町を逸れて、暫く――
 木々はおろか草さえ生えぬ乾いた大地にひっそりと佇むように、その聖母碑の廟はあった。
 長閑なこの東の地でさえ、他の大陸同様かの元凶の影響を受け、大地のみならず人々の心も荒廃へと傾いた先の刻。護りし者もおらず、見舞おう者もまたおらず、忘れ去られる光陰の瀬に服すかのように共に朽ちていくかと思われた。
 だがそれでも、損壊の末路に伏すことなく…――
 再び、光の恩恵を授かる日は訪れた。荒涼たる大地に注がれた天陽の白き灯は、柔らかく、優しく……
 復興の歩みを共に見守り、季節は、二度目の巡りの半ばを迎える――




 コツ、と――石の床を踏む音がして、花を手にしたノリコが入ってきた。
 中央奥に設えてある祭壇に静かにそれを供えた後、そっと顔を上げる。
 たおやかな…それでいて奥深きところに凛たるものを感じさせる、見事な女人の姿を模った碑。その後方、天井に向けて伸びる細窓からは幾筋もの光芒が射し込み、さながら絵のようだった。
 まるで全ての澱みを拭い去るような心地にさせる。人は無いが荘厳さはあった――否、人が無いからこそ、神々しさを湛えていた。
 心に差し込む清々しい何かを噛み締めるように、ノリコは目を閉じ……
 その言の葉を、心で呟いた…――

 ありがとうございます、神さま……
 ありがとうございます… ありがとうございます……



 世に光が注がれ、大地も人も立ち返るようになった。
 立ちゆく本来の軌道を光へと向ける。それは無論光たる導きの賜物であったが、何より人々の精励が結んだ実であった。
 徐々に、だが確実に光が広がっていくのを意識した。自分の為せる全てをそれぞれの地で注ぎ、人々に笑顔が戻っていくのを、地に光が満ちるのを見届け、喜びとした。少しでも役に立てることを、喜びとした。

 そして…――今日も一日、この世に在ることを有難く思う。
 傍にいられるそのことを、何よりも……






Celestial Saga  - セレスティアル サーガ -







「――ご苦労さんだね」

 掛けられた声に振り返る。――随分と年の行った女だった。
 朝の野良仕事からの帰りだろうか、農家の女の風情漂う居住まい、背に負った麻袋には土の附いた道具が僅かに覗く。目を細める度に、女の顔には趣深い皺が刻まれた。

