幼き頃、それが、天が流す涙に見えた。

自らを哀れんだのではない。
身の内に降り積もっていく "何か"を、自覚していた訳でもない。
感傷に浸り、逃げる――――
そんな気のゆとりは、あの頃の自身にはなかった。
ただ、天は泣いていると…
そう思えた。

雨を見ると、思い出す。
天の流すそれは、何を報ずる徴となろう。
雲の狭間から僅かに射した光。
零れるように注がれた光。
すべからく知ったそれは、かの光に重なり、禍を流し浄める水となった。
物悲しい、冷たい涙の雫ではない。
優しい、温かな喜びの涙を生んだ… 奇蹟の"徴"だ―――…






アノ日、アノ想ヒ、君ニ帰ス…―――






「まだ、降ってる?」

窓の内掛けの端を手繰り、外を見遣るイザークに、ノリコが声を掛けた。
日中より大地にしっとりと雫を注ぎ続けた天は、宵の深まる頃には平素の穏やかさを取り戻していた。雲の切れ目からは、月と小さな星達が仄かな光明を覗かせており、 澄んだ大気の故あって、妨げられることなく届く自然の灯は淡くとも美しい。だが、屋根からの雫が奏でる音韻が部屋の中にまで聞こえている所為だろう。厚手の布を手にし、濡れ髪の水気を取るべく丁寧に押さえながら、頭(こうべ)を傾げてノリコは訊いた。
イザークの方も、まだ若干湿り気を帯びた髪をしている。二人とも、今しがた湯浴みを終えたばかりだった。

「…いや」

止んでいる――と応えながら、イザークは微かな笑みを見せた。その指を離れた窓掛けが、僅かに揺れて、元の静寂を取り戻す―――

「月の明かりも覗いていた。この分なら、明日は陽も拝めるだろう」
「良かった、じゃあ、お出掛けできるね」

拭く手を止めず、にこりと笑む姿が愛らしい。目を細めて肯き、すぐに、愛しいその存在へと手を伸ばす。

「貸してみろ」
「ぇ…」

傍まで来たノリコの、布を持つ手に重ねるように、イザークは自らの手を添えた。

「まだ濡れている」
「あ…ふふ、いいよー」

撫でる手に気が篭もり、仄かな熱を生む。
大丈夫なのに、とノリコははにかみ微笑うも、素直に布を渡す仕草にもその表情にも全く拒む色味はなく――寧ろ喜んでいる。
ふわりと僅かに浮き立つ髪は、優しく動く大きな手の柔らかな熱によって徐々に乾いてゆき――…
身の内をゆるり満たしていく甘やかな、ふわふわした心地良さに、深く吐息する。少しだけ凭れるように身を寄せた夫の胸元からは、仄かに石鹸のハーブの香りがした。

「ありがと…あのね、とっておきのお酒があるのよ」

乾いた後も指通りの良い柔らかな感触を楽しむべく、イザークはまだノリコの髪を撫で弄び、その身を軽く抱き締めていた。 だから、些か唐突な話題の切り出しに、若干瞠る。

「バラゴさんがね、夕近くに訪ねてきたの。それで、イザークにって」

問いを孕んで眉根が寄るのを、見上げるノリコは楽しげに微笑っている。

「ノンプーシャの、タゴス(※)の逸品なんですって。シュレスン・アルベ(※)に来ていた行商人から手に入れたのだそうよ。味は保証済。で、 『とっておきの酒はオレの人生を潤すのに欠かせねえ品の一つなんだ』とかなんとか」

見場はいかつく言葉も荒い、だが話せばすぐに判る人の良さげな喋り口の友人の顔がすぐに浮かび、ふっと笑んだ。
この花の町にも酒や語らいを楽しむ場は幾つか在り、自国の物は勿論他国からも色々入ってきていたが、中でもノンプーシャのタゴス産は、いつか酒場で飲ませて貰ったそれが衝撃的だったとバラゴが熱く語っていたのを、イザークも思い出した。

「ならば自分で飲めばいいものを。わざわざ譲って寄越したのか、あいつは」
「んー…そう思ってあたしも言ったの。でもバラゴさんがね、『気の良い仲間も俺の人生の潤いには大切な要素なんだぜ』ですって」
「ん?」

上目気味にくすくす笑み、ノリコは自分とイザークとを交互に指差した。指差す相手は他にも多分に在るだろうが、そこは簡略に処す。

「仲間の為に、という事か」
「多分ね。それに、『オレの分はちゃんとある、心配すんな』とも言ってたわ」
「そうか」

男の科白らしく、声音まで少々変えてみせるノリコのそぶりも、何処か笑いを誘った。

※ タゴスという地名は原作にはありません。
※ シュレスン・アルベ。シュレスンは酒場。ここでは、アルベザガルナさんの店を言います。アルベは、店の愛称というか、屋号です。アルベザガルナの店だぜ〜という。「天上〜」で殿方陣が使った酒場がそれです。話の中でもちょこっと店主の名が出てきてますが、覚えてますか? (にこり)





見せてくれ――と言うイザークに、ノリコは、たった今いそいそと運んできたその酒瓶を手渡した。
揺らめく液体とその色味を眺め、おもむろに栓を抜き香りを確かめると、納得したように頷いた。

「判る?」
「ああ。奴の利き口は確かだ」
「味見しなくても?」
「ある程度ならな」

口の端で笑むイザークに、ノリコは小首を傾げた。

「粗悪品では、こういう香りにはならない」

逆に、そうした粗悪品をそれだけ知っているという事だ。情報としてだけではない、実際に掴まされた事だってあると告げると、ノリコはぽかんと口を開けた。

「水増しや混ぜ物は珍しい事ではない。それを商売の駆引きと正当化する者もいるが」

そしてイザークも、最初から百戦錬磨だった訳ではない。微笑いながら付け足すと、ノリコは、妙に感心したような惚け面を晒した。
露骨に示される訳ではないが、場末の酒場ではよくある事だ。何も酒に限った話ではない。そうした場では、インチキも横行しやすい。
逆を言えば、商売の質も垣間見えてくるから、ずさんな経営者ほど篩(ふる)いを逃れる事は出来ない。そういう意味では、自然の理というのは旨い具合に出来ている。 良質であるなら基本繁盛するし、良心的であれば尚客が着く。結局、最後には人となりがモノを言うのだ。
杯の半量ほどまで注ぎ、イザークは一口含んだ。

