢する機会もあった。ノリコを護る為、そして運命を切り開く道標を見つけられるのなら、と・・・良かれと思えば
 こその試行錯誤だったと思う。確かに剣や力を振るえば、相手は傷付くことになるだろう。避けられる対峙ならばそれ
 に越したことはないが・・」

そこまで語り、イザークは一呼吸置いた。

「義を推し進め、それが為に苦しめられそして援けを求める者達がいるなら、見過ごすことはない。無論、剣を交える相
 手が改心を唱えるならそれに余地を与えるも吝かではない。だが、明確な殺意、そして潰えることなき悪業に対しては
 躊躇はしない。それがノリコを狙う者なら、尚更だ」
「ぁ・・」
「これから進む地に光の世界への新たな手掛りを見出せるかもしれない。近い将来必ず奴等と戦うことにもなるだろう。
 運命を変える為にそれが避けられぬものであるなら、辞さない覚悟でいる」
「・・・・・」
「ノリコに傍にいて欲しいと願ったのは同情からではない。無論、義務感でもない」

戸惑いはあった。そして、不安定な己でもあった。
ノリコがいて初めて安定というものを覚えた。他者ではこうはいかなかった。
決して多くはないものの、親切な者達とも交わる機会を得た。だがここまで気を許したりはしていない、ましてや己のことをあれこれと語るなど在り得なかった。 温かい目でと言うならガーヤも例外ではない、それでも、実際ノリコに感じたそれに及ぶものではなかった。
図らずも初めて味わい、不覚にも心地良く感じてしまった感覚。離れれば自身を激しく揺さぶった、まるで半身をもぎ取られたようなあの喪失感。 その者の気質などでは量れない、そのことに気付かせてくれたのもノリコだ。
最早離れて行くことなど考えられなかった、無論足手纏いなどと感じる訳がない。
誰にも渡したくはないと、離れて欲しくないと初めて強く望むほどに執着した。掛け替えなどないのだ。
一見何処にでもいそうな極普通の娘、だが、ノリコほどの娘はこの世に二人と存在しない。

「だから、自分が犠牲になっているとも思ってはいない」

ノリコはあの時の約束を守り今も傍にいる。ただひたむきに誓いを守ろうとして。

――――あたしに出来ること、どんなことでもしたいよ・・・

何でも出来ることはして遣りたい、そう思うのはノリコだけではない。
イザークも然り。出来るだけのことをして遣りたいのだ。
帰る場所が在りながらそれが叶わないノリコの為に、いじらしくも自分を慕ってくれるノリコの為に今出来ることをして遣りたいのだ。

「ノリコが悲しまずに済む、そんな世界であって欲しいと思う。その為なら俺は戦える」

そして僅かに視線を伏せ、長めの息をついた。

「禍・・か・・」

呟き、ふっと笑んだ。

「確かに、力を使うことで異形には至ったが・・・寧ろ、逆に事が運んだような気もする」
「?・・」
「護りたいと思い、失うことを恐れ、そうして力を使った。だが、心を支配されるほどの暴走に至りそれでも元に戻れたの
 は、寧ろノリコがいたからだと思う」
「ぇ・・」
「それを安定という言葉で表すなら、確かにあの時はそうだった。安堵と安らぎ、それを感じたから≪奴≫は俺の中で力を
 失った。そして紫魂山の遺跡にしても、同じことが言える」
「・・・」
「あの場に駆けつけ、ノリコは身を投じた。それで俺は、自分の内のもう一つの力に気付くこととなった。これは少なくとも
 禍ではなかったと思うのだが、どうだろう」

ぽろぽろと涙が零れ落ちた。流れ落ちるそれを拭いもせず、ノリコはイザークの言葉に何度も肯いた。 そんなノリコの姿をイザークも満足げに見つめ、頬に指を添えた。

「俺が癒されてないと、本当に思っているのか?」

豊かな表情に、そしてその言動に・・・ 傍に彼女がいて癒しを覚えたことなど数え上げればキリがない。
時に、血塗られた己の手さえ――その事実が消える筈もないのに――免罪を得たような、そんな気にさえなったのだ。 なのに、それにノリコは気付いていない。恐らく天性の質なのであろう。意識していない、そこがノリコらしい。不思議そうに問いたげな瞳を向けるノリコを可愛いと思った。
・・・だが――――

「・・・にしても、気に入らんな」
「・・?」

イザークの声色の変化に見開き、更にきょとんと見つめた。対するイザークは真顔でノリコを見据えた後、それを少し悪戯に歪ませる。

「俺はあいつ等に捕まったのか?」
「ぇ・・」
「ノリコの夢の中で」
「ぁ・・っ」

コクリ・・・ 申し訳なさげに眉を顰め、小さく肯いた。俯いたその顔は若干蒼褪めているようにも、羞恥で赤らんでいるようにも見える。

「そうか・・」

吐息交じりに小さく笑うのが聞こえ、なんて夢を自分は見てしまったのだろうと自己嫌悪に陥りそうになり、益々身を竦ませる。 しかし、

「そんなに、俺は頼りないか?」
「 !? 」

思い掛けない問いに思わず顔を上げたノリコは既に真っ赤だった。無論とんでもないという思いからだ。
そして視線はイザークに据えたまま、ぶんぶんと否定の意味で何度も頭を振った。

「おまえを狙うどんな奴等からも絶対に護る、無論元凶にも屈しない、そしてノリコが見たと言う光の翼、これを必ず
 見つける。・・・そう思っているのだが、どうだろう?」

同じく見開いた眼で、今度は何度もコクコクと肯いた。

傍から見れば滑稽な光景であろう。しかし、最後まで黙って聴けという言いつけを今度こそ従順に守っているが故の行為であり、ノリコに出来得る最大限の意思表示がそれでもあった。
やはり可愛いと思う。イザークも今度は満足げに微笑み、眼前の存在を再び腕の中に抱き寄せた。
先ほどまであんなに長いこと抱きしめられ自身もぎゅっと抱きついていたにも関わらず、ノリコは全身に鼓動を意識するほど朱に染まった。
知らず思わず・・・何たる恐ろしい言葉だろう。染まりながらそんなことに思いを巡らす。だが今は、先刻とは比べ物にならないほど安堵感に満たされているのが解かる。イザークの言葉が嬉しかった。

信じる、この気持ちは変わることはない。二人が互いの気持ちを疑わないのと同じように。
光の世界を見つけその扉を開けると、その世界の人間として生きられると。
そしてイザークを信じ続ける。イザークはノリコを見捨てない、決して刃を向けたりはしない。
この先もイザークは正しき人々の為に矢面に立つことだろう。
それがノリコを護ることにも繋がるなら、彼はその為の労を惜しまないだろう。

「・・・ぁ・・・・喋って、いい?」
「ああ」
「イザーク、それでも、もっと・・自分を大事にして・・ね・・」
「ノリコ?」
「いつもイザーク、無理しちゃってる・・・全然労わること、しないもん・・・だから・・・大事にして、欲しいよ・・」

