Celestial Saga - セレスティアル サーガ - |
2 不意に感じ取った、その気配…―― イザークは僅かに見開いて顔を上げ、大路の向こう、広場の方角を見据えた。 「…………」 町に在れば常に捉えている気配だ。別段おかしなことではない。しかし、いつもとは違う急に乱れたそれに、気配の遠ざかった方向へ視線を据えたまま微かに眉根を寄せる。 ここ暫く、早朝には街道の古い廟を訪ねている。そして、広場の吟遊詩人の処で時を過ごしている筈だった。 「収穫祭の前日には、間に合わせるようにするよ。――なに、仕入元とはすぐに渡りをつけられるからさっ」 店の女の声に意識を戻される。幾らか斜に視線を戻すと、こちらを見ながら両の口角を上げていた。 ――……口元の鮮紅色が、やけに目に付く女だ。 もっとも、逆に言えば、それ以外は大して印象にも残らない。 この類の人種は自らに相当自信があるか、それとも自信を持ちたいかのどちらかだ。この女の場合は、恐らくは前者であろう。 そうした部分を否定するつもりは、イザークにはない。だが、たとえ必要が生じたとしても、積極的に関わりを持ちたいとは思わなかった。 その必要が今回生じた訳だが――ひたすらに致し方なく、である。 「……ああ、頼む」 「だけど、本当にあれでいいのかい? あたしはもっと目立つものの方がいいと思…」 「――必要ない」 ――些かにも間を置かぬ返し、であった。 女の言に畳みかけるようなそれは、考えるまでもない、微細な容赦も期待さえも許さぬ風情である。 だが、初見の者なら恐ろしく無愛想に思えるそれも、イザークにとっては常の己であるに過ぎない。取り立てて親切を押し売るつもりもないし、特別冷たい訳でもない。頓着しないと謂わしめる方がピンとくるか。 但し、全く異なる常もまた彼は持っている。――そう……不器用ながらも、誠心誠意をもって接したい唯一人の存在に対しては…… そんなイザークの "その他大勢向け仕様" に女は些か目を丸め無言になったものの、程なく肩を竦めた。――…どうやら、剣呑の類であると悟ったようだ。 ……一つ、先ほどのそれに加えるなら、この手の人種はまたお節介でもある。 多分に商売人の性分だから、という致し方ない部分は認めなければならないが。 「……ま、いいや。ただ、品を取りにギナの町までウチの亭主を遣ることになるから、その分 "御足(おあし)" も戴くよ?」 「ああ、構わない」 「なんなら、あんたの宿まで届けるけど…」 「それも無用だ」 再びの剣呑に触れたようだ。女はまたも無言で肩を竦め、次いで、苦笑いを溢した。 「あーあ……お客さん、勿体ないこと」 まるでなっちゃいないと言いたげに頭を振る。イザークは訝しげに眉を寄せた。 「せっかくの色男だってのにそんなつんけんしてちゃあ、彼女にも嫌われるってもんだよ。もっと笑わなくちゃねぇ」 些か軽口なその言に、イザークは更に眉を顰めた。 ――三度(みたび)の剣呑である。 だが女も客商売、愛想好くもてなすのも不機嫌なそれをあしらうのも慣れていた。軽く腰に手を当て胸を張った様は、幾分大仰で、得意げに見える。 「気に障ったんなら謝るよ。だけど、間違ったことは言っちゃいないと思うよ。お客さんすんごいイイ男だけどさ、好きな子を落としたいなら、にっこり笑うことも大事だってことさ」 「…………正論だ」 表情を変えぬまま、イザークは応える。 今度こそ思い通りの反応が得られたと、女は腰に手を当てたまま満足げに微笑んだ。 「――だが、いつ笑うかを決めるのは俺で、あんたじゃない」 「……ぇ」 「自分が笑いたい時に笑う。そしてそれは今じゃない。……そう言えば、解るか――?」 「……」 ――まさに、鼻っ面を挫かれたなんとかである。さもなくば、豆鉄砲を食らった野鳩か。そんな何も言えなくなった女から視線を外し、イザークは前金だと告げ、一枚の金貨を品台の上に置いた。 「残金は後日支払う。必ず、間に合わせてくれ。――頼んだぞ」 「あ……あぁ……」 女の方では、そう応えるのがやっとだった。 