「ここんとこ毎日だ。そうやって花も手向けている。感心なことだ」
「……ここが好きなんです」

 若干恥ずかしげに、ノリコは微笑んだ。そして、もう一度天面を臨む。

「この、光(※)が好き。まるで、すっかり心が洗われるような気がするんです。――それに……」

 一度言葉を置き、ふわり笑んだ。

「不思議だけど……なんだか、とても懐かしい気も……」
「そうさね。入ってきた時、あんたが天道の遣い様(てんどうのつかいさま)に見えたよ」
「……ぇ」

 見開き、それから、おもむろに振り向いた。頬には僅かに朱が差している。

「朝の光は特にいい。それを受けて立つあんたが、とても綺麗に見えた。……懐かしい気がするのは、天道に住まう御方だからだろうて」
「そ……」

 そんな、と小さく口篭もる。言われて益々、頬が染まった。

「こうやって改めて見ると、や〜っぱり、別嬪さんだ」

 顔にまた皺を拵えて、女は人懐こそうに微笑う。ノリコも、少し困ったように微笑んだ。

「……からかわないで、ください……」

 今度は幾分快活に、女は笑った。

「こんな事で嘘は言わないさ。ましてや世辞でもない。一仕事した後で、いいものを拝ませて貰った。
礼を言うよ――」
「――ぁ……」

 にこりと笑んだ女は、背負っていた荷を脇に下ろすと、聖母碑に向かい柔らかく両の掌を合わせ拝礼の形を執り、それからノリコにも一つ礼をして、顔に笑顔の皺を湛えたまま再び荷を背負った。
 開いている扉の向こうの景観を見遣りながら歩き出す道すがら、収穫祭がもうすぐさ――と、緩やかな口調で呟く。
 ノリコに告げたかのように見えたそれは、ただの感慨深げな独り呟き……であった――
 それが証拠に女は特に同意を求めるでもなく、そして振り返るでもなく、ただゆったりと頷きながら一度扉口でその歩を止めると、拡がる長閑な風景を、更には柔らかに注がれる陽光の帯を見上げ、やはり、いい天道だ…――と、ほのぼのとした笑顔で呟いた後、街道を去っていったのだ。

 老女が立ち去った後も見送るようにその戸口を、そして僅かに覗く外を見つめながら暫しその場に佇んだ後、ノリコは、照れくさそうにはにかんだ。
 そうして、もう一度奧の碑を見つめ、ゆっくりとまた瞳を閉じる。

 ……心が、とても軽い…――


 ※ 薄明光線のことです。ここでノリコが見ているのは、窓から射し込む光の筋です。
  参照ページ(以下全て別窓です):
 ◇薄明光線(ウィキペディアより)。 ◇以前、月貴石(セレナイト)でご紹介頂きました「らばQ」より。
 ◇やっほ〜さんの画像検索。 ◇こちらは英文のページです。薄明光線の画像がいっぱい♪(若干重いです)










 荒れた大地に光が注がれ、人々も随分と立ち直ってきた。中央の閣僚人事も穏健派がその座を取り戻し、人々の暮らしは明るい兆しと共に穏やかになってきている。

 ノリコはイザークと、そしてバラゴやアゴル親子と共に東大陸に渡り、アイビスクのここメルアを拠点にクレアジータと灰鳥の元戦士達を助けつつ、大陸のそれぞれの国々を支援してきた。
 前王退位の際、この国では些かならぬ悶着が生じ、新王即位までにはかなりの時を要した。イザーク達が東に渡った折、クレアジータは支援者達の賛助によって既に復廷し更に上位官への昇進を果たしていたが、そうした悶着の事後処断を含め、その後大臣達閣僚の入れ替えに及ぶ水面下での策動に彼らイザーク達の賛助が無かったなら、今日のこの大地の姿を見るのはまだ先であったかもしれない。
 耕作とそれに基づいた産業が主な国益を成す各地では、荒れた大地の再墾に力の弱き女子供も共に起ち、ノリコもジーナと共にその活動に参加。清々しい汗水を流しては、大いに貢献したのだった。
 一方、国を不和に陥れていた者達――闇の勢力に乗じ、ボーニャ一族を始めそれらを支援してきた者達は、各々所業に基づき沙汰を食らった。多くは囚人城への収監、そして尚抵抗を試みる勢力に対しては、断罪も已むなしとされた。それにより――細々とした者達の存在は、未だ潰えてはいなかったものの――その勢力の殆どは衰退へと追いやられていったのだ。
 そしてアイビスクだけではない、この東大陸各地でも光が波となって押し寄せ諸共を覆うが如く、勢力図の入れ換えは為されていったのだった。