その台詞に、またも笑みが洩れた。

「大事にしたいからこそ、ノリコに傍にいて欲しいと願った」
「イザーク・・」
「それがあんたにとって苦渋の道となるかもしれないのに、傍にいて欲しいと望んだ。自分の為だ。狡いのかもしれん・・・
 多分、そうなのだろう」
「っそんなこと、ない」

腕の中でふるふると頭を振る。

「そんなこと・・ないよ・・・だって・・・」

苦しげに眉を寄せ、尚も違うんだと言わんばかりに頭を振った。

「だって、イザークが好きだもの・・・ずっと傍にいられて、あたし・・凄く幸せだもの・・ イザークが一番大事、イザークに幸せ
 になって欲しい・・ だからあたし、ずっと祈ってた・・・イザークが笑顔で幸せでいられる、そんな世界になるように・・って・・」
「ノリコ・・」
「それしか・・あたしには出来なかったから・・・でなきゃ・・・目覚めの役割は・・・悲し過ぎるよ・・・」

くすんと洟を啜る音が聞こえ、イザークはノリコの髪の心地良い感触を味わうよう大切に撫でた。

「それでいい、俺には過ぎるほどだ」
「イザーク・・」

不安定な自分だったと思う、ただ己を保とうと強くあろうと懸命で・・・
あんな状態で充分に気遣ってやれなかっただろうと振り返るばかりなのに、それでもこの娘は幸せだと言う。
自分はどうであったろう、今更ながら思い起こす。心地良さを、心の安定を感じたのだ。護りたいと、やはり心から感じたのだ。 不確かな運命の先を見つめ、それでも二人で運命を変えよう、必ずその世界を見つけるのだと心に銘じたのだ。 傍にノリコがいない自分よりも、いる自分を選んだのだ。
この心地良さを幸と定義付けるのなら、今の自分は正に幸福であるのだろう。

「祈っていてくれ、これからも・・」

頬を包む掌の温もりに、ノリコは自然顔を上に向けた。穏やかな眼差しがそこに在り、再び鼓動を意識する。日頃間近に接している筈なのに、まるで魔法にでも掛かったかのように動けず、瞳を逸らせなかった。
そして顔が近付き・・・――――
信じろ、信じていてくれ、そんな思いを込めイザークはノリコに口付けた。瞬間瞠った瞳は静かに閉じられ、僅かに強張っていた身からもふっと力が抜けた。触れた唇の温かさに身は心地良く震え、安堵と共に全身に拡がっていくように思えた。
余分な力がノリコから抜けたことを悟り、一度唇を離して目元を見つめる。ゆっくり開いたノリコの瞳は潤み、頬にも更に朱が差していた。そして恥ずかしげに瞳が細められる。
つと流れた雫を辿るように唇で触れ、それから再び互いの唇を重ね合わせた。

愛撫し合うかのような触れ合い、それはずっと続くかと思われた。・・・が、これも運命の悪戯であろうか。
何かのけたたましい落下音が船尾下層より続け様に聞こえてきたのは、そんな折だった。











「何かあったようだ」

物音に唇を離したイザークは、すぐに顔を上げた。若干怪訝気味の表情であるがそれほど慌てた素振りではない。 対するノリコは何があったのかと心配そうな表情で扉に視線を向けた後、イザークを見つめた。

「様子を見てこよう」
「イザーク・・」
「寝ていろノリコ、夜明けまでにはまだ間がある」
「・・あ、あたし・・・ 待ってる・・」
「待たなくていい、寝ていろ」
「や、待ってる」
「ノリコ・・」
「・・待ちたいの・・・イザークにも、やっぱり少しでも休んで欲しいから・・」
「・・・」

一瞬瞠ったが程なく笑み、寝かせるつもりで額に添えた手で、イザークはノリコの髪をくしゃりと撫でた。

「解かった、すぐに戻る」
「・・気をつけて・・ね」

頷いてイザークはノリコの額にそっと口付けを落とすと、彼女を残して部屋を出た。扉の閉まる音を聴きながら、やはりノリコはイザークの無事を心で祈った。 そして、ふるりと震える身を抱えるように両の手で掴み、掠める冷気に心許なさを思い出す。
――――先ほどまではあんなに温かかった。
掛け布を手繰り寄せ包まり、蹲るようにころんと横になった。そして思う。それでも覚悟は出来ているのだと。
イザークの前では口に出さなかった。言えばきっと彼は怒るだろう、そう思っていたから。
殊命に関して尋常ではないこの世界、まして己の今の立場、その覚悟をせねば当の昔に精神を病んでいたかもしれない。
何故自分が時の扉を、次元の扉を開けたのか・・・真の役割とは何なのか・・・と、常々考えていた。
運命を受け止め、自分の出来ることをするんだと自らを励まし頑張ってきた・・・と思う。
ひょっとしたら、自分はこの為にこの世界に遣わされたのか・・・と、今なら思える。
命を差し出す・・・――――
尋常でない世界で、尋常ではない宿命を背負った人を愛した時から、自分の成すべきことは決まっていたのだと。
その覚悟は出来ている。
もし本当に禍となった時には、自分を。

温かいその手に掛かるのなら、悔いはない・・・と――――






ろくでもないことだ――――歩きながらイザークは考えていた。
口中に拡がる苦味、ノリコとの甘美な触れ合いすら無に帰すほどの途方もなき苦味だった。
眉根など既に不機嫌に寄っている。
己の許からノリコが去る。これ以上にろくでもない事態などイザークにはないだろう。
錯覚か否か、一瞬ノリコが消失し掛かったあの時でさえあれだけの動揺を余儀なくされたのだ。
これがろくでもないことでなくて何であろう。

ノリコの気持ちも解かっていた。口に出さずとも、ノリコの覚悟など当に判じていた。いつそれが口を突いて出ても奇怪しくない精神状態だったろう。 だが言葉にすれば今度こそ容赦しない。自分の選択肢にそんなものは存在しないからこそ、ノリコにも自分の気持ちを解かっていて欲しかった。
それにノリコの覚悟は既に見せて貰っている。おぞましき異形の姿を目の当たりにしても、好きだと縋った。暴走し破壊神と化した男を止めようと、躊躇うことなく懐に飛び込み抱きしめてくれた。 そして、地下神殿の奥底へと正に堕ちるばかりだった瀕死の男の許へその身を投じた。
これ以上の何をあの娘に求める。人ならぬ己の身、どうあればあの娘に相応しいのか、そんなことを逡巡するくらいだ。充分過ぎる。 なのに、この上そんな辛い選択をさせるのか。
なるほどノリコの為なら喜んでしよう、だが自分の為だと言われても徒らに身を裂かれるのと変わらない、否もっと悪い。
だが・・・ だからこそそんなノリコの想いをいじらしくも思えた。愛おしさが増すのも否めなかった。
その存在が発する言葉は己を幸福にし、そして時に、激しく揺さぶりもする。
出会って以来折に触れ自問を繰り返し、答えの出せなかった予言へのそれ。
――――目覚めとは一体何であるのか。
改めて感ずる苦々しさだった。うんざりするほど幾度も飲まされた運命による翻弄という名の煮え湯だ。
笑顔で男を癒し、喜びは共に分かつ。案じ、そして涙し、男の痛みを己のことのように厭い、それが為に命も惜しまぬ覚悟でいる。 そんな健気な娘が、異界からの目覚めであるという理由だけで予言が示すところの魔の世界への導き手だとされるのなら、 この世は既に救いの欠片すら纏うに値しない。
端っから腐りきっているのだ。