以降、もはや女に瞥見を与えることなく……天幕を去るイザークの精悍な後ろ姿を惚けたまま見送る女房――その女主人――を、奥の方から出てきた女の亭主が怪訝な顔で見据えた。 「どうしたんだ? おめぇ」 「……あたしの美貌に靡かない男がいたよ……」 「はっ! そりゃ珍しいな。はっはっは!」 「笑い事じゃないよ……まったく……」 こんな剣呑もそうそうないだろう。やられた――と天を仰ぎ、物憂げに女は、その朝三度目の肩を竦めた。 「……あんた、これからギナの町まで行っておくれ」 「ギナか、なんだ特注か」 「そうさ、……聴色の輝桜(ゆるしいろのきおう)(※)……しかも、前金に金ゾルだよ」 感心したとも取れるそれは、どちらかといえば呆れたに近い物言いだったが、その内容に亭主は軽く目を見張った。色味の趣向の上品さもさることながら、前金で金貨とは些かではなく躊躇がない。 たかだか市井の市如きでだ。無論、そんじょそこいらより良い品を扱っているという自負はある。……が、それにしてもであった。 「ほう……張ったな」 「……収穫祭の前日には取りに来るってさ。……もし間に合わなんだら、あたしゃ本当に首根っこ掻かれちまうよ。すまないけど、頼むよ」 「そりゃ余程だ。解った、任せておけ」 「……まったく、いったいどんな姫様なんだろうね」 「そりゃおめぇ、余程の姫様なんだろうさ。なんせ、おめぇの美貌に靡かなかったんだからな。はっはっは!」 女は再び溜息をついたが――無論、イザークに届く筈もない…―――― ※ 聴色(ゆるしいろ):日本の色名より。一斤染め(淡い紅色)です。上品で高級なイメージ♪ 輝桜(きおう)は管理人の捏造色です。やはり桜色をイメージしてなのですが、より上品で清楚で、光沢あってという。 光沢といってもラメみたいなキンキラキンではないです、念の為(笑) 何故向こうに日本の色名なのかという突っ込みは、ナシで(苦笑) あー……要はイメージです、イメージ♪ それからギナですが、前ページのメルア共に管理人の捏造町名です。原作にはありません。 「その方でしたら、金の髪の男性と、同じく巻き毛のお嬢さんと共に私の詩を聴いてくださった後、市の方に行かれたと思いましたが……」 「……そうか、……すまない、手間をとらせた」 市の他の天幕にも、更には広場にも、ノリコの姿はなかった。 気配の方向は既に捉えてはいたが、イザークは念の為、吟遊詩人の処を訪ねていた。しかし、この場で特に何かがあったという訳ではなさそうだ。 だが、気掛かりがあった。気配を掴んだまでは良かったが、思念がまるで弾かれるように通じない。――何故なのか…… 今のイザークにとってそれは、疑念と焦りを生むに充分すぎる材料だ。 「……あの方に、何か?」 「――っ、……いや」 ――だが……探りを入れれば、こうして同じそれが返ってくる。 さりとて、事情を明かして理解得られるものでもない。遠耳の能力を持つこと自体、この世界では稀だ。 「今度は是非お二人で、聴きにいらしてください」 去ろうとしたイザークに詩人が声を掛ける。その瞳をイザークは束の間注視した。 青み掛かった灰の色の瞳を持つ青年はにこりと笑み、再び竪琴に指を滑らせる。 自分とさほど差がないだろう年齢のその青年にイザークは軽く頷き、豊かな音色を背後に、その場を後にした。 メルアの町の中でも、クレアジータ邸は外れの方に在った。爽やかな風が時折抜ける、趣ある林の中に建っている。 一時期、周囲の緑には枯死も見られたが、それもこの一年と半の間に随分と回復した。そして屋敷内の庭には美しい季節の花もまた咲くようになった。 その中に、機嫌好さげに花を弄る男がいた。――バラゴだ。 かなり厳つい風体のこの青年は、近頃は園芸にその才を見いだしたのか暇ができれば花弄りをしている。 この国での役目も落ち着きつつあり、若干の暇を持て余していたほどだ。その為、応接間でふんぞり返っているよりはずっとマシだろうという理屈だった。 だが、才は侮れない。その上、復興による解放感が為せるのか、この家の使用人でさえ舌を巻くほどの腕を彼は見せ、クレアジータからは、 「こちらにいらっしゃる間は、どうぞお好きに弄ってください」 というお墨付きまで貰っていた。