 明るくなった町や村には人々の笑顔が戻り、数々の催事や豊かな物語を奏でる吟遊詩人なども見られ、人々の楽しみや拠り所の一つとなっていた。
 そして――今日も町の大路には、早朝から市が立っている。
 復興の象徴である収穫祭が近いというのもあるが、"恋人達の日" がもうすぐであったからだ。
 この "恋人達の日" とは、元は親しい人々への感謝の気持ちを表す日であった。
 どちらかといえば目上の、あるいは世話になった者に対してのであったそれに、親しい恋人達の間で互いに贈り物をしたり、大切な時間を過ごしたりという意味合いが加わり、今では寧ろそちらの方が好まれるようになった。そうした贈り物に向けての様々な品が、市の天幕にも他の産物と共に並んでいるのだ。
 ――この、市を見て歩くというのが、ノリコのもう一つの楽しみであった。
 買い物をするのも勿論だが、まだ準備中の人々の様子を窺うのも好きだった。
 棚や品台を並べ、店構えに勤しむ者――
 もうすっかり店を調え、早々と来ている客を呼び込む活気豊かな店主の声――
 馴染みの客と他愛のない世間話に華を咲かせ笑顔の絶えない、中年の女主人――
 そして、時折ゆるりと舟を漕ぐように眠りこけ、店番が店番になってないような、なんとも微笑ましい老女の姿――
 そうしたどれもが、好ましく思えた。
 雰囲気を楽しみ、品物を見て歩き、時に値段交渉をしながら気に入った物を買い求め…――
 踏みしめられた土、石畳の往来、そして……時折頬を掠め往く風には、芳しい草と大地の匂いが混じり…――
 生国に在らば、異国情緒漂うバザールの光景だ。映像でしか見ることのできなかった人々の息吹だ。
 こちらの言葉を不自由なく話せるようになった今でも、時に不思議な心地を覚える。
 懸命に覚えた言葉……この世界に来なければ、決して無かっただろう。それもまた感慨を呼ぶ。
 運命というものを一度は嘆いた。それでも、幸福を願い、そして切り開き、夢を掴んだ。だが、それだけではない……
 この長閑な風景を守りたいが為に、そして、人々の笑顔を守りたいが為に共に頑張ってきたのだ。

――守りたいね……ずっと……

 そう、ずっと――いつまでも大切にしたい光景だった……



 この市でノリコは刺繍に使う糸を買い求めようと思っていたのだが、その前にもう一ヶ所立ち寄りたい場所があった。
 街角を曲がるともう、広場の方角からは優しい音色が聞こえてきている。
 近くまで行くと、不意にその音が止んだ。趣深い竪琴を手にした優しげな瞳の青年が顔を上げ、ふっと笑み、ノリコも若干恥ずかしげにぺこりと頭を下げた。

「今日も来てくださったのですね、有難うございます」
「あ……いいえ、あの、物語が好きなので……特に、このお話は大好きなんです」
「……なるほど」

 青年の嬉しそうな微笑みに、ノリコもまたふわり笑んだ。

 その青年は吟遊詩人。紡がれる詩は、天上鬼を題材にしたものだった。占者により伝えられた言葉を、語り部は歌にして諸国を旅しながら伝えていた。
 天上鬼は光の側に立った――しかしその言の葉を、より心情に訴える情緒豊かなサーガとして語っていたのだ。
 町の娘達もうっとりと耳を傾けるほどで、今日も、まだ刻限は早いというのに一部の熱心な娘達が、既にそこに陣取っていた。ただ、やはりまだ早い刻限な為、竪琴の調子を見つつ詩人は試し弾きをしているところだった。

「――では、改めて始めから……」

 呟いて、詩人は再び竪琴に指を滑らせた。
 生まれる耳に心地好い音色が、また辺りに響き始める。






 禍(わざわい)を呼ぶ大地の使者よ
 荒涼の声昂ぶらせし者達よ
 そなたらは、沈黙の使徒となるがいい
 嘆きの世の支配者よ
 地の底に巣くう魍魎よ
 そなたらは、刻(とき)の声を聞くことになるだろう
 かの者は求めるそれを光に見いだした
 闇に傾くを快しとはしなかったのだ

 忌まわしきはかの姿であろう
 おぞましき異形の獣
 だが彼は、人で在りたかった
 愛する者を求める為に


 定めし者よ、天領の者達よ
 我は光と成りたかった
 光の者として生きたかった
 この我を認め、許してくれるだろうか
 そして世界は、我を受け入れてくれるだろうか
 哀しみのこの涙を、喜びのそれに変えるのを、どうか…どうか……