強くありたいと願ったのはその為かもしれない。
不安、そして焦燥・・・ 微かではあるが、否めない。それでも事態を好くしていきたいが為のそうした感情であった。
安住の地をこの世界に望めぬノリコの為に、何よりも彼女を護る為、不安定な己の心を何ものにも揺るがなきものにする為に。
思い詰めたノリコの姿をその心情を慮るに、これまで彼女に無理をさせてきてしまったかと悔いる。
急がずともいい、焦らずともいいのだ。時に己よりも頑張ろうとする娘、儚いが故にその存在を一層大切に感じた。
自分は、独りで戦ってきたんじゃない。



そして――――実際、ろくでもないことであるのだ。
切り札なのだとあの日ラチェフに告げられたノリコも、そしてあの日瀕死の重傷を負ったイザークも知らない。 神殿の底深き闇に潜むあの黒き思念体がイザークを取り込む為に、邪魔者として最も遠ざけたかった存在が、その目覚めたるノリコであるということを。

ノリコがイザークより離れることが一体何を意味するのか。
違えなく一人の男を不幸に貶め、更に世界を、ろくでもない結末へと導くであろう。






・・・だが、物音の原因は更にろくでもなかった。

「どういう遣り方をすれば、あんな不味い出来になるっ!? こっちは高い金を払ってこの船に乗っているんだぞっ!!」
「何ぃぃ !? 何処が不味いってんだっ!? 金持ちだからってイイ気になりやがってっ!!」

客の一人が未明にも関わらず厨房に怒鳴り込んできた。食事が趣向に合わないというのがその理由だ。 おまけに先ほどまで酒で憤懣を紛わせていたらしく、酷く酔い更に始末を悪くしていた。余程舌が肥えてるのか否か、いずれにせよ迷惑な話である。 厨房の賄い方がまた血気盛んな若者だった為売り言葉に買い言葉、更に勢い余り鍋なども蹴散らした為騒ぎに少々色が付いてしまったようだ。
原因を知ったイザークは、途端に不機嫌の極みを覚えた。
くだらない。飯が美味かろうが不味かろうが、こんな刻限に他の客の安眠を損ねてまですることか。
だが、イザークとノリコの悩みなどその人生の終焉まで恐らく知ることはないだろう、客と賄い方双方の応酬は終わりそうにない。

―――――ダンッッ!!!

睨み合いに水を差す凄まじい音にビクリとし、居合わせた者達は一斉に音のした方に注目した。
その場の全てが瞬時に凍てついたかに思われた。作業台に拳を叩き付けたイザークの氷の如き睥睨に、どの者も背に尋常ならぬ悪寒を感じ、息を呑む。

「・・・潜れ」

静かではある、が、地の遙か底より響いてきたかに思えるその低い声は、殺気十二分であった。

「頃合もいい、海の上だ。旨そうな魚が漁り放題だろう、飛び込んで獲ってくるがいい。無論あんたが自分で捌け。こんな
 刻限に怒鳴り込む性根ならば、造作もなかろう」
「な、何だとぉ、この若僧が・・たかが、け、警備員の分際で、引っ込んでろっ!!」

だが、かなり腹の出た酔っ払い中年男のそんな雑言には全く動じる気配を見せず、作業途中で無造作にそこに置かれたと思しき調理用の小刀をイザークは取り、表情一つ変えずにバキリッ!!と折り、掌中で更にバキバキと粉砕。
阿呆の如くあんぐりと口を開け凍りつく周囲に最早言葉はなく、無機質に響く金属音だけが事の凄まじさを語った。

「あんたは、俺の連れの安眠を妨害した」

わざわざ時を割き来て遣った挙句がこんな低俗な揉め事である。 唯でさえノリコとの時間に水を差され、しかも不安げにその帰りを待っているであろう娘のことを慮るなら、一刻も早く戻って遣りたいイザークの心情は察するに難くない。
確かに何処の世界にも低俗な輩は在ろう。そうした者も含めた現世界の命運が全て、弱冠二十歳の青年と十八歳の少女の両肩に圧し掛かっているのである。だが無論彼等はそれを知らない、知り得ようもない。
自らの尻拭いも出来ぬそんなふざけた輩の為に世界を救おうとなどと思いたくもない。だが、怒りをぶつけたくともそれが叶うものでもない。だから余計に怒りも増す。そうした負の連鎖を抑えるのに要求されるイザークの精神力とは如何ばかりだろう。これまた察するに余りある。
そんなイザークの遣る方ない怒りの矛先を調理用の小刀が地味に請け負い、だが見事にその場にいる全員に知らしめた。潰された小刀はある意味哀れだが、同時に天晴れであると喝采を贈ろう。

仮に寸分でも騒ぎを長引かせたなら、彼等全員生きて再び大地に立てる保証など得られなかっただろう。
が、パラパラと落ちた成れの果てに周囲の表情は更に蒼く変貌。
騒ぎの鎮着を見るに些少の間も要さなかったのは、言うまでもない。






何だか身体がフワフワした。
少し安心した気持ちと、だけれど心許なくて切なくてどうしようもない、この気持ちを何と表現したらいいのだろう、そんな感覚が消えないでいた。 眠いのだろうか、でもイザークが戻るまで待っていたい・・・ 掛け布に包まりながらそんなことを考えていた。
内を占める切ない想い、先ほどイザークに打ち明けた時のそれとは違う。しかも、最初の頃よりも、ずっとずっとそれは強く濃くなっていく。 離されれば、きっとそれだけで死んじゃうかもしれない。そんなことを感じるほど、以前よりもイザークへの想いが強くなっていることに気付き、うろたえる。 これは、そういう切なさだ。

(どうしよう・・・)

本当にそんなことを考えた。
いつも傍にいて欲しいとか、いつも大きな腕で抱きしめていて欲しいとか、そんなのは単なる我侭だ。
もっとしっかりしなくちゃ、大きな目的がある、光の世界を見つけるのだという大きな目的が。
それでも、先ほどとは違う意味合いの堂々巡りに陥っていた。

(どうしよう・・・前よりももっともっと、あたし、イザークが好きだ・・・)

優しさに甘えてもいいのだろうか、そんなことまで考える。

(駄目・・・イザークの方がいっぱい頑張っているのに・・・)

既に悩みの次元がズレている。眠い所為だ、きっとその所為だ。

「はぅ・・」

だが、真剣に悩んでいたのに眠気に襲われるというのも・・・我ながら情けなく思えてしまう。
ノリコがそうした堂々巡りの海にどっぷり浸かり、ふぅーとため息を吐いた時、扉が静かに開いた。

「・・ぁ」

そこに大好きな人を見とめ安堵、だが同時に赤面もした。ベッドの上で掛け布に包まってころんと蹲っている姿などまるで蓑虫、どう見ても滑稽でしかない。 戻ってきた当人も、そんな娘の姿に一瞬瞠り、そして程なく微笑った。
・・・やはりだ。ノリコは赤面したまま、俯いた。掛け布から出ればいいのに、何故か動くに動けない。 逡巡してるとベッドの端に腰掛ける気配がして、頭をくしゃりと撫でられた。その掌の温かさに、ホッとした。