そのバラゴが、門扉に姿を見せたイザークに目を留めた。 「ようイザーク、戻ったのか」 朝っぱらからご苦労なこった、と人の良さそうな笑顔に白い歯が覗いた。 「……バラゴ」 こんな所でも自分の趣味か――とは思ったが、若干眉を顰めただけでイザークは何も言わなかった。 大地再興の際にも、その腕と才を惜しみなく提供したほどだ。その上、緑と花を愛でるこの青年は、戦地前線に赴くも厭わない武人でもある。否、厳つい風体に見合う武人であるのに、花も愛でる実は優しい青年なのだと注釈を加える方が相応しいか。 そのギャップには誰もが一様に驚きを見せる。その上、彼がイザークと五年の歳しか違わないと言って、誰が素直に信じるだろう。そして器用に拵えた自前の花冠まで被った日には…… イザークだけではない、世界を震撼させる技をこの青年もまた持っている……と、言えるかもしれない。 このバラゴの才については、無論イザークも認めていた。――が、 ……やはり今は、それどころじゃない。 「ノリコは、いるか」 「?……ああ、さっき戻ってきていたぜ」 そうか、と表情を変えぬままイザークは屋敷内に向かおうとした――それを、バラゴが尚も呼び止めた。 「おい、イザークよ」 「……っ !? なんだ」 「ああ、呼び止めて、悪いな」 応えるバラゴ、飄々としている。 「そう思うなら呼ぶな」 さすがに少々苛ついていた。それを隠そうともせず、代わりに澄ました面を睨めつけた。 「んー……そのノリコのことだけどな」 ノリコという言にピクリと反応する。改めてバラゴに視線を投じた。 「……なんか、あったのか?」 「……どういう意味だ……」 「なんかよう、呼んでも返事もしねえで中に入っちまったし……なにかよ、泣いてるように見えたぜ?」 「っ……」 「俺の勘違いならいいんだけどな、おまえ等……喧嘩でもしたのか?」 「…………」 咄嗟に目を剥いていた。眉間には不快を表す皺までが刻まれる。 まさに冷や水を浴びせられるに等しい。この "喧嘩" という行為ほど、イザークにとって不毛な時の過ごし方はないだろう。 奥歯を噛んだ。そんなもの、する訳がなかった。多分に意識にすら上らないだろう。 盗賊退治や戦で剣を振るうのとは訳が違う。条件を対ノリコに据えるなら、イザークの辞書には喧嘩、乃至(ないし)暴力、いずれの項目すら存在しない。 仮に天地が覆り、二人に喧嘩の理由ができたとして、それでも先に折れるのは間違いなく自分だ。――そんな心境も交じり、噛み締めた奥歯に更に苦いものが込み上げた。 それほどに、ノリコの変事とは、イザークには打撃であるのだ。 この男を打ちのめすに、剣や魔は必要ない。今や天上鬼の呪いさえ、役に足るものとはならないだろう。 だが、一つだけ法がある。そう、それも、たった一度でいい。 ノリコの誹(そし)りあらば、覿面だ。 バラゴの問いに応えることなく、イザークは眉間に皺を刻んだまま、屋敷内に入っていった。 「……あいつ、久々に苛ついてるな……ひょっとして、本当に喧嘩でもしたのか?」 夫婦喧嘩かよ…――と苦笑のぼやきを発しながら、こめかみの辺りをポリポリ掻いた。 足早に、イザークは階段を駆け上がる。――屋敷内にノリコの気配は既に捉えていた。 バラゴの科白ではないが、いったい何があったのかと思う。 急に乱れた気配、思念での呼び掛けにも応じず、しかもバラゴのそれにも応えないとは……却って懸念が増すばかりだった。 出迎える使用人達に都度、お疲れ様でございます、お戻りなさいませ――と声を掛けられるのには些か辟易したが、いちいち返事をするのももどかしい。だが使用人達も、多少訝しげな反応は示したものの主人と客人への対応は心得ているらしく、それ以上深追いしてこないのが幸いだった。 そしてこの二階の奧に、二人に与えられている一室がある。 先ほどまで感じていた気配よりは、幾分鎮まっているように思える。だが、かの気掛かりがなくなった訳ではない。 逸る気持ちを抑えぬまま、イザークは扉に手を掛けた。 ◇ 「いっっ!…………ぁ……」 不意に痛みの走った指を見つめ、ノリコは小さく溜息をついた。 