 許し、与える
 あなたは優しき力に満ち、柔らかな光に満ちている
 共に、光の道を歩み、進もう
 これは刻の声、そして、かの乙女の声である


 光に導きしかの存在、それもまたかつての幻影の徴
 目覚めさせし者、この者もまた、哀しみの檻に導かれし者である――

 目覚めの者、されど清らかなる乙女よ
 そなたはかの者を喜びとし、尊びとし、そして、愛した……
 総てを灼き尽くせんとする紅蓮の焔、それに身を晒すを厭わず
 果てしなき想いを光の柱と成らしめ、悪鬼の力を永久(とわ)に浄めた
 おぞましきかの姿にもよらず、その者の心をあまねく哀しみより救い
 希(のぞみ)を叶え、更なる光輪の道を共に進む

 ……我には、そなたが必要であった
 ……わたくしには、あなたが必要であった

 悪しき鬼と目覚めは、互いの力を昇華させる
 恒久の光と幸を得る為に――
 そして、定めに嬲られし刻は、遂にその終焉を告げた


 愛している 愛している 愛している
 この心は総て、あなたのものだ
 我の希を叶えてくれたあなたの為に、我は生きよう
 共に、そして永久に……互いの総てを縁(よすが)として――
 我が永遠の刻(とき)は、あなたと共に在る
 我が永遠の刻は、あなたと共に在る

 その傍を離れることはない
 あなたを、永久に離しはしない
 我が永遠の刻は、あなたと共に在る
 我が永遠の刻は、あなたと共に在る

 定めに嬲られし刻は、遂にその終焉を告げたのだ

 共に永久を――
 そして、永劫の幸を――






 あちらこちらからうっとりと溜息をつく者、そして感極まり涙する者の姿が見られ、主人公達に自らを重ね既に心飛ばしてしまっているのか、恍惚の表情を浮かべ伏している者達までいた。
 詩人の前に置かれた小さな箱の中では、しみじみ聴く見物人から投げ寄せられた小銀銭が、チャリチャリと独特の音を立てる。そうした人々に礼を挟みながら、詩人は尚竪琴に指を滑らせ、豊かな感性でもって歌を紡いでいった。

 娘達がこうして夢中になるのも、無理はなかった。
 物語は伝説にかなりの脚色が入り、すっかり恋物語になっている。始まりにはたっぷりの悲運が盛り込まれ、それを乗り越え、本来は相反する存在の二者が恋仲に落ちるという、なかなか切ない内容だ。
 美女と野獣さながらではないが、醜いとされる存在が運命を乗り越え幸福を得るというのは、やはり人の心を打つものなのだろう。光を得てさぞ美しい姿となったであろうその主人公達の行く末は、妙齢の娘達の豊かな想像力をもってすれば、考えるに難くない。
 そしてサーガだけではない、この青年の語りと共にその姿にも人を惹きつけるものがあった。
 背の中ほどまである銀の髪は緩やかに波を描き、その涼しげな面差しは、それ目当てに来ている者もあるほどの美丈夫といっても過言ではなかった。

 然り而して、である。
 心染み入る切ないかの調べ……言うまでもない、サーガは架空の物語だ。
 ――だが……、

「…………」

 ……あながち、嘘でもない。
 それを知っているのは、ここではノリコだけで……
 大好きなその人の姿を思い浮かべては緩みそうになる頬を、慌てて押さえたのだった。



(ノーリコ…)

 憚るような小さな囁き声――不意に掛けられたその声に我に返る。
 振り返ると、可愛らしい声の主はジーナハース、すぐ隣にはその父親のアゴルが立っていた。
 この二人もまた、かのサーガがあながち嘘ではないと知る者達だ。

「ジーナ……アゴルさん」

 アゴルは手招きする。詩人と聴衆に迷惑を掛けない配慮だった。三人は、後方に退いた。

「朝早く出ていったきり戻ってこないから、こっちじゃないかと思ってね。――というのは、建前だ」
「え……?」
「買い物さ。人出の少ない内に見ておこうと、出てきた。そうしたら、ノリコによく似た女性がここに立っていた」