「後口も悪くない」
「美味しい?」
「ああ、いい酒だ」
「良かった。バラゴさんに御礼しなくちゃね。――でも…」
「ん?」
「うん…あのね、あなたも帰ってくるから、待ってたらって勧めたんだけど…バラゴさんすぐに帰っちゃって。たまには、お夕飯一緒にどうかなって思ったんだけど」

急いでる感じではなかったのに――と、少々残念そうにこぼすノリコに、イザークは僅かに苦笑した。恐らく、気を利かせただけなのだろう。

「別に、今日が最後でもあるまい」

同じ町に居を構えているのだから、その気になれば機会など幾らでもあるだろう。そのつもりで笑んだ。ノリコもさして深刻そうでなく、微笑んで頷いた。
その後も、興味深げにノリコはイザークの手元の酒を眺めていた。時折イザークを見つめてはすぐに逸らしてみたり、何かを言いたげで、でもなかなか言えなくて、妙にそわそわしている感もあり…

「どうした」
「…ん、…どんな味なのかなぁと、思って」
「ノリコ?」
「あ…あの、あのね、ほんの少ぉしだけ、味見させて貰ったら…ダメ、かな…」

最後の方は、妙に声のトーンが小さい。些か機嫌伺いのような申し出に、普段妻の願いなら大抵は聞き入れるイザークも、溜息交じりで苦笑を返した。

「上等だとは言ったが、酔わないとは言ってないぞ」
「うん…」
「いつぞや、試すと言って酷く酔ったことがあったが」

その時の顛末を含むように、今度は若干悪戯に笑んで見せる。

「…う、ん…でも、」

それほど遡る話でもない。
樹海でノリコの日記を届けての帰路での出来事だ。帰りに生じたタルメンソン行きの件は降って湧いた事由だったが、更にその帰りの旅路での事――…
今回のノンプーシャほどではないが果実を使った酒を特産とする街での、少々赤面を催す"事件"だった。 幸か不幸か、どんな風に酔ったかについてはノリコ自身は殆ど覚えていない。だが、口当たりが凄く良かった事だけは覚えている。 しかし軽い酒とはいえ、なにぶん初めて口にするそれは、少々ではなくかなり荷が勝ち過ぎていたようだ。
イザークには、酔って正気を無くしたノリコは"相当可愛い醜態だった"で済ませられるが、実際あんな軽い果実酒で潰れるとは思ってもみなかっただけに、ノリコが酒を口にするのを余り勧める気にはなれなかった。

「だから…あの、本当に、ほんの少しだけ、舐める程度…なんだけど…それでも、ダメ?」
「今度のこれは、甘みは殆どないぞ」
「うん、だから、ほんのちょっと」
「そんなに酒に興味を持つとは、思わなかったな」
「だって、イザークって幾ら飲んでも酔わないんだもの」
「幾ら飲んでもは大袈裟だ。酔うことぐらい俺にもある」
「えーー…」

そんな場面見たことない…とノリコはごちる。
尤も、これまでノリコの前で浴びるほど酒を飲んだ事などないのだから、仕方がない。他者と酒の場を持つとしても大抵はバラゴやアゴル、他に幾ばくかの者が加わることはあっても基本付き合い程度だ、深酔いには程遠い。
こうしてノリコの前でくつろいで飲めるようになったのは、結婚後の話である。そして、飲んでも殆ど顔色を変えないイザークを、感心しながらノリコは見ていたものだ。

「逆に、俺のいない間に口を付けてみようとは思わなかったのか?」
「ん…だって、しっかり栓がされてたし、それに、イザークへの頂き物だし…それに、もし飲んで、それで、あの、酔ってしまって…あの、あの、他の誰かが訪ねて来たら…やっぱり困るし…」

正論だ…―――
両の手の人差し指同士を不規則に付けたり離したりしながら、言葉を選びつつ控えめな声で話すノリコを見据え、表情を変えずにイザークは思った。
昼間から飲む輩が全くないとは言わないが、少なくとも、酒が絡んだ宵の職を業(なりわい)としないノリコのような普通の女がそれをしたなら、即ち"はしたない行為"として括られる。
薬酒はこの限りでないが、そもそもが浴びるほどに飲む代物ではないから、この場合例外だ。世の酔っぱらいを担うのは、依然男がその大多数を占めている。
仮にノリコが記憶を無くすほど酔ったとして、そこへ誰かが訪ねて来るならどうなるだろう。 訪ねてくるのはガーヤのような善人ばかりとは限らない。更に、女ばかりであるとも………
眉を顰める事態など想像に難くないだけに、善良な嫁を持つ亭主としては、冗談じゃない――という事になる。

「う…ん、だから…イザークがいる時じゃなければ、こんな事…頼まないよ…」

ノリコが基本分別のある女だというのをイザークは大いに評価すべきだ。――尤も、この世界での一般的な貞操やら価値観を必要に応じ教えてきたのも、イザークなのだが。
分別はあれど、時に誤解を招きやすい言動も見られたのは、育った世界の文化や価値観とのズレがあるからだろう。そんな時は "島の娘"で通してきたというのも、懐かしい思い出だ。
ノリコの保護者となったのが自分で良かった。なんとなくそんな思いに駆られ、イザークは溜息をつく。
ある意味、役得じゃねえか――もしかしたら、誰かがこんな言葉を吐くかもしれないが…
いずれにせよ、ノリコのどんな事態にも善処で臨めるのは、イザークだけである。
――そんな事もちらと横切り、今度は、微かに笑んで息をついた。