左手の人差し指の先には小さな赤が丸く浮かび上がり、その存在を主張する。 白い指と酷く対を成す、見事な紅(くれない)の色…―― 布を汚してしまってはいけないと針山に針を戻し、鞄の中から取りだしたハンカチ用の小さな布を指に当て、そのまま抱き込むように握りしめた。 指全体がまるで心臓になったようにドクンドクンと脈打つ。 大した傷ではないのだし、こうして押さえていればいずれ出血も止まるだろう。……だが、何だろう、別なものが流れ出ていく気がした。 それを何処か冷静に見つめている自分、そしてそれとは全く別の、ジタバタと狼狽えてしまっている自分がいる。 時を経た分、幾分気持ちは凪いできている。それでもまだ、心の中のざわめきは、完全に消えた訳ではない。 あの感覚が何であるのか、結局今も掴めずにいる所為だろう。そして、訳の解らない感覚もそうだが、その感覚に捕らえられてしまいそうで怖かった。 ジタバタしたといえば――昔、イザークに気持ちを打ち明けた後の、まだ片想いだった時のそれと似ているような気もする。気持ちを確かめたくても、怖くてできなかったあの時―― ただ、今度のそれは、少し性質が違うようにも思える。感覚の正体が掴めてない以上、何処がどう具体的に違うのかはよく解らない。だが……本能的に、それを感じ取っている。 質(たち)の良くないそれだと、感じ取っている―― じわじわと上がってきた感情…… あの感情に囚われてしまうのが嫌だった。なんだか、酷く自己嫌悪を覚えた。 心の中がきゅうと締め付けられた。 喉の奥にもやもやした何かが閊えてしまって、藻掻き足掻いているのに、一向にそれが晴れてくれないのだ。 笑顔になれる感情ではない。それだけはよく解る。 そんな感情が自分の中に芽生えた………… 酷い感情だ―― そう、酷い……そういう形容が相応しい。 声を掛けられなかったのも、本能で告げた感覚だからだろうか。 心の中で冷静にそれを落ち着けようとするのに、片方では、ざわめいては消えない不安が一層自身を厭な感情に追い込んでしまって…―― ずっとそんな感覚でいてはダメだ、そうも思うのに、情けないことにどうしたら良いのか解らない。 誰かに助けを求めたい。でも、誰に、求めれば良いというのか―― 幾ばくかでも改善されるなら――と、衣装作りに、針を手にしてみたが…… 気持ちを集中させるから良いだろうと思ったのに、これでは…… 「なに……やってるのかな……」 ……自分に呆れるばかりだ。 きっとバチが当たったのだろう。 だから、こんな怪我をした…… 「は……ふ……」 深く息を吐き、それから、握っていた布を外してみた。 止まったかに思えたそれは、ノリコを嗤うかのように、また新たな赤をぷつりと浮き立たせる。 「……やだ……、今日に限って、止まんない…………あ、」 再び感じた気配に顔を上げた。イザークの気配、それも凄く近い。 あっと思う間もなく、扉の向こうから声がした。 「――ノリコ」 「イ、イザ……」 返事をする暇もなく、入るぞ――と続けて声がし、開いた扉のそこにイザークが姿を見せた。 些か唖然と見つめてしまった。 いつもとは違うその様子……彼は真顔が多いが、今日は特に…… イザークの方はといえば、ノリコが無事であるのをひとまず安堵する気配を見せたが、だからとて案じるそれが表情から消え失せる筈もない。 「ノリコ……」 「……イザーク? お、お帰りなさい……あの、」 どうしたの?――と訊こうとして、だがその前に傍までやってきたイザークに、両肩を掴まれた。 「イザ……ク?」 「何があった」 「え……?」 いきなりの展開にノリコは些か目を丸くする。 「おまえの気配が急に乱れたの感じた。何があったんだ?」 「え、え、……ちょ……待って、どういうこと……」 「違うのか? 街で、おまえの気配の急変を感じた。そしてバラゴが、おまえの様子がおかしいと……」 「えっ、バラゴさん? ちょっと待って、バラゴさん何処で……」 「バラゴはこの屋敷の前庭にいる。気付かなかったのか?」 「あ……」 庭にバラゴがいたのだとは――全く気付かなかった。