 戯けた口調に、ノリコもはにかんで見せた。

「熱心だな……まあ、このサーガは俺も好きだが。――ま、些か恋物語になっているようだがな」

 これには、さすがに困ったような笑みしか返せない。ノリコは若干肩を竦めた。

「でも、ジーナは凄く好き。悲しいだけじゃないの……とても優しい風を感じる。ね、ノリコ?」
「有難う、ジーナ」
「優しい風、か……なるほどな。――そういえば、イザークも今日は早くから出掛けていったな」
「ええ、何か、用があるからって……」
「ノリコを独り置いてか? あいつらしくない気もするがな」

 横目でちらとノリコを窺うアゴルの目は笑っている。いつもくっついてる二人が別行動を取るのは、あまり無いからだ。
 ノリコも若干の苦笑いを浮かべたが、無論、何かあれば必ず自分を呼べ――と、イザークから言い付かっている。その上で、各々理由があってのそれであり、これであった。

「あたしも、朝は行く所があったから……」
「――ああ、街道の廟だったか……」

 ノリコは肯いた。

「なるほど……だが、熱心だな。そっちもまた毎日なのだろう?」
「お礼を言いたくて……」
「礼? あの寺院は確か無人の筈だと思ったが……一体誰に……?」
「――お父さん」

 周りがなければもっと大きなそれだったろう、些か咎めの意を含んだ、しかしこれまた憚るような声でもって、父親の袖をジーナが引っ張る。――え……? という顔で、アゴルはジーナを見下ろした。

「もう、ノリコは天主様にお礼を言いたいのよ」
「…………」

 ――この辺り、ジーナは父親とまさに目線を合わせられる。この少女の双眸が盲(めしい)ているのを、忘れさせるほどだ。
 娘の言葉に些かではなく目を瞠ったアゴルは、その娘を見遣った後、視線を、やはり瞠ったままゆるりとノリコに移した。僅かではあるが、頬には朱も差している。
 ……その顛末がなんとも可笑しい。ノリコは若干の笑みで応えた。

「そうか……そうだよな……すまん」
「いいえ」
「しかし……毎日飽きもせず、何の礼をしに行くんだ?」
「ふふ、いろいろと」
「……いろいろ、か。……なるほど、深いな」

 そして、三人で、暫し語られる調べに耳を傾けた。

「町も浮かれている。今度の週末の収穫祭もそうだが、恋人達の日なんて催しもあるようだしな」
「とても素晴らしい催しだと思うわ。それに、収穫祭の祝いの踊りも楽しみなの」
「ああ……確か、妖精の踊りだったか。――と、……まさか、ノリコも出る気なのか?」
「ダメかしら?」
「……精々、十二、三歳ぐらいまでだったと聞いているが?」

 お互い戯けた物言いである。勿論、ノリコもそんなことは知っていた。

「じゃあ、ジーナなら大丈夫ね」
「え……あたし? でも……あたしは……」

 急に振られてジーナは戸惑う。まさか盲目の自分が出られるとは考えてもみなかった。
 占石で気配は掴める。しかし町の人間や子等がひしめく中では……まして、急な動きも予想される踊りなどは、もう見当すらつけられないだろう。
 無論ノリコもそれは承知している。その上で、更に告げた。

「大丈夫よ。……実はね、ジーナの衣装、もうすぐできちゃうの」
「え……っ」
「ほう、……ノリコが作ってくれていたのか」
「ええ。他に作りたいものもあって……どうせなら一緒に作ってしまおうと思って。衣装自体は、造りはとても簡単だし」