「…まあ、いいだろう」
「本当?」
「但し、本当に少しだけだ。無理だと思ったら、すぐに吐き出せ」
「うん」

新しい杯を持ってこようと立ち上がり掛けたのを、ノリコが止めた。

「イザークのそれでいい。ほんの少しだけだもん」

はにかむノリコを、そうか――と微笑ましく見据え、先ほどの手付きの杯を手渡した。
まだ半分ほど、液体が入っている。大事に受け取ったノリコは、恭しく香りを嗅いだ。アルコールらしい香りが鼻腔に拡がる。…が、

「いい香り…」

確かに嫌みな香りではない。寧ろ酒を嗜まないノリコにも、好感の持てる香りだ。
そっと口を付けてみる。含むか含まないかの微妙な角度であるが、大事そうに両手に持ったまま、少しだけ含んでみた。 すぐには飲み込まないで、少し舌の上で馴染ませる。口の中に、本当に微かなそれであるが甘みを含んだ芳香が拡がり、それから、喉を下りていった。

「…」

嚥下した後、何処へ視線を置く訳でないぼんやりと前方を捉えた瞳は、まるで放心したそれで、ほぅーーー…と、深く息が吐かれた。

「大丈夫か」

やはり酒には弱い態だ。ほんのり染まっていく頬の様に、声を掛けてみる。
ゆっくりとイザークを視線を戻したノリコは可愛く首を傾け、だが、瞳にはやはり放心の色が混じったままで、染まった頬も相まってとても愛らしく見える。

「…うん、果実酒みたいに甘くないけど…でも、でも仄かに、ね、後から少ぉし、甘い感じ… 変な味じゃないよ」

半ば夢見心地に吐かれる言葉には、微笑ましくもやはり苦笑が洩れる。――が、次の刹那、イザークの意表を突いてそれは起きた。

―――コクコクコクン…

「…なに!?」

止める間こそあらば、である。一体何の気まぐれか、再び杯は傾けられ、残っていた液体はあっという間に、可愛らしい口の中へ消えた。
…唖然としたのはイザークだ。

「っ莫迦な、何をしている!」

だが当のノリコは、ぽわんと染まった顔で小首を傾げたまま、うっとりとイザークを見つめている。
…さっきよりも更に赤い。ほんの少しだと念を押しただろうがと窘めたところで、最早空しい…。

「ノリコ、ほら水だ」

持ってきた水を飲ませようとするが、これにノリコは頭(かぶり)を振った。

「んーん、いゃなぁい」

既に呂律が変である。イザークは天を仰ぎたくなった。
だがノリコの方は、にへらっと締まりのない笑顔を晒したかと思うと、今度は、不意に眉間に可愛い皺を寄せ、頬をぷぅーと膨らませる。

「むぅぅ」
「…むぅ?」
「…ずるぅいぃ」
「は?」
「イザークだけ…ずるいぃぃ」
「…」

……完全な八つ当たりだ。

別に喚き立てる訳でもない、あくまで静かな抗議の態だが、首まで赤く、おまけに目まで据わってきている。 幾ら度数が高くなくとも、一気に呷れば結果は同じ。飲ませた事を完璧に後悔したが、後の祭りだ。
それにしても、ここまで酔いの回りが早いとは…
三度目はないな――と自戒を込めて自らに念を押した。

「んーん、もっと、のむぅ…ちょーだぃ…ひとぃじめ…だめ」
「ノリコ…」
「イザークだけ、いっぱい飲んでへーきなの、ずるい…あたしも、いっぱい、いーっぱい、飲めるの…へーきっ、なのっ…ひとぃじめわー、だめなの」
「……」

唖然の次は、眩暈か…
酒が絡んでいなければ、これほど可愛い仕草はないだろうが…
次第に収拾がつかなくなりそうで、そんな自分にも束の間唖然とし、イザークは溜息を洩らした。
どんな場合でも可愛い妻には違いないが、放っておけば彼女まで収拾がつかなくなるのは顕かだ。やはり、このままにはしておけない。

「独り占めなどしていない。とにかく水を飲め、ノリコ」

口調はあくまでも優しい。そして、納得が行かずに伸ばしてきた細腕ごと妻の身を引き寄せて、軽く拘束した。
思った通りだ、しなやかな肢体からは、支える場所に苦慮するほど力が抜け、くたりとしている。
意識に身体が追い着いていないのだ。腕の中から逃れる為か身を捩るも、空を掻くようで精気がない。

「んーんっ、やぁぁ…」

甘ったるさを含んだ声に、苦笑する。こんな妻の口調は、素面の時には余り聴けない。
子供じみた無茶な抗議なのに、やはり憎めない… 醜態でありながらも呆れずに見てられるのは、心底惚れてしまった弱みか…―――
ぶぅーうぅー唸ったり、にゃあにゃあ訴えるのにも構わず、抱き締めたその背中を、今度はあやすように優しくぽんぽんと叩く。
抱いている身体から、強い拍動が伝わる。酒の作用が脈を速めていた。それだけ、ノリコの身に負担を強いているという事だ。 苦しくならないようにと、夜着の腰帯を緩めてやった。