では、あの自分も見られてしまっていたのか…… 「やだ、あたし、全然気付かなくって……バラゴさん、何て……?」 「……ノリコが、泣いていたようだと……」 「…………」 なんだか、恥ずかしいやら情けないやらで、ノリコは朱に染まる。泣いていた訳ではなかったが、これはあまりにバツが悪い。 だが……その為に、こうして戻ってきてくれたのか…… 「あ、あのね、泣いてないよ、ほら、こんなに元気……っ」 悲しいかな、こういう時でも彼を心配させてはならないという意識が働いてしまう。……所謂、無意識の脊髄反射という奴だ。 だが、慌てて両手をひらひらと振った為、指に巻き付けていた布が外れ、はらりと落ちた。 拾い上げたイザークが途端に眉を顰めたのも、脊髄反射と変わらない。 「血が付いている……」 「あ」 「怪我をしているのか?」 拙い――咄嗟にそれを思った。 「う、ううん……あの、そんな大した怪我じゃな……ちょっと、ね、針を刺しちゃっ…」 「――見せてみろ」 「ひゃ…っ」 心配させないつもりが、これでは逆効果だ。更なるバツの悪さの中、イザークに手を掬い取られた。 元より血行が良いのか、それとも既にかなり心臓を酷使していた所為か、ぷつんと浮いた赤い色は止まるどころかたらりと流れ、それを認めたイザークの表情が一層気遣わしくなったのは言うまでもなく…… 「あ、の……今日は、何故か、止まりが悪いみたい……でもね、本当、大したことなっ――え……」 不意のそれに、言葉を失くす…… 錆びたその独特の味。自分の口の中にも、拡がった気がした―― 「あ……」 指先の在処、その感触、閉じられた彼の瞳、長い睫が微かに揺れ…… 全てを瞬間意識し、同時に、ぶるり…――と……何かが一気に脳天まで駆けていった。 ほんの短い間なのに、永遠の時の狭間に迷い込んだかのようだ。 ふわふわとしたさなか、意識まで飛びそうになる。 何処か遠くで、鼓動が響く。 「少し待っていろ」 口から指を離すと、イザークは服の内側の返しから布を取り出してノリコの指を一旦包んで押さえさせ、寝台脇に置いた自らの荷袋の中から薬の入った小さな入れ物を取り出した。 要するに軟膏の部類だ。時に薬草で傷や病に応じなければならない旅の生活とは違い、街にいればこういった薬の調達ができる分、利便性がいい。 「見た目よりも刺さりが深いな、それもあって止まり難かったのだろう……痛むか?」 顔から頭から湯気が出そうだ。いや既に出ているに等しい。 真っ赤な顔のまま、手当てされる指をぼうっと見つめ、辛うじて首を横に振る。それだけで精一杯だった。 そんなノリコを束の間見据え、イザークは別な布を細く裂き、それをノリコの指に改めて巻いた。 その後、俯いたまま口の利けないノリコを見下ろし、彼女の腰掛けている寝台のすぐ隣に腰を下ろすと、その頭に手を掛ける。 ――誠に、触り心地のいい髪だ。 掌に馴染む絹糸のようなそれを、イザークは優しく撫でた。 「思念で呼び掛けてみたのだが、弾かれたのは初めてだな」 「――っ!?」 見開いてノリコは顔を上げた。信じられないという顔を晒す。 逆にそれだけ動揺していたということの、裏返しか―― それにしても、イザークの呼び掛けにも気づけなかったとは……益々凹む。まるで水際に打ち上げられた絶命間近の魚のようだ。情けなくも、あぅあぅと喘いでしまった。 そんなノリコを見据え、イザークは僅かに笑む。 「まあ、無事だったから良かったが。……いったい何があった」 「ぁ……」 答えに逡巡する。あれを何と説明したものか…… 「そ……そのね……あの……」 「ん?」 僅かな間が流れ――ノリコは詰めていた息を吐き、頭をゆるゆると振った。 「ご免……なさい……あたし、慌てていて……あの……目に……」 「目……?」 「ぅ……その、ゴミが、ね……擦っても取れなくて……それで、あたし……」 我ながら下手糞な嘘だ、首を括りたくなってくる。と思ったら、今度は掌が後頭部に廻り、もう片方の手が頬に掛かる。その指の腹が注意深くなぞる僅かな力で上向かされ、目を覗き込まれた。 「イ、イザ……っ」 「じっとしていろ」 「ぅ…ぅ…」 どきどきする。ノリコを案ずるイザークにはこれは至極当然の行為で、微塵も躊躇がない。