「寝てなかったのか」
「ぅ・・ん、待ってるって言ったから・・ お帰りなさい・・ぁの、物音の方は・・大丈夫だったの?」
「ああ、大したことではなかった」
「良かった・・イザークが無事で・・ ぁ、もしかして、また行ってしまう・・?」
「いや、もうその必要もない」

そう応えると本当に安堵したようだ。それをイザークも微笑いながら見つめた。

「寒かったのか」
「ぇ・・ぁ」

問いに少し慌て、それでも身を起こし掛け布を剥ぐとその場に居住まいを正した。

「違うの、ただなんとなく考え事してて・・・ あは、変だよね、あたしったら・・」

恥ずかしげに俯いたまま、頭を掻いた。が、腰に手を回され、えっと思う間もなくぐっと引き寄せられ、温かい懐に抱かれる。

「ぁ・・っ・・」

一瞬息が止まるかと思った。瞬きも忘れるほど見開く。先ほどあんなことを考えていたからだろうか、心臓がきゅんと締められるように一際大きく鼓動を打つ。 眼前にはイザークの鎖骨が僅かに覗いていた。規則正しい鼓動が伝わってくる。早鐘を打つ自分のそれが情けなく思えるほどだ。
それでも、自分の髪にイザークは唇や頬を寄せている。身動いでも、やはり腕は解かれそうもない。

「・・少しは、落ち着いたか?」

問いに微かに顔を上げる。だが、無論腕から出られる筈もなく、更に密着してしまっただけで。抱きしめられて反って鼓動が忙しなくなったとも応え難く、赤面したまま、ん・・と応えた。

「余計なことは考えなかっただろうな」

余計なこと、その言葉にギクリとなる。イザークが好きだと考えていたことだろうか。どう応えたら良いのかまたも逡巡していると、更にぎゅっと抱きしめられた。

「あんたの覚悟は、もう充分に見せて貰った」
「ぇ・・」
「俺を想ってくれるのなら、生きて俺の傍にいてくれ・・ノリコ」
「・・・っ」
「俺がおまえを生かす、必ず護る・・・だから、ろくでもないことは考えるな」
「イザ・・ク・・」
「辛い選択はさせないでくれ・・ 頼む・・・」

声は最後の方は掠れ、そして僅かに震えていた。イザークが何を言わんとしているのかを悟り、瞳を大きく見開いた。
見抜かれていた。やはりという思いと、バレてしまったのに何処かホッとしている思いとが綯い交ぜになり、鼻の奥がつんとしてくる。背に腕を回し、彼の背を包むように掌で抱きしめた。

「怒られるんだと・・思った・・」
「言葉にしたら、今度こそ赦さん」

その気持ちが身に沁みた。優しい人だ、この人はずっとそういう人だった――――
涙が出そうになり、瞑目した。

「イザークが・・好き・・」
「ノリコ・・」
「イザークが大好き・・・ 昨日よりも、その前よりも、ずっとずっと大好き・・ 明日になったら、もっ・・・」

その先は続ける事が出来なかった。顎を捉えた指で上を向かされ、深く重ねられる。


安堵に満ちた身は大いなる温もりに包まれ、今にも眠りに落ちてしまっても不思議ではなかった。
無理をするな眠っていい・・・という声がふわりと何かに包まれたようなそれとも霞んだような、そんな感じで聞こえた。
頬を優しく撫でてくれる掌を温かく感じ・・・

「イザークも・・休ん・・で・・・・」

瞳を閉じ、夢うつつな声で応えた。傍にいる、という声が聞こえたのが最後、ノリコの身から力が抜ける。
微かな記憶で、ふわりと抱き上げられた感じと、ベッドの敷き布の感触とを覚えている。
とても心地良い気持ちだった。

安らかな寝息を立て始めたノリコの額にそっと口付けを落とし、イザークも束の間、瞳を閉じた。











ノリコが起床したのは、陽が昇ってかなり経た後だった。
理由を知るイザークは、大してまんじりともしなかったのに超然としている。
共に旅をし、ものの数日でノリコの安眠体質振りを把握してしまっていたアレフとグローシア辺りは、珍しく遅く起床したノリコに多少の訝りも見せたが、旅の疲れが出たのだとあっさり告げるイザークにさして猜疑なく得心に至ったようだ。
それよりも、イザークに対し妙に低姿勢な人間が増えたことの方に興味が行った。どうかするとイザークを見掛けた途端引き攣った愛想笑い、もしくは最敬礼角度の伏礼である。しかも顕かに上客と思しき身形の年配者までが、若輩のイザークに対しそんな所作を振るう。
そんな妙な乗客達とそうした外野の振舞いにも全くの無視であしらうイザークとをきょとんとした面持ちでノリコも見つめていたが、その彼女に対してもイザークの連れと判じてか詫びる殊勝さを一応なりに見せた。ただノリコにすれば、頭を下げられる理由を掴めず反って不思議顔で相手を見つめるばかりであったが・・・
そんな光景、当然目に付かぬ筈がない。尤も、アレフが人当たりの良い笑顔で心当たりをイザークに訊ねたところで、知らんとはぐらかされただけであった。
ドニアの港に到着するまでの後の丸一日は、一部の者を除いては平和な船旅であったようだ。
だが、残り一日の間に起こったのはそれだけではない。




水平線の彼方に陽も沈み、夕食後の客達はそれぞれ残り一夜となった船旅を楽しもうと思い思いに過ごしていた。
そして宵も進み月が中天に差し掛かった頃、イザークは夜の巡回の為部屋を出ようとしていたところをノリコに呼び止められる。

「どうした?」

そのノリコは、いつでも休めるようにと既にゆったりとした衣服に着替えていた。
だがイザークが訊ねてもノリコはにこりとするだけで。

「・・・心・・細いのか?」

昨夜のことがまだ残っているのだろうか。そう思って問うも、やはりノリコは首を左右に振るだけだ。

「大丈夫・・ もうね、昨夜のような不安はないよ。あれから変な夢も見てないし・・」

ややはにかんで微笑む。顔色は悪くない。表情からも不安げな様は窺えない。では、何故――――?
若干の怪訝な色を含みながら彼女の頬に掌を添える。

「巡回といっても形だけだ。すぐに戻れる」
「うん。待ってる・・」

そう言うとノリコは、頬に添えられているイザークの手に自分の手を添えそっと外す。そして、それを大切に包むように自分の前でそっと握った。愛しい者を見つめるように手元を窺うその顔は穏やかである。