 笑顔で話すノリコだが、ジーナはまだ、若干困惑気味だ。

「……だけど……あたし、本当に、いいのかな……」
「勿論。だってジーナが出られないって法はないもの。――それに、」

 言葉を句切ると、ジーナの目線に合わせるようにふわり屈み、その肩に手を優しく添えにこりと笑んだ。

「絶対、あたしがなんとかするから」
「……やっぱり、出る気満々じゃないか」

 展開があまりに可笑しく、アゴルはくつくつ笑う。そのアゴルを見上げたノリコも負けじと、くすくす微笑う。

「だって、お祭り大好きだもの。ほら、あたしって童顔だから、ぎりぎり十三歳ってことで通るかも」

 おいおい――と、笑い含みの呆れ声。

「イザークがどんな顔をするか、見ものだな」
「あら、イザークだって解ってくれると思うわ」
「そうだな……ま、奴の場合は、否も応もないだろう」
「え……?」
「ノリコのすることに関しては、な」

 ――したり顔で、微笑う。

「あ……」

 頬を染めてやや俯くと、やはり照れたようにノリコは微笑みを零した。


 収穫祭では、町や村の子等が妖精に扮し街中を踊ったり跳んだりしながら練り歩く。
 この衣装は十三歳以下の子なら誰でも参加できるよう、製作にも負担の少ない簡素な造りとなっている。白い布であれば敷布でも何でも良い。とにかく頭と手足を出せる部分を残して、ざっくり縫えば良いのだ。そして、所々に軽く縫いつけられた小さな鈴が動く度にシャンシャンと鳴る。
 鈴の音は幸運の象徴である。この鈴を踊り歩く妖精達から上手くもぎ取れた者には、幸運が舞い込むとされていた。





 アゴル達と別れたノリコは、今度こそ目的の糸を買い求める為に、お目当てだった天幕を訪れた。
 ――元々、それほど裁縫を得意としている訳ではなかった。
 授業である程度は習っているし、母親のそれも見ていたから基本的なことはできるが、それでも余程必要に迫られない限りは、好んでする業ではなかった。
 こちらに来てからというもの、イザークと共に旅することで、単なる裁縫でも必要に迫られることが多くなった。いつでも何でも揃うノリコの世界とは違う。ほつれや穴の補修そして釦の直しなど、旅の身なら自分でやれて然りだった。
 それでも、最初の内は、何でもそつなくこなすイザークがやってしまっていた。――が、その内にノリコに任せてくれるようになった。
 彼の技がぞんざいだというのではない。ただ、実用面で機能さえ果たしていれば他はあまり頓着しないイザークと違い、ノリコのそれには縫製のちょっとした始末などにも女性特有の気配りが見られ、とても丁寧だった。
 イザークもその点は充分に認めていて、今ではほぼノリコに任せている。無論、ノリコがやりたがった、というのもあったが――
 とどのつまり……いつの時代、どの次元であれ、好きな人の世話ができるというのは幸福の徴であるのだ。

 ――ふと、思い出す。一時期傾倒した外国の手芸品があった。
 とても細やかな作業、まさに芸術の域のそれ……
 課外活動の顧問がたまたま手芸に精通していた為、興味を持ったのだった。
 余程の才と情熱があれば別だが、そうでなければとても短期間で上達できるものではない。
 ノリコが教わり手掛けたそれは初心者向けの小さな作品であった。――が、それでも、下手は下手なりに、やり遂げた時の達成感が大きかったのは忘れていない。
 あの時は、顧問だけではない……確か、家族中で褒めてくれたのだったか……

「……ふふ」

 今回は刺繍がメインだ。作り上げるものが違うから、単純には比べられないが。
 あの頃よりも、少しは、上手にできるだろうか……
 穏やかに糸を見つめながら、感慨に浸る。

 澄んだ空を思わせる、綺麗な碧…――



 そろそろ戻ろうと顔を上げた時、ふとその気配を感じた。
 最も見知る気配。すぐに喜びの表情に包まれる。
 この近くにいるのが解った。用事はもう、済んだのだろうか。
 逸る気持ちに胸を高鳴らせながら、ノリコは通りの天幕の角を曲がった。
 だが…――その曲がった場所で、不意に足が止まる。