抗議のそれも徐々に鎮まり、力ない声だけが時折洩れる。普段のノリコなら、とっくに眠りに落ちているような状況だが。

「水を飲んだ方がいい、飲めるか?」
「んー…んーん… いざぁく…みぃず?」

今度は半ば虚ろな、しかも潤みを帯びた瞳にしっとりと見上げられる。

「……」

参ったな…――心の中で苦笑する。
他意はなかったものの、帯を緩めてやったことで夜着が幾分はだけてしまっていた。
煽っている自覚など当然ないだろうが、まだ上気を残す肌にはそこはかない色気すら漂い、ましてや、彼女特有の優しげな肌の芳香がさっきから鼻を擽っていては…
…こんな所で理性を試されるとは思っていなかった。状況が違えば、とっくに押し倒している。
いずれにしても自力で水を飲める状態ではないと判じ、イザークは水を一口含むと、半開きのノリコの唇を捉えた。
喉を下っていく水が解ったかどうかは定かではないが、嚥下する様から、虚ろながらもちゃんと飲めたようだ。 大人しくなったノリコにもう一度口移しで水を与え、そのままゆるり抱き締めた。

「ん…ばくばく…する…」
「大丈夫か、苦しくはないか?」

僅かに髪が顔に掛かっていた。幾分乱れたそれをイザークは指で掬い、直してやる。

「ん…すこし…いたい…」
「何処が痛む」
「んー…あたま…」

二日酔いの症状と同じだ。但し日は跨いでないから、"二日"とは言わないだろうが。
悪いとは思ったが、軽い溜息と笑みが同時に洩れる。

「言わん事じゃない。少し休まなければ駄目だ」
「んー…」
「もう酒は口にしない方がいい、解ったな」
「…んー… おんなじ…いざぁくと…おんなじ、こっぷ…うれし…」

…まったく……

苦笑が絶えない。僅かに噛み合ってない会話、そして、ふわふわした調子に可愛い科白。何もかもが、愛おしく思えてしまう。
好きな人と同じ杯なのが嬉しいというのは、多分に女心からだ。夫婦なのだから、いつだって二人で過ごせる。 それでも、ノリコはいつもときめいては、喜んでいる。こんな、酒にやられてしまっている時でさえ…

「ん…ざぁく…す…き…」

頼むから、それ以上は煽ってくれるな…―――そんな事を思いながら、目を細め、もう一度背をあやすようにさすってやった。
暫くそうしてから再びノリコの顔を窺うと、長い睫は伏せられ、耳をそばだてなければ聞き取れないくらいの小さな寝息が感じ取れる。

「やれやれ…」

―――眠ったか、と柔らかな髪を撫でる。 肢体を預けている妻の身からはすっかり力が抜け、穏やかになった息遣いと彼女の温もりが伝わってくる。 負担を掛けぬように体勢をずらし、イザークはそっとノリコの身を抱き上げた。
それにしても、とんだ酒を見舞ってくれたものだ。
尤も、失態の責はこちらにある。苦言を呈せば奴が気の毒か。
女房の酒癖くらいちゃんと監督しろ…――と、そんな言葉が返ってきそうだ。確かに詰めは甘かった。

「…悪かったな。ここまで酒で変化するとは、思わなかったんだ」

自らに皮肉を込め、苦笑する。階段を静かに上がり、寝室の扉を開けた。




整えられた寝台が置かれた二人の寝室、いつもはノリコが片付けている場所だ。
寝台の端に膝を着き、そっとノリコを横たえた。

「ん…ぅ…」

僅かに生じた振動の所為か、微かにノリコが呻く。眉もまた少し寄せられ、再び微かな声が上がった。眠りを妨げてしまったか…

「すまん、そっと置いたつもりだったが…」

大丈夫か、と続けて声を掛けた。瞳は開かないが、瞼の中の眼球動作は確認できる。
半分眠りが掛かっている所為か、それでも懸命に開けようとしているのか、僅かに反らせた喉や微かに波打つ目元は、苦しげにも見える。

「ぅ…いた…ぃ…あた…ま…」
「酷く痛むか?」

一晩も休めば治まる部類の痛みだが、余りに辛いなら、薬の助けも借りねばならない。
そんな思いで、再び声を掛けた。だが、苦痛に目元を歪めたままノリコが身体を起こそうとしたので、慌ててその身を支える。

「ノリ…」
「ごめ…なさい… がんばる…きめた…のに… おばさん…に、め…わく…」
「…おばさん?」

よもや、ガーヤと間違えられるとは。こういう展開は初めてだ、とイザークは苦笑する。
―――しかし、この言葉は…

「せっかく…ここで、がんばるって… イザークに…きっとまた、いつか…会える…だから… 楽しみに…がんばる、きめた… なのに…」

自らの身を懸命に支えながらも、目の前の者の腕を掴んで、ノリコは尚も言葉を続ける。

「めいわく…あたし…ごめんなさい、おばさ…」

言い終えて、苦しげに深く息をつく。辛さが残る上に夢の中のようなのだろう。記憶の錯綜か、本当にガーヤと間違えているようだった。

「大丈夫か、酒の所為だノリコ。ゆっくり休めば回復する、無理して起きるな」
「…ぇ」

ノリコの声の調子が変わる。不確かだった瞼を漸く開き、今自分に声を掛けた主を見上げた。途端に、信じられないものを見るかのように瞳が見開かれる。

「…イザー…ク?…ほんと…に?…」
「…ノリコ?」
「戻った…来て、くれた?…ほんとに… イザーク、戻った…迎え…来て…くれた?… ほんと…に?」

みるみる内に涙が溢れ、幾筋も頬を伝う。

「うれし… きっと、会える…信じた…だから、がんばる、あたし…一生けんめ… いつか、イザークに、会えるって… うれしい…うれし…」

感極まったかのように声が震え、堪えきれぬ涙が尚も溢れる。
だが…――そんなノリコに、イザークは眼を瞠ったまま絶句するしかなかった。

「ノリコ…」

これは……奇蹟か…―――
たどたどしい言葉遣い、そして話の中のガーヤの存在。イザークが迎えに来たという、その言葉。何より、イザークの存在にこんなにも喜びを見せる、あどけなさを残したこの表情…

「ありがと…イザーク、ここ、選んでくれた。おばさん、とても優しい…うれしいの、がんばるって、決めた…だから… イザーク戻って、おばさん喜ぶ、きっと、きっと… もう、おばさん、会った? 今、呼…」
「…ノリコっ!」