「ノリコ?」

問うような表情を見せるイザークに一度にこりと微笑んだノリコは、今度はその手を捧げるように持ち替え、彼の前に静かに両膝で跪いた。

「イザークが大好きです。これからも、ずっと・・・」
「・・ぇ」

前触れもないその行為にイザークは小さな動揺を覚えた。だがそんなイザークにはお構いなしにノリコはイザークを見上げ、やはり穏やかな表情で言葉を続けた。

「ずっと、イザーク一人だけに・・ あたし、ノリコ・タチキは、イザーク・キア・タージに、生涯の変わらぬ忠誠を誓います」

そしてノリコは、イザークの手の甲に恭しく口付けした。

「・・・ノリ・・」

思い掛けない行為だった。昨夜の取り乱したノリコにも驚いたが、今日のこの言葉、行為にはもっと驚かされたかもしれない。熱を感じた。きっと頬にも朱が差しているだろう。 言葉も出せずにただノリコを見つめてしまった。
だが、唇を離したノリコは、程なくにっこり、ふふと笑み、驚いているイザークの顔を見上げた。

「そんな風に驚いて慌てる顔、いつものイザークとは大違い。なんか面白い」
「・・え」
「ふふ、仕返しー」

微笑んで呟くと、今度は悪戯っぽく笑んだ。

「だって、イザークいつもあたしのことからかうんだもん。だから、し・か・え・しぃー」
「・・・・・」

知らず、惚けた面を曝していた。
ノリコがイザークを遣りこめることなど殆どない。だからそれに対してはまるで無防備であったと悟る。・・・不覚は極まるところを知らない。

「・・・・・ノリコ」

惚けたまま呼び掛ける。

「はい ?」

応えるその顔には全く悪びれる様子もない。にこりと笑んでいる。

「・・・・・」

もしこの場に鏡があれば、己のこんな惚けた、しかも朱の差した顔に呆れ果てるかもしれない。
いや実際鏡なんぞなくとも呆れ果て、暫し言葉を忘れた。こんな風にイザークを揺さぶることが出来るのも恐らくノリコだけであろう。 知らず苦笑が洩れていた。

「やったな・・?」
「ふふふ」
「悪い娘だ」
「ふふ、ごめんなさぁーい」

上目遣いでペロリと舌を出すところなど、すっかり小悪魔的だ。だがそれでも、謝ることに関してはノリコは非常に素直である。 ・・・憎めない。そんなノリコにイザークは微笑い、ノリコと同目線になるように片膝を着いた。

「そんな冗談が言えるってことは、それだけ元気になったということか」

片手でくしゃりと頭を撫でる。それを擽ったそうに目を細め、ノリコは受け入れた。

「イザークだって、あたしの反応見て遊ぶじゃない? だからこれでおあいこ。ふふふ」
「見事に引っかかった。ノリコのことは疑ったこともないからな」
「ふふふ」
「だが、悪くない。たまには担がれてみるのもいいものだというのが解かった」

そして二人は一頻り微笑い合った。

「・・・でもね、冗談じゃあないよ」

頭に添えられたイザークの手を取り、もう一度胸の前で柔らかく握ると再び穏やかにノリコは告げた。

「ノリコ・・?」
「冗談じゃない・・・ 本気で、そう思ってる・・・」

そしてイザークの間合いにすーっと入り、彼の唇にそっと自分の唇を合わせた。
ふるりと睫が揺れる――――
互いの想いが通じて以来幾度かその唇を合わせてきた。時に気持ちを確認し合うものとも、互いの絆を深めるものともなっていた。 だが、イザークからすることはあってもノリコからのそれは稀だ。
頬に再び朱が差すほどぐっと心を掴れる。先ほどと同様の驚き、いやそれ以上であるかもしれない。そんな風にうろたえる自身にも呆れるほどの動揺を覚えた。 だが、それでも、優しく唇を合わせるノリコにイザークも静かに睫を伏せ、そのまま身動がずにいた。


どれくらいの刻が経ったか・・・ 合わせるだけの優しい、しかし長い触れ合いはようやく解かれた。
離れた唇に冷えた空気が差す。触れている方が極自然だと思えるような・・・離れたそれはそこだけ何かが決定的に欠落している、そんな心許さを感じさせた。 そしてノリコは少し恥ずかしげに頬を染め、ふるりとまた睫を揺らし開眼する。
微かに潤んで見えるノリコの瞳が綺麗だ・・・と、若干まだ放心気味の心地のままイザークは思った。

「不意打ちで慌てるイザークの姿なんて滅多に見られないから、見てみたいなって思った・・・けど、あの時のイザークの
 気持ちが今凄く解かる、本気で言ってくれてたんだって・・・ でも疑った訳じゃないの、本当地に足が着かないくらい
 嬉しかった・・・ あたしも同じ、本気でそう思ってる・・・」

そう告げると、ノリコはイザークを見つめ穏やかに微笑んだ。

「いつもイザークがあたしを支えてくれている。こんなあたしを大切にしてくれる。あたしもイザークに出来るだけのことをして
 あげたい、イザークの優しさに報いたい、だから・・・」
「ノリコ」
「だから、本気。イザークに一生の忠誠を、変わらぬ想いを、ううん、日毎に強くなる、ずっともっと好きになる。これ以上
 好きになったらどうしようって、恐いくらい・・・」

どうしてこの娘は、こんなにも自分のことを慕ってくれるのか・・・――――ノリコの言葉を聴きながら、そんな思いがもう一度内を駆け抜けた。 見返りを求めぬ想いの深さを、自分を包んでくれているものの尊さを、今改めて感じる。

「イザークの魔法に、きっとあたし、すっかり掛かっちゃってるんだね。この世界の不思議な出来事、自分の生きてきたそれ
 とは全然違う・・・深くて恐くて、でもとても素敵で・・・ だけど御伽噺や夢物語じゃない、現実。そのことは解かってる。
 イザークと出会えた、だから今のあたしがある・・・ とっても素敵な魔法・・・ふふ・・」
「ノリコ・・・」
「イザークだけにずっと尽くしたい、イザークの為にあたしの全てはあるの。その想いは変わらないの、だから、本気なの」

どうしてそれを疑えようか、それを魔法だと言うなら、自分もまたノリコという魔法にすっかりやられてしまっているのだ。認めざるを得ない、それを疑おうなどとも思わない。
恐らくあの日の樹海での邂逅より、既に自分は魔法に掛かっているのだろう。そんな気になった。

「自分が信じることの為にこれからは頑張れる。もう不安になったりしない。闇に惑わされたりしない、光だけを見つめる。
 そして、改めて誓う、ずっとイザークの傍にいることを・・・ イザークの幸せを願って祈り続ける・・・」
「・・・・・」
「有難う、イザーク。大好き・・」
「ノリコ」

極まる思いに突き動かされ、それでも自身を落ち着けるようにその腕にゆっくりとノリコを抱きしめた。身が、心が、震えた。
宥めるつもりがいつの間にか自分が励まされていることの方が多いと、いつもその時になって気付かされる。 いや解かっている、解かっているが、何度も認識するのだ。その度に、ノリコが傍にいない場合の己の愚を。そして強くない己を。
ノリコがいて初めて己を保てるなどと、情けない極致だろう。だが、尋常ではない境遇に晒され続け生きてきた以上、そんな自尊にいつまでも拘ることの方が愚だ。 そこまで考えるのは、相手がノリコであるからだろう。こんな無防備な様、他者になど決して見せはしない。・・・やはり、自分もその魔法に掛かってしまっているのだ。
ああ、行きたくない、警備の巡回なんぞに行きたくない、ノリコとずっと一緒にいたい。警備の件を持ってきたアレフを、この時ばかりは恨めしく思えた。そんな気分が掠め、はぁーっと息を吐く。