――がノリコには、心臓の早鐘を鎮める暇(いとま)がない。 場合が戦や逃亡中ならまず安全が重視であったから、自分から抱きついたりするのにも躊躇がなかった。それこそ否応なしであり、必死であり、夢中であった。 元凶を斃して以降、任務遂行の為に彼がバラゴと出向いていく時以外は、二人で過ごすことも少なくない。一緒にいられるのが嬉しいのは当然、しかし反面、未だこうしてノリコはあたふたしてしまうことがある。殊に今日は――自分でも掌握できないあんな感覚に陥った後だ。 世界を廻る役目を全うしたその後も、ずっと傍にいたいと願うのに、なんという体たらく――!! という気にならないでもない。 情けない情けない、そんな想いが益体無いことと交じり合ってぐるぐる巡る。お陰で余計に鼓動が早まる。こういうのを、ある意味悪循環と言う。 仲間の誰もが認める恋人同士であっても、まだ全てに気安い訳ではなかった。その辺、だから他人行儀に見られることもある。互いに信頼し合っているのだから問題ないとも言えるが、それもこの二人ならではか…… めでたく結ばれた暁には、悪循環も好循環と名を変えるだろう。 しかし――ノリコがこんな混乱を迎えているさなかでも、思い通り手当てを進めるイザークもまた罪作りなほどマイペースだ。 彼を打ちのめすのがノリコの誹りであるなら、ノリコの場合は、どうであろう。 不意打ちの口説き文句、しかも際限なく注がれるイザークの愛情は、覿面かもしれない。 ――但し、腰砕けになるという意味で。 「少し赤いな……擦らない方がいい。今は、障りはないのか?」 「う、うん……だいじょ…ぶ……」 そうか、と後頭部の髪を再び撫でるイザークの顔には、先ほどのように笑みが浮かんでいる。 「だが、針仕事は少し控えた方がいいかもしれんぞ」 「ぇ……」 「今のその目の状態ではあまりに芳しくないだろう。指もまだ痛む筈だ、無理はしない方がいい」 「ぁ……」 言葉が出てこない。見開いたまま、イザークを見つめた。 「鈴を縫いつけていたのか……?」 寝台の上の広げられた布とその上に置かれた幾つかの鈴に、イザークは目を留める。 ノリコも視線を移し、鈴の一つを手に取った。 「うん……あのね、ジーナの衣装なの……」 「……収穫祭のか」 「うん。この鈴と、それから腰留めの細い布紐をつけたら、できあがりだったの……今日中にはできるかなって思ってたんだけど……」 「……そっちのは、色が違うんだな」 「え?……あっ!」 白い衣装に半ば隠れるように置いてある色の違うそれにイザークは手を伸ばした。――が、触れるより先に、慌てたノリコが取り上げてしまう。 「だっ、ダメっ」 ……その恐ろしく素早いこと。 巻き込まれた哀れな鈴が幾つか、寝台下に落ちて転がったほどだ。幸運の象徴もまさかこんな扱いを受けるとは思わなかっただろう。 手繰り寄せ、隠すように抱え込んだそのあっという間の業を見て、さすがのイザークも呆気に取られた。 「……ノリコ……」 「だ、だ、ダメなのっ、これはね、これは……これは……その……なっ、内緒なのっ!!」 ……まるで説明になっていない。 どう見ても苦し紛れのそれだが、ノリコの全身から、訳は訊いてくれるなという切実な訴えが湯気となって出ているのをイザークも感じ取り、少々の間の後、溢すような吐息と共に笑んだ。 「内緒か……ならば、訊かないでおこう」 「……ご免な……さい……」 内緒事など、できれば増やしたくはないものだ。ましてやイザークに、大好きなイザークに……しかし、これは、これだけは…… 頭からは湯気、そして想いは情けないそれでまみれ、しおしおとなるノリコの頭を、微笑いながらイザークはくしゃりと撫でた。 「少しは、元気になったようだな」 「え……ぁ……」 思い出して、瞳を伏せる。 「ご免ね……あの、いろいろ……心配させちゃって……」 「いや……」 「でも、嬉しかった……有難う。あ、あのね」 問うように見つめてくれる優しい瞳。綺麗な黒曜の光…… 吸い込まれそうになりながら、ノリコは見つめた。 「イザークの用は、もう……終わった、の……?」 