堪らず、その身を掻き抱いていた。腕の中から、イザーク…と、小さく問う声がする。一層、力を込めて抱き締めた。

…間違いではないのか。…いや違う、これは、間違いではない。
このノリコは妻じゃない。彼女は、酒に眠らされている。
今ここにいるノリコは、ガーヤの許に置いていった、あの時のノリコだ。

奇蹟だ――…それが己を凌駕する。
身体が震える。忘れた事など、ただの一度もなかった。
あの日、ガーヤの許にノリコを置いていった、正にあの日の事を。
離れても、気になった。そしてすぐに後悔する事になったのだ。何度、置いていったのを悔いた事か。そして何度、謝りたいと思った事だろう。
勿論、今のノリコに詫びるのは幾らでも出来る。ただ、それは過去の悔いを打ち明けるというに過ぎない。
あの時のノリコに詫びるのは、叶わないと諦めていた。当たり前だ、時を戻すなど出来る筈がない。
だが今ノリコは、イザークが戻ったのだと思っている。迎えに来たのだと思っている。そして…会えたのを、こんなにも喜んでいる。
今ならば、叶うのではないか。時を遡るそれが、許されるのではないか―――

「ノリコ… ノリコ…」

再び何かが降臨したかのようだった。まるで畏れ多いそれに触れるようだ。
目が眩む。震える腕で、崇めるようにその存在を抱き締めた。

「…イザー…ク?」
「ああ、迎えに来た。あんたを… おまえを、迎えに来たんだ。すまなかった、ノリコ…」
「…どして、イザーク、あやまる?」

…頬を伝うものに気付く。…自分は泣いているのか。
認める、泣きたいくらいだ。こんな…天の悪戯か何の采配かは知らないが、少なくとも今の自分には、奇蹟に違いないのだ。

「謝りたかった、おまえに。一人で置いていってしまった事を…ずっと、後悔していた」
「…イザー…ク、こうか、い?」
「ああ、ずっと…いや、すぐに後悔したんだ、おまえの事がずっと気になっていた…どうしているだろうと、案じていた。赦してくれなんて、烏滸(おこ)がましいが、ただ謝りたかった…」

ノリコの手がそっとイザークの背に回される。その温もりを感じ、イザークはノリコを見つめた。

「うれし…イザーク…うれしい…」
「ぇ…」
「じゃあ…また、旅、出来る…?」
「…ノリコ」
「いっしょ、旅、出来る…? ずっと、ずっと…そ…っ!」

驚いたように瞳が見開かれた。唇が重なり、強く吸われる。

「んっんぅ… あっ…ふ…ぅ…」

突然のそれが呼吸を奪う。僅かに生じる隙間より切ない声が上がるが、驚愕で竦む身を捉えたまま、尚も深く唇は重なる。まるで貪るように、そして、離すまいと念を押すかのように―――…
理性では駄目だと解っている。なのに離すことが出来ない。
衣服をきゅっと掴んでいる震える手を握り、柔らかな口の中に何度も舌を這わせ、小さな舌を、その甘い息を存分に吸い込んでも、まだ―――

「ぁ…」

暫くそうして、漸くイザークは唇を離した。だが間を置かず、懐にしっかりとノリコを抱き締め、頭に頬を寄せる。
心の中では自身に舌打ちしていた。
今のノリコは妻ではない。ましてや、あの時のノリコならば、まだ自分の恋人ですらない。
なのに、何をやっているんだ。これではまるで、ケダモノの類ではないか。
どうすればいい、どうしたら、気持ちを伝えられる。あの頃にはまだ遠耳すら通じてないだろう、頼れない。 だが、このままでは、ただノリコを怯えさせてしまうだけだ――――!

「…イザー…ク…うれし…」

腕の中から再びノリコのか細い声がし、息を呑む。少しだけ腕の力を弱め、ノリコを見下ろした。

「めい、わく…ずっと、かける、思った…今まで、ずっと…でも、うれしかった…イザークと旅、一緒…うれしかった…」
「ノリコ…」
「いつも、いつも、イザーク、あたし、守る…だから、あたし、がんばる、思った… ことば、イザークの、てつたい…それから…いろいろ、おん、かえし…」

言葉を返さず、代わりに腕に若干力を込めた。さっきよりも、一層大切に抱き締める。
いつもいつも、この腕で護ってきた。力強く抱き締め、あらゆる敵から、彼女を護ってきた。
護りたかったからだ。ノリコが大切だったからだ。
失いたくはなかったからだ。

「きらいでない…わかって、うれしい…」
「ノリコ」
「きらいでない… イザーク、あたしの、こと、きらいでない…わかって、うれしい… 迎え、来て、くれる…ありがとう…」

胸元が濡れているのが解る。今も泣いているのだろう。

「ずっと一緒だ、ノリコ」
「イザーク…?」
「もう離さない、これからはずっと一緒だ」
「いっ…しょ?」
「ああ」

最初の告白はノリコからだった。
だが、今度はこちらから言わねばなるまい。

「好きだ、ノリコ」

ぴくりとノリコの身が震えた。

「ずっと、おまえが好きだ…解るか?」

返事はない。だが、再びイザークの衣服をきゅっと掴み、身を寄せてきたのは判った。

「俺の傍に、ずっとおまえを置きたい。傍にいてくれるか? 一度はおまえを置いていった俺だが、それでも、赦してくれるだろうか」

あの時にこれを言えていたなら、その後もノリコを傷付けずに済んだだろう―――そんな思いが湧き上がる。
そろりとノリコの身体が動いて、力の解かれた腕の中で、イザークを見上げた。瞳からは今も涙が溢れ、頬を濡らしている。