「俺も同じだ、ノリコ」

そう呟いた。腕の中で僅かに身動ぎ問いたげに自分を見上げるノリコの様に、また一つ苦笑が洩れる。

「強くないんだ、俺は。おまえを護ると言っておきながら・・・」
「イザーク・・?」
「ノリコがいて初めて自分を保てる。そのことに何度も気付く。・・・そして、改めて思い知る、俺は強くないと」
「そんな・・」
「ノリコと出会うまでは、時にどうしようもなく震える己の身を、心が崩れそうになるのを、必至に抑え堪えていた・・・
 だが、ノリコが傍にいると、それが難くない」
「そ、そんな・・こと・・・」
「事実だ、幾度もそんな思いを味わった。事実なんだ」
「・・・・・」
「だから・・・ノリコの気持ちが、正直嬉しい。何故こうも俺を慕ってくれるのかと、思っていたから・・・ そんなノリコを護る
 為に、強くなりたいとずっと思っていたから・・・」

僅かに緩められた腕の中で、ノリコもまたイザークを見つめる。瞳の光が心配そうに揺れた。

「イザーク・・」
「だから、ノリコできつく結んだ」
「ぇ・・」
「俺自身が脆くも解けてしまわぬよう、おまえで、心の奥をきつく結んだ。ノリコが傍にいてくれる限り、俺は崩れない」
「・・ィ・・ザーク・・」

そしてイザークは、ノリコの肩に伏せるように額をそっと乗せた。

「ぇ、・・イザーク?」
「少しだけ、甘えてもいいか?」
「ぁ・・」

いきなりの行為に少しどきまぎしたが、それでもノリコは頷き、イザークを受け入れた。
はぁーと長く息をつくイザークに、徐々に気持ちが穏やかになってくるのを感じる。
いつでも彼は気を張っているのだ・・・せめて自分の傍ではゆったりと寛いで欲しい・・・
そして、イザークの頭を抱くようにノリコは両手を添えた。
とくん・・・とくん・・・とくん・・・・ ノリコの鼓動が微かな揺れとして伝わってくる。
イザークもまた、そんな彼女の命の息吹を心地良く感じていた。

「いいものだな・・」
「イザーク・・」
「・・・温かい。ノリコの鼓動が、心地良く聞こえる」
「嬉しい・・あたしので良ければ、いつでも聴いて」
「あぁ、有難い」

じんわりと伝わるそれを感じ取る。吐息と共にしみじみその感覚を味わった。

「でもね、時に情けないくらい忙しないこともあるんだ。寧ろその方が多いかも」

くすくすと微笑う仕草で、僅かにノリコの肩が揺れる。間近で聴く囀るようなノリコの声と共に、それすらも心地良く思える。こんなにもゆったりと気を抜けたのはいつ以来だったろう。いや、初めてかもしれない。
微かな記憶を辿るも、まるで霞に隠されていて判然としない。遠き昔、狂う前の母親にこんな風に抱かれたことがあったのかもしれない、・・・が、それは確たる記憶ではない。
そんなことをぼんやりと感じながら、そうか・・と問い返していた。

「うん・・だって、イザークの傍にいるとね、いつも、ドキドキしちゃうんだよー」
「ぅん・・?」
「そんなに整った顔立ちはそうそうありません。見つめられると凄くドキドキしちゃう・・・こればっかりは慣れろって言っても無
 理ですっ」
「ハッ・・」

思わず笑いが洩れた。

「だからね、こんな喜劇みないなあたしでも良ければ、いつでもどうぞ」
「ノリコ・・」

能天気でご免ね、という声に、苦笑しながら何を言うといなした。そしてゆっくりとイザークは顔を上げ、元の体勢に戻る。ノリコもまたイザークを見つめた。

「ぁ・・もっと・・ぁの、ね、甘えていいよ・・・ぁ、あたし、何の力もないし、イザークに心配ばかり掛けちゃうし、あんまり頼りに
 ならないかもしれないけど・・・イザークに甘えて貰えると、嬉しいってね、解かったの・・・だから、ゆっくり、ね、寛いで欲し
 い・・な・・」

頬を染めながらはにかむノリコに目を細め、その髪をくしゃりと撫でた。

「いつも癒されてきた、俺は・・」

不意に呟かれたイザークの言葉に、ノリコは問う眼差しを返す。

「独りで戦ってきたんじゃない。そう・・独りで解決しなければならなかったというのも、少し違う・・ その意味で、おまえは
 一つ間違いを犯している。昨夜は言わなかったが・・」
「・・イザーク?」
「ノリコという理解者を得た。それで俺は、纏わりつく数々の呪いというしがらみを一つずつ脱ぎ捨ててゆくことが出来た。
 初めて無から遣り直せた。それからはずっとノリコが傍にいてくれている。だから俺は、独りで解決してきたとは思っては
 いない。無論、独りで戦ってきたのでもない」
「・・・・・」
「解かるか?」

目を瞠るノリコにイザークはそう告げ、添えた手で柔らかな髪を梳き下ろした。

「闇の中で恐れ慄いていた俺に光に立つ勇気を、そしてその心地良さを、おまえは教えてくれた。ありのままの俺を理解
 し、受け入れてくれた上で」
「イザ・・ク・・・」
「ノリコがいる、それだけで、俺には何よりも心強い」
「・・ぁ、ぁた、・・あたし・・・あたしは、そんな・・・ ただの女の子だよ・・・イザークが好きだってだけで・・何も・・・」

ふるふると頭を振る。そんな大層に褒められるほど特別何かを遣れていた感覚もないが、イザークがそんな風に思ってくれているのが嬉しくて、嬉しくて堪らなくて、顔を真っ赤にして頭を振った。
だが―――伏せた頭上からくっという声が聞こえて来て。顔を上げるとイザークが笑いを噛み殺すかのように口元に拳を当てている。

「・・・本当におまえの表情はコロコロとよく変わる、退屈しない・・くく・・」
「・・・・・」

いきなり冷水を浴びせられた気分にも等しいだろう。大きく瞠り、ノリコはイザークを見つめた。
仕返しした筈が、またしても遣られたのだとようやく悟る。こちらの不覚も極まるところを知らない。
が、所詮イザークの方が一枚も二枚も上手。教訓は生かされることなく、二人の関係は続く。

「イザークっ、」
「ハッ!!」

堰を切ったように破顔するイザークに顔を真っ赤にして抗議する。

「も、イザークったら、またあたしをからかうんだからぁぁ、酷ぉーい」

酷く情けない顔であろう、それでも目一杯の抗議をしてやろうと、両の手で拳を作りイザークの胸をポカポカと叩いた。 が、数回ほどであえなく手首を掴まれ、逆に懐に拘束された。

「狡いよぉ、いつもいつも、イザークに、あたし・・」

それでもまだ抗議を続けるノリコを閉じ込めるように、更に強くイザークは抱き竦めた。

「悪い娘には、仕置きが必要だ」
「・・・ぇっ・・ イザ・・っ・・」

耳元でのそんな囁きの後、仕置きという名の口付けにより、後の言葉は全て飲み込まれた。
イザークの仕置きが問答無用であることを、この後ノリコは厭というほど思い知るのだった。