 天幕の並びのかなり向こうに、その人はいた。
 こんな近くだ。普段ならもっと早く気配を感じ取れる筈なのだが、この時にはすぐには解らなかった。まさか、気配を消していた訳でもあるまいに――
 しかし、"声" を掛けようとして、それは憚られた。
 黒髪で長身のその男は、天幕の中の者と話をしているようだった。それだけなら、店の者との遣り取りだろう。だが、少しだけ様子が違った。
 天幕の中にいた女が陽の当たる表に出てきて、男を見上げ嬉しそうに話している。
 二人で見つめ合って熱心に何かを話し、女は男の目の前に手の甲を翳しにこりと笑ったかと思えば、今度は男の方も覗き込むように女の顔を見ては、また何かを話している。
 時折微笑む、女の姿……
 距離はまだかなり遠い。巷にはそろそろ人の賑わいもある。
 到底紛れて聞こえない筈のその声が、何故だろう、はっきりと聞こえてくる気がした。
 まるで周りの喧噪が全くの無であるかのように、女の微笑う声だけがノリコの耳には響いてくるようだった。



 ――天幕の陰に、知らず身を隠していた。

「…………」

 何だろう、凄く胸がどきどきしている。隠れる理由などない筈なのに、声が掛けられなかった。
 加えて、急に湧き出たそれがノリコを呆然とさせる。
 …………この感覚は、何なのか。
 掴めない。代わりに手足が震えているのに気付き、狼狽える。

「――いらっしゃい」
「っ……あ……」

 瞬間ギクリとして、声の主を見つめた。
 我に返る。天幕の主から声を掛けられた。違うと言って詮無きこと、そこにいれば客と見られて当然だ。

「ぁ、あたし……あの」
「ん? どうしたね、なにやら顔色が芳しくないようだが」
「い、いえ……ご免なさい……客じゃないのに、あたし……」
「気にしなくていいよ。そんなことより大丈夫なのかい? 気分が悪いんじゃないかね? 少し休んだ方が……何なら人を呼ぶかい?」
「い、いいえ……大丈夫、です……あの、本当にあたし……すみませんでした……」

 頭を下げ、震える声でやっとそれだけ言い終えると、ノリコは逃げるようにそこを後にした。




 ゆるゆると、だが確実に這い上がってくる何かを感じながら走った。
 何だろう、何なのだろう。凄く胸がざわついている。
 胸の内を這い上がってくるこの感覚――
 初めて味わう感覚だ。訳の解らない感覚だ。
 説明のつかないそれが、後から後から留まることなく上がってくる。
 感覚の正体も解らないが、どうしてそれが上がってくるのかも解らない。
 それが余計に心をざわつかせる。
 いっそ、声を掛けたら良かったか。
 この訳の解らない感覚が何か、解ったかもしれない。
 だけど、だけど……

 大切な話をしているようだった。親しそうにも見えた。
 この町にも長くいる。知り合いができてたっておかしくはない。
 でも、それならそれで、彼はちゃんと教えてくれる人だ。
 ちゃんと、教えてくれる……

 それにしても、これは、何なのか。

 解らない……
 言いようのない……

 こんな、こんな感情は、
 嫌だ……







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daa様より戴きましたリク…今回初めての連載仕立てです。
導入部にあたるのでそれほど進展はなく、物足りないかも(苦笑)…すみません。
しかもイザークさんの科白がないっ。

戴きましたリクのテーマなどの説明につきましては、最後の回に。
え……描いてたのと違……い、ます……か?(滝汗)わわわっ。
宜しければ、最後まで、お付き合い、合い、合い……くだ…さい(^ω^;

えーと……
実験的にフォントを大きくしてみました。好評ならば、このまんま続けます。
後日加筆修正する場合があります、ご了承願います。

夢霧 拝(10.10.11




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