「また、一緒…旅…うれし…イザーク、イザークが、だい…すき… ぅ…」

そうして感極まり、イザークの胸にすがり泣き出した。責める言葉を一言も吐かずに。
ずっと、ノリコは、そうだった。再会したあの時も、恨み言は一言もなかった… そして今も、赦すという言葉すら思い寄らぬようで・・・
ただ、傍にいられる、それが、嬉しくて仕方がなくて…

泣かせたくはなかったが、この涙は間違いなく、嬉し涙だ。

「ノリコに、誓う―――」

そう、何度でも、誓える。

「傍を離れない。決しておまえを離さない。絶対だ…」




暫くの間、泣き声としゃくり上げる声とが交じり続いていたが、やがてそれも静かになった。
ノリコの様子を窺うと、涙の筋の残るまま眠りに落ちていた。安らかな寝息、いつものノリコの癖…

これは奇蹟だ。そう、二度と見られない夢だ。
あの時のノリコは、既に自分を慕っていた。想いを寄せ、一杯の涙で別れを悲しんだ。
そして今回、再び会えたのだと、迎えに戻ってきてくれたのだと信じ、喜んだ。
健気な想いを、たどたどしい言葉で懸命に伝え、己に出来る事を頑張ろうと…
あの時も、今も、ノリコの姿は何も変わらない。
そしてノリコは、あの時のノリコとなって、再び舞い降りてくれた。
では自分は… 自分は、想いを伝える事が出来ただろうか。
ちゃんとノリコに伝わっただろうか。


敷布の上にノリコを再びそっと横たえた。だが、僅かに笑んでいるように見える寝顔はそのままで、瞼も開かれる事はなくて。今度は気付く気配はなさそうだと、微笑みを零す―――

二度と見られない夢。だが、自分にとっては、奇蹟の夢だ。
明日の朝、目覚めたら、いつものノリコであるだろう。
今夜の事も、きっと、覚えてはいないだろう。
だが、あの時の気持ちを、一度は離すまでの間に自身の中で生まれていたノリコへの気持ちを、拙いながらも伝える事が出来たと信じたい。
いつの間にか、自分もノリコを必要としていた事を。
それが、愛するという感情であった事を。
随分と遠回りしたが、やっとそれに気付いたのだという事を。

天上鬼と目覚め…
互いの正体をまだ知らずにいた、あの時のノリコに―――




小卓の上に置かれた灯の火を消した。
窓からの月明かりが、存在を主張する。

もう、厚い雲は、遠くに去った。









朝、イザークが目覚めると、すぐ隣で眠っていた筈のノリコの姿はなかった。そして簡単であるが、敷布には整えられた跡がある。
身を起こして気配を辿ると、いつものように階下にあった。穏やかな優しい気配。そして、微かに聞こえてくるのは、歌声か。
急ぎ着替えを済ませ、階下に向かった。

まるで小鳥の囀りにも似た、機嫌良さげな歌声が聞こえる。階段を下りる時にも聞こえていた。
いつもなら先に済ませる洗顔も、今日はまるで時の邪魔をするだけの歯痒いもののように思え、そのまま居間の扉に手を掛けた。

「ぁ」

扉の音に気付いて、居間に続く食堂からにこやかな笑顔が振り返る。
朝陽を受け、茶色の髪がまるで金色のように輝いている。部屋の中が清々しい気で溢れている。

「おはよう、イザーク。そろそろ起こしに行こうかなって思っていたのよ。ね、とってもいいお天気、昨夜イザークが言った通りね、ふふ。やっぱり、イザークって凄い」
「ノリコ…」
「ご飯の用意出来てるよぉ、座っててね、すぐに器に盛り付けるから」
「ああ…いや、洗顔が、まだだ」
「え…やぁだ、どしたの? いつもなら先に済ませるのに」
「そうだな…」

微笑みを含んだ声で応え、目を細めた。眩しかった。そんなイザークを一瞬きょとんと見つめてから、またノリコは笑顔になる。

「じゃあ、すぐに洗ってきて? お膳立てして待ってるから!」
「ああ」

安堵にも似た思いに包まれる。愛しさが湧き上がり、溢れてしまうのを、抑えられない…

水場に向かいながら考えた。今日はノリコがとても眩しく見える。
何だろう、いや、いつもだ。だが、今日は一段と眩しく思える。
昨夜の頭痛も治まっているようだった。何にしても、機嫌が良いのは何よりだ。有難い。

汲み上げた水に朝の光が映えている。
冷たくて、気持ちがいい―――…





ノリコの機嫌良さげに囀る歌声が、相変わらず厨房から聞こえてきていて、自然と顔が綻んだ。
食卓の上にはまだ湯気の立つパンの入った籠、チーズや干した肉を盛った皿、そしてサラダの入った大きめの皿が並んでいる。

「随分と、機嫌がいいんだな」

微笑いながら訊ねる。すかさず無くなるほどに目を細め、ふふり微笑いながら「だってぇー」と上機嫌で、スープの入った鍋を手に戻ってきた。

「凄ぉくいい事があったんだもん」

鍋敷きの上に置いたスープ鍋の蓋を取ると、香ばしい匂いのする湯気が立ち上る。隣には二人分の食器。
いい事とは、何だろう…二人で外出するのは、これからなのだが。
問う視線をイザークが向けるも、ノリコははにかんでみたり、恥ずかしげに視線を逸らしたりしている。

「あの…ね、イザーク…」
「ん?」

声を掛けられ、応えるが、何故だか今度は黙ってもじもじしてしまい、先を話さない。視線が合っても、やはり、笑んだり俯いたりするだけで。

「…どうした?」

思わず微笑う。照れくさそうに俯くのは、ほんのり染まった頬も相まって、なんとも愛らしいのだが。
そんなノリコを微笑ましく見つめながら、イザークは食卓の椅子の背に手を掛けた。