見事な月の宵であった。昨晩と同じく海は凪ぎ、月の繊影が波間を神秘的に照らす。
だが、その陰に最早あの闇の兆候を漂わせる煩いは見られない。
イザークを待つと言ったノリコは、目も眩むような仕置きが余程効いたのか、意に反しコトリと眠りに落ちた。

船内を一巡し甲板に姿を現したイザークは、不意にその足を停め、遠く宵闇の波間に視線を遣った。
自然の景観に感慨を催したことなどなかったが、ノリコと共に道行くことで忘れていた感覚も取り戻せている。 宵の月を綺麗だとも神秘的だとも感じることなど、以前にはなかった。
昨晩、この同じ甲板からどんな思いであの月をそして海をノリコは眺めたのか・・・それを慮るに、今宵は安らかに眠って欲しいと感じる。

――――イザー・・ク・・・ゃ・・待ってる・・・

時間を掛けて仕置きを施した。逃れられぬよう抱きしめ、呼吸を求め戦慄く唇を何度も己の唇で塞いだ。
虚ろな眼になり、睡魔で閉じかけた瞼に口付けし、寝ろと促したそれに返ってきたのが待ってるという先の言葉。だが、そんな健気な懇願さえ唇で飲み込んだ。駄目だという言葉を添えて。
仕置きと言えど別に彼女を責め立てた訳ではない。出来ることなら夢など見ずに、見るならせめて安楽なものであれと願ってのことだ。 あんまり心配させるな―――そんな思いもあっただろう。・・・そう謳ってみたところで、ノリコを案ずるのを止めるつもりでもない。
ふと思い当たり、ああそうかと得心しながら僅かに笑んだ。
仕置きとは名ばかり。もっと甘えていいのにと先に告げたノリコへの要求の行使だったのかもしれない。
そう、甘えだ。そして、健気な娘に対して微かに湧いた悪戯心。頬を染め、忙しなく脈打つ鼓動。それさえ心地良く感じさせるほどの・・・
そんなことを遣れてしまう己にも驚いた。これも、人間らしい感情を取り戻せてる証か。

そういえば、ノリコに抱かれ、母親のことに追想が行った。
狂う前の母の姿など記憶には殆どないが、小刀を振り翳したその姿を思い出しても、何故か心は乱れなかった。 あんなに囚われていたものが、やはり不思議だと思う。
母への記憶は、残存する思慕とそれを凌駕するほどの恐怖、それによって負った心の傷とで成立っていた。だが、その母を狂わせてしまったのは自身、その自身への恐怖と、同時に厭う思いと・・・
あんなに拘っていたのに、自分と向き合いありのままの自分を受け入れることで、こんなにも気持ちは軽くなるのか。
そんな風に心の解放を得られたのも、ノリコがいたからか――――

――――そんな・・・ ただの女の子だよ・・・イザークが好きだってだけで・・・

何処までも自分を慕い受け入れてくれる、その存在。
身を委ねすっかり脱力し、気を失うように意識を手放した彼女・・・
安心しきって眠るその身が愛おしかった。



そうして思考に耽り佇むイザークの姿を、酔い醒ましの為に甲板に出ていた例の未明の年配客が見掛けた。
余韻を愉しむどころではない、一遍に素面に戻された。思わず身構えたが、こちらのことなど恐らく眼中にないだろう、波間に視線を遣り穏やかに笑むイザークのその様に別な意味で仰天したようだ。
酔いも騒ぎも瞬時に凍りつかせたあの凄まじいまでの鋭さを見せた人物と本当に同一であるのか。
考えたが、イザークがその歩を再びこちらに向けた時にはもう元の無表情に戻っており、今度は見間違いだったのかと訝ったほどだ。答えなど永久に出ないだろう。
以降下船するまでイザークは無防備な様を外野には一切拝ませてはいない。連れの娘が傍にいる時だけは穏やかであったなと精々後になって思い出させた程度で、それすら双方共に最早どうでも良いことである。 自分よりも遙かに若輩者に対し腰を抜かすほどの威光を感じたなどと、豪族の自尊から口が裂けても人に話せる筈がない、まあ今回の船旅は多少のハラハラを含んだ、とそんな程度で早々に記憶からは抹消された。結果宜しくである。

イザークにとっても、そんな男の矜持など端から関心の外だ。すれ違う際にだって一瞥もくれてやってはいない。
娘の安らかな眠りの方が、余程重要だ。






今日も世界に朝がやってきた――――
誰にでも等しく注ぐ柔らかな光は、少なくともノリコにとっては更に優しく照らすものとなっただろう。


目覚めた時ノリコは、すぐ傍にいるイザークにドキリとさせられる。そのイザークは、片腕で頭を支え横たわりながら穏やかにノリコを眺めていた。
何があった訳でもない、同じ寝具で休むことなど今までにもあったこと。そう思うのだが、その人の笑顔があまりにも優しげで、心臓を射抜かれてしまったような・・・恐らく情けないほど見とれてしまっているだろう、でもそんなことなど構っていられない、眼前のその人に心を奪われてしまっていた。
この無敵の笑顔に敵う筈なんてないのだ。どんなにからかわれても、それをどんなに狡いと思っても、いつだって初めから全面降伏しているのだから。 そして何よりもすぐ傍で自分を見守っていてくれたことが嬉しくて、頬は薄紅色に上気し、心地良い夢から目覚めたのも手伝って余計にノリコを幸福な気持ちにさせた。
よく眠れたかという問いに、視線はその人に据えたまま、だが何か眩しいものを見つめるように目を細め肯きながら、夢見心地で応えた。

「・・・とても、幸せな夢だったよ・・・・」
「泣くほどにか」

瞳から伝って枕を濡らしたその雫を見、微笑みながらイザークは訊ねた。

「ぅ・・ん・・だって・・ だって・・・」

感慨が込み上げる。それが正夢であったなら、どんなにか幸福であろう。きっと余りの幸福故に、死んでしまうかもしれないと思えたほどの・・・それはそれは幸せな光景であった。
感極まり新たに流れた雫を拭うようにイザークは指を添え、覆い被さるようにノリコの額に口付けを落とし、告げた。
おはよう、と。

夢を訊ねるイザークに、ノリコは微笑みながら小さく頭を振った。内緒だ、と。
言えば、夢は叶わないから、と。
そんなことを言うノリコにイザークは不思議そうに微笑って見せた。
所詮は迷信、単なる伝承であろう。――が、満ち足りた気分で目覚められたのならそれで好いと、それ以上は問わず、改めてその身を大切に抱きしめた。





その道を見つけよう。
運命を変える為、未来を確かなものにする為に。
その為に、二人で頑張っていこうと。

光だけを見つめ、必ずそれを掴むのだと。
その為に、祈り続ける。
信じて、祈り続ける――――と。





「無事に港に着けて何よりだわ、それにいい天気だし。んー」
「そうね、グローシア」

港に降り立って開口一番そう発し伸びをしたグローシアに、微笑いながらノリコも応えた。
その二人にアレフが少し笑って釘を刺す。

「まだまだ。エンナマルナに着くまでが、まだかなりですよ? グローシア、ノリコ」
「チモで、飛び業の、れ・・・練習も、しないとな」

チモを使っての飛び業の練習も控えていた。その毛並みを撫でながらドロスが微笑う。
エンナマルナまでの道のりは遠い。ドニア国に降り立ったとはいえ、その目的地まではまだかなりある。
このチモに頼ることにもなるだろう。