「とりあえずはな」 「……良かった、あの……大事な用の途中で邪魔しちゃったかと……思って……」 そんなことはない――そう微笑う声がとても心地好くて、ほっと息つくように自然と笑顔が浮かんだ。 頭に触れていた掌に少しだけ力が加わり、そのまま抱き寄せられる。 少しだけ、また鼓動が高鳴る。なのに、同時に、とても安心した。とても落ち着く気がした。 着衣から薫る、草と風と太陽の匂い。そして温もりの優しさ――不意に涙が出てきそうになり、委ねるように頭をもたげ、目を閉じた。 少しだけでいい…… だから、このまま…… 「……一緒に……いてもいい……? あの……す…」 ――頭の上で、ふっと笑む気配。 「少しだけと言わず、ずっとでもいいんだがな……」 「……ぁ」 心の中でよぎったそれが、伝わっていた…―― ぽんぽんと優しく撫でつける大きな掌。何を遠慮している――という声が紡がれ…… それが、泣きたいほど心地好い。 あのおかしな感覚がすっかり拭われて、尚、心地好い感覚が魔法を掛けたかのように覆う。 この方がいい、この時を大事にしたい。 良かった――という思いで満たされていった。 「……うん、ずっと……」 ◇ 「暫し良いか、訊ねたいことがある」 広場の隅で、詩人は竪琴の手入れをしていた。 不意にその視界に入った少々無骨な声の主の足――ゆるり顔を上げると、やはり無骨な態(なり)の男二人だった。 「……これは……あなたのような方でも、私の歌に興味がおありですか……」 「貴様は質問に答えればいい」 「……」 穏やかに語りかけたつもりだったが――剣呑か、といった態(てい)で、苦い笑みを洩らした。 軽口を一切好まぬ者の言い様だ。これが人にものを訊ねる態度であろうかとは無論思ったが、そういう苦言も通じそうにない。 しかし傍らにいた男が、おい――と最初の男に口を挟んだ。こちらの男は、多少なり通じる頭を持ち合わせているようだ。 「失礼した。そなたの歌を模る者達について訊ねたい。少々の暇(いとま)を願えるか」 詩人は改めて二人の男を見据える。涼しげな青銀の瞳の中に、微かな光が訝しげに揺れた。 「私に、答えられることでしたら――」 天幕で、アゴルといたジーナの躯がピクリと弾かれたように揺れ、動きを止めた。 盲いた瞳を見開く。おもむろに俯き、自身の肩を抱きしめるように掴んだ。 「これがいいな……うん、これにしよう――店主、これを包んでくれ」 「はぃよ」 店主との遣り取りの後、ふとジーナを見遣ったアゴルの表情が曇る。 「ジーナ……どうした」 「お父……さん……」 ゆっくりと父親を見上げたその顔は、夏の時期だというのに震えていた。 〜 To be continued. バラゴさん、それからどうした…… 連載二回目で解決。……嘘です。 これで終わっても良いよね。仲直り(?)できたしぃ♪ 嘘です嘘です。いろいろと明かしてない部分が多いんだな。 なので、まだ続きます。 あれ、夏だったんですか。そうです、夏なんですっ(笑) 夏ってなんかありましたっけ( ̄ー ̄*)ニヤニヤ でも内緒です。 おかしいなぁ、ここにきてもまだ一つもちゅーがない。 いえ、多分あの後、ほっぺた指でなぞったり、頭撫で撫でしたりして、きっとちゅーの一つくらいはしたと思われます(笑) やっぱりノリちゃん、メロリンきゅ〜です♪ 天幕のおねぃさん、イザークさんより五歳ほど上らしい。 名前は……考えてないなぁ、最後まで多分「女」あるいは「女店主」で(苦笑) 灰茶の髪、ウェーブ掛かってます。 きれいなおねぃさん系だけど、イザークさんにとっては関心外、所謂どーでもいい次元。 商売人なので、根は明るめ、あけっすけ、お勧めトークもあるでしょう。 で、あんな感じ。性根が悪い人ではないんですよ。 まあ、彼の女性判断基準はノリちゃんなので(笑) 女性には基本親切ではありますが、でも女性の扱いに慣れてる・好きとかとは違う。 馬が合う、反りが合う。そうでなければ、生理的に避けたい人種もあるという。 んで、次回なんかありそうです。 宜しくお付き合いくださいまし♪ 夢霧 拝(10.10.25) Back Side1 Next |