「あの、あのね、えっとね…イザーク、笑っちゃうかなぁ、ふふ」

ノリコの言葉、仕草…全てが微笑いを誘う。本当に何を言いたいのか、恥ずかしがっていてなかなか話してくれないのを、催促の手を入れる訳でもなく、耳を傾けていた。

だから…――――その言葉を、彼女の口から聞けるとは思わなかったのだ…

「あのね…実は、昨夜ね、とても素晴らしい夢を、見たの…」

椅子を引く手が、ひたと止まる。ゆっくりとだが、顔を上げた。

「あ、夢だから、なんていうか繋がりが少しおかしいのだけど…でも、でもね、凄く素敵で、そしてね…とても幸福な気持ちで満たされたの…」
「夢…」

問うように、その音(おん)を発した。ノリコを捉える表情に、笑顔はない。

「うん。あ、ううん、勿論今も凄く幸せなのよ。…でもね、取り戻す事の出来ない時間っていうのかな…それが、最高の贈り物の価値を加えて与えられたというか…今が本当に幸福で、この世界に来て良かったなーって思えるような…」

他愛のない夢なら、幾らでも見よう。そんな次元の話なら、笑って聞き流せる。
だが、取り戻す事の出来ない時間…その言の葉が琴線に触れ、弾く―――
そんなイザークの小さな動揺に気付いているのかいないのか、器に取り分けたサラダやスープを夫の前に置いていきながら、尚も笑顔でノリコの言葉は続いた。

「ガーヤおばさんのお店にいた時があったでしょう? あ、今の所じゃなくて、ザーゴの時の。えっと、イザークがあたしを、おばさんのお店に預けていった、あの時…」

硬直したように動けない。なのに、椅子に掛けている指先だけが、微かに震える。

「またいつか、イザークに会えるかもしれない…ううん、きっと…絶対に会える、だから、おばさんの所であたし頑張るんだって、そう決めて…あの日の夜もね、お手伝いをしたり…でも、お部屋でね、急に頭が痛みだして…」
「頭、が…」

辛うじて、掠れた声が上がる。…あの時だ。
ノリコは、うん――と肯いた。

「おばさんに迷惑掛けてしまう、どうしようって…夢の中で、どうしたらいいのか、解らなくなってしまって…でも頭の痛みだけはずっとあって、もうぐるぐる…なんか、変よね。…あ、でもね、でも…」

またノリコは俯いて、もじもじしてしまった。頬もまた赤くなっている。

「気が付いたらね…目の前に、イザークがいたの… 凄く驚いたの… あたしの事、迎えにきたって… 置いていって、すまなかったって…それで、抱き締めて…くれて…
凄いよね、だって、あの時は遠耳もまだ通じてなかったでしょう? なのに、無意識にあたし、イザークのこと呼んだのかな、それで、イザークが気付いてくれたのかなって今思っちゃうくらい、凄く近くにいてくれて… あ、でね、それから…あの…あの…」

その時の事が思い出されるのか、湯気が出ても良さそうなくらい、真っ赤に染まっている。その先の言葉が出てくるまでに、暫く時を要してしまう程に。

「…イザークが、ね…あたしに… 口付けて…くれたの… 好きだ…って…ずっと、一緒だって…」
「……」

これは夢の続きか。まだ自分は、夢を見ているのか…

言葉が出ない。そうだ、どんな言葉も、最早この場では何の役も果たさないだろう…
これは、夢の続きだ。奇蹟は、まだ続いていたのだ…と――――


「もう、離さないって、抱き締めて…くれたの… あたし、嬉しくて、本当に嬉しくて…わんわん泣いちゃった…ふふ。その後はね、ふわりと、空を飛んだような感じ。それから、イザークと手を繋いで、一緒に歩いたわ…夜の筈だったのに、すぐに昼間になってるの、ふふ、変ね。
目が覚めた時ね、すぐ隣であなたが眠っていて、あなたの腕の中で目覚める事が出来て…本当に幸せだなって思えたの、いつもいつも、一緒にいられて幸せで、でも…でも、今朝は、もっと、もっと、そう思えたの…だからね、眠っているあなたに、そっと呟いたの…『ありがとう』って…
だって、あんな素敵な夢を見られたのは、イザークのお陰だもん…」

「……」

気付かなかった…―――
それだけではない。ほんの触れるだけの微かな口付けを、ノリコはイザークの額にそっと落としていた。 そのどちらにも、イザークは気付いていない。いつもならば、本当に気配には敏感であるのに。
ただ…――目覚めた時、凄く心が軽かったのを覚えている。ノリコと同じ、共の時を過ごせるのはいつだって幸福であるのに、今朝はこれまで以上にそう思えたのだ。

「ね、あの時って、後からジェイダさん達とも会えたりしたし、色々あったから、イザークと再会出来たのはもう少し後だったのにね。やっぱり夢って、何処か変だよね、ふふ。……あれ、笑わないの? イザーク…」

見開き、真顔で聴いていたイザークに対し、ノリコはまた首をゆったりと傾げながら、微笑んだ。


「……ああ…」

思わず、目を細めていた。
漸く、言葉を出せた。

奇蹟だ…―――
笑えない。笑える筈がない。
昨夜だけの奇蹟であると思っていた。夢は終わったと思っていた。
それでもいい。自身にとって、幸福な時の証として昇華されたのだから。たとえそれが己の自己満足でしかないとしても、それでも救いは確かに在ったのだから。
笑うなど、万に一つも在る訳がない。ノリコにその言葉を告げたのは、紛れもないイザーク自身であるのだから。

ノリコを見つめるイザークの表情が、一層優しいものに変わる。
眩しげに、そして大切に、目の前の愛しい存在を己の眼に焼き付けて―――

「笑わない……俺も、同じ夢を見た…」






END

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あとがき。

...後日、イザークさんはバラゴさんに、物凄く感謝しました。
でも、幾ら逸品とはいえ、たかが酒です。バラゴさん、「どしたんだ? イザーク…」と、終始疑問符だったそうな(笑)。。