「さあ行きましょう、道中また楽しいことがあるかもしれないわ」
「楽しいって、お母さん・・・楽観過ぎ・・」

二アナの台詞にグローシアが呆れて突っ込み、皆は笑った。
そして、イザークはノリコの肩に一度ポンと手を添え、その手を腰に据え直すと告げた。

「さ、行くぞ」

その笑顔に、ノリコもまた光溢れる笑顔で応える。

「うん」





幸せなあの夢が、どうか正夢であれと願う。

可愛い赤子を抱いて・・・日向ぼっこしている自分・・・
そしてその隣りには・・・自分と子を共に包むように肩を抱き、笑顔で見守る・・・その存在・・・
幸せな幸せな光景――――

どうか、どうか・・・
そんな幸せな日々が、来て欲しい・・・
何よりもあなたが笑顔でいられる、そんな世界であって欲しい・・・

その為に、自分は祈り続ける。
あなたの幸福の為に、きっとそれが来ると信じて、
祈り続けていくよ。

大好きな、あなたの為に――――





(了)

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++ あとがき ++

こんなに長い話になるとは最初思ってなくて、途中ページを分けようか短期連載とかにしようか、などとも思ってみたのですが…
キリの良い分け目を見定めることが出来なくて結局一つのページにしてしまいました。
長いテキストをよくぞ読んでくださったと、皆様には感謝でございます。

リクエストを受けてから、その頃他にも受けているリクがあった所為もあるのですが、個人的な事情もあって 取り組むのが随分と後になってしまいました。しかしその間何もしていなかった訳でもなくて、自分の中では少しずつ構想を練っていたというか、考えてはいたんです。 呆れずにお待ちくださったリク主様には頭上がりません。有難うございます。

今回のリクエストですが、
『原作軸12巻辺り アレフ達と旅をしている途中で二人になった場面』のお話です。
内訳を詳しくお伝えくださったので、非常に助かりました(^^; それが、以下であります。
11P169P172のノリコのモノローグ「その強大な〜せつなくなることがある」
・その切ない想いをノリコがイザークに伝える(11P97P100のイザークが ノリコに不安を打ち明けるみたいなシチュで)
・イザークがノリコを抱きしめて自分の意思でノリコを守りたいのだと伝える
・ノリコの前向きな気分上昇
・いつもイザークにからかわれてばかりで悔しいのでたまには逆襲しよう!と思いつく
10巻の「忠誠を誓おう」をイザークにノリコがしようと企む
・ノリコがイザークに膝まづき、「永遠にスキ」的な事を誓い、イザークの手の甲にCYU(イザークは片足で膝まづいて片手でノリコ
 の手にCYUでしたがノリコは女の子なので両膝を地面について両手でイザークの手を持ってCYUというシチュで)
・イザーク赤面&パニック
・そんなイザークをみてノリコ「イザークかわいい」と思い恥ずかしがりながらもノリコから唇にKISS(少し長めで、でも普通に唇を
 くっつけるだけのKISS
・イザークさらに赤面&パニック』


拝見すると、ほのぼのとした感じで、明るい背景で、コメディで…
なのに、出来上がった原稿は背景が暗いぢゃないですか…orz
しかも、ノリコの作戦なるものが、事後の台詞で告白されてるだけで、詳しい描写はしていないという…
ノリコの気分も単純に上昇ではないし、イザークのパニックも、自分的には効果音的ではなく説明として表現したので、物足りないと思われるかもしれないですね。 その辺漫画ですと視的に直で入ってくるのですが、小説となると話は別…表現が難しいところです。どのくらい御理解戴けたかなと恐々…でもあります。
私もイザークさんの『おろっ』は好きなんですけどね(笑)。

そして、原作のノリコを見るなら、彼女はここまで悩まないと思います。
こう書くと身も蓋もないんですが…(汗)
ほのぼの系話ですと、短い話でしか纏まらない。
それでも良いんでしょうが、この話を作る時に最初に浮かんだイメージが実はノリコの祈りであります。
この話の主題にも出てきます『祈』という文字。
最初タイトル自体を『祈り』としていただけあって、かなり強烈なイメージとして抜けませんでした。
で、祈り。物理的な力を持たない彼女が成せる業であると考えます。
場面とか心情とかを考えた時に、神秘的に思えるのは月の輝きの所為でありましょうか。
芯の強さは元気だけではないと、それもまた感じます。女の底力、と言えば聞こえは良いでしょうか。
尋常でない世界での尋常でない宿命であるからこそ、そうした暗い面、強いて言えば命を賭する決意なるものを感じて戴きました。
そして彼女を悩ませるにはやはり相当の理由が無ければ駄目ですから、夢という形で悩ませて戴き、長文にしました。
ノリコちゃんにはご免としか言えない。
でも、彼女に救いがあるとすれば、これまた底無しに彼女を大事にしているイザークさんの想いでありましょう。
自分をここまで想ってくれる女子がいたら、殿方の心情としては如何でしょう。冥利に尽きるでしょうか。
ともすれば、そういうひたむきさは時に重く感じられます。
ですが、それをプレッシャーに感じさせないのは、やはり相手がイザークさんであるからでしょうか…
私は女でありますので殿方の気持ちはよく解からんですが、やはり嬉しいのではないか、ましてイザークさんの立場境遇なら…
と、そんな風に考えます。
あの時点での彼に出来る最大の愛情表現(?)で、彼女に夢見心地になって戴きました。言葉のあやも使いようであります。
(いや、私は抱きしめられた時点でキューンでありますが…笑)
そして最後にとても幸福な夢も見て戴きました。実現すれば、最高にハッピーでありましょう。
命懸けで惚れた殿方と添い遂げられたら女子は幸せというものです。
そういう希望を匂わせ、話を終えてます。

最後のそんな夢を見たノリコとイザークの会話の辺り、
「傍にいるイザークにドキリとさせられた」のくだりですが、その場面を書いていた時に聴いていた曲がありまして…
「優しい時間」というサントラ盤の中の「森のテーマ・ソプラノバージョン」であります。
とても良い曲です。何ですか、ドラマがあったようですね、自分はよく知らないのでありますが、昔の「北の国から」を 髣髴とさせるらしいです。もし機会があれば、聴いてみてください。
柔らかな光を感じて戴けましたら幸いです。

リク主のきるね様、長いことお待たせしてしまい、申し訳ありませんでした。
ともすればご期待戴いてた内容とは背景が違うかもしれませんのにご笑納戴き、感謝の言葉もございません。
ご指定の分と共に幾つかの箇所を修正しまして本日のupとなりました。

皆様のご感想は如何でしょうか。
宜しければ御声を聞かせて戴けましたら、無上の幸せであります。

夢霧 拝(08.02.29)
『空と海の鐘』様より背景画像をお借りしました。




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