ちなみに...
旨し朝食に愛妻の笑顔で身と心に存分に栄養補給したイザークさん、この後、"別な栄養補給"をやっぱり存分に致しまして...お出掛けするのが少々、いや、かなり後になりました♪ でも、デートはラブラブだったそうです。
めでたし、めでたし。

ここで一句:
最愛の 嫁の笑顔は 旦那の栄養...(むむ、字余り)



お読みくださいまして、誠に有難うございます。
久々の原稿上げです。あれこれと中途半端状態であったのを、「先にこれっ!」と絞り、集中。色んな障害? がありましたけど、なんとかなんとかなんとか... しかし、なんだか、もっとリハビリ必要ですよ、私...(遠い目)
せっかく戴いた御絵に、出来上がったのがこんな文。ああこれで良いのかしら…とお恥ずかしいやら何やら。あ、でも、ギャグのつもりで書いてないんですよ、悪しからずご了承戴けますれば。 しかし、途中謎の呪文(笑)が発動しておりましたので、ギャグのように受け取れる部分があるかもしれません。それはそれで、楽しんで戴けたら有難いです。

えー…ひなた様にこの御絵を戴きまして、数ヶ月。癖か病気か、御絵を拝見したら、話がもやもや〜っと浮かんできたという(笑) しかし構想を練ったのは良いけれど、やっぱりいつものように話らしく肉付けするのは、なかなかどうして、序盤でぴたりと止まってしまって…わっはっは〜、どうするべ?(←北海道弁) な状態。 かなり日数を要してしまいました。遅くなりまして申し訳ありませんでした。
それでもなんとか形に出来て、ホッとしております。

さて、どうやってノリちゃんに絡ませようか… ちょいと悩みました。
今回の命題の一つ。つまりは、御絵にありましたテーマ♪ 乾杯といってもノリちゃんは酒に達者ではないので、まあ天の悪戯というか、彼女が酒を口にしたら何が起こるか解らない…というところに、ファンタジー的都合を活用させて戴きました。 昔やった某ゲームの中の呪文に「パルプンテ」というのがありました。蓋を開けねば何が起こるか解らないという、ある種大変勇気の要る呪文。そんな「屁の突っ張りにもならん(失礼)」呪文であるのに、結構MPを消費したんではなかったかという(苦笑)。 ノリちゃんの場合も、そんな感じで捉えてみた次第です。
呑んで性格が変わるとか、記憶の錯綜があるとか、色々作用はあるかと思います。私も酒は弱いですが、呑むと大変陽気な笑い上戸になります(笑)
しかしまあ、ここまで極端になるかいね…とかなり怪しい状況ですが、結果幸せだから、イイよね♪ってな感じ。こんなノリで、すみません。

SIDE2 CAFEの開店祝いに戴いた御絵でしたので、考えたこのお話もSIDE2に置かせて戴いたのですが…全然、ぜ〜んぜん、もう、その手の色気ある場面は殆どナッシング。そこはかない程度しか薫ってません。すみません。
最初はこれSIDE1でもイイんじゃね?…とも思ったほど。だから今回、余程のお子様でない限りは、大丈夫かな、多分、、と思いまして、そのつもりでご案内させて戴きました。但し、このお話を読まれた後の「未満様」は、どうぞINDEX or SIDE1にお戻りくださいね。 下からはそのようにしか飛べませんので、ご了承ください。他の御方にもその分お手数が増えますが、宜しくお願い致します。
あー、でも、ご夫婦なので、仲良しさんの雰囲気はぷんぷん匂ってます。すんごい匂ってます。うん、ちゅーもあるし。
最近の少女漫画を読んでないので、その辺よく解らんですが…ちゅー、大丈夫ですよね…。こればかりは、こちらの主観でしかないので、読んでもし不快に思われた方には、申し訳ありません。
逆に、SIDE2という事でそっち方面の内容を期待された方には、多分今回大ハズレです…すみません、すみません…
今回はどうかご勘弁を戴いて…次回、頑張ります♪(←ホントかっ?)。

イザークさんは、昨夜の出来事は明かしてません。
同じ夢を見られたのです。何よりです。じぃぃ〜〜〜んと、感動に浸って頂きましょう(少々振り回してしまいましたが、そこはご免ね♪という事で・笑)。
感動でじぃぃ〜〜んとなっている彼はとても可愛いです。おまけに、健気な娘萌えっ!…な管理人の自己満足も合わせまして(笑) 皆様のお気に入りの中に、今回の話を仲間入りさせて頂けたら、幸いです。


素敵な御絵を、本当に本当に有難うございました。改めて御礼を申し上げます。
「褒美」では御絵を途中に入れるという形だったのですが、今回は背景として組ませて戴きました。
何気なくそうしてみたら、あら、しっくりしてイイんじゃね♪という、安直な理由です。でも本当、しっくり。夜メインな話なのに、黒系にしなかったのがミソです(笑)
拙い話ではありますが、夢見のヘンテコリンさと、ファンタジーの素晴らしきご都合主義の力を借りて(←『日輪の力を借りて、今必殺の…(知る人ぞ知る)』的なノリでどうぞ♪)、ひなた様、そして皆様に捧げさせて頂きます。
こんな話があっても…イイよね♪(*^O^*)という事で。

宜しければご感想などお聞かせください。お待ちしております。
夢霧 拝(10.05.14)

※ 05.15加筆
ひなた様より御絵色違いバージョンを賜りました。ブラウザサイズによっては本文と御絵とが被り見えづらくなってしまうのを案じていたのですが、やはり的中...す、す、す、すみません(汗)
なんと、わざわざ送ってくださいました。ひゃあ〜〜、、お気遣い有難うございますっ! 御言葉に甘えまして、差し替えさせて戴きました。本当に有難うございます。
夢霧 拝






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