Celestial Saga - セレスティアル サーガ -




7


「向かってくる奴等は、とりあえずは畳んじまって構わねえな」
「ああ」

 強面だが、何処か飄々たる風貌。その上に申し分のない笑みまで重ねているバラゴのお陰で、話の中身は大層物騒であるのに、何処か緊張感が薄い。――イザークは軽く相槌を打った。

「――さて……民間人、だ……」

 腕を軽く組み、アゴルが呟く。

「……どう、逃すかだな」
「逃げる方向を決めておくってのはどうだ?」

 案を捻り出したバラゴにイザークとアゴルの視線が集まる。

「方向……」
「おうよ。まあ、危ういのは否めないがな。恐慌に陥ったまま方々へ逃げようとするから、余計に恐慌を生むんだろうが?」
「まあ……そういうことだな……」
「だからよ、なんとか逃す方向をだな……一つ、あるいは二つに絞るんだ。できれば……敵方の意表を衝くような……奴等が知らない抜け道みたいな……」
「あのな」

 苦笑を洩らしたのはアゴルだ。

「そんな都合いい抜け道が、在るのか?」
「……ない、か? まあ、そう責めるな。危うい法だと念を押しただろうが」

 バラゴ本人にも苦笑いが洩れた。すかさず、お手上げの態を顕にする。

「いい按配だと、多少は、思ったんだがな……」
「――いや、悪くはない」
「イザーク?」
「逃げる方向に敵方がいない。――そんな都合のいい話はない」
「ああ」
「当初は町の者達を、誰かに逃がして貰おうと考えていたが……それもまた都合のいい話なのかもしれん」
「八方塞がりか、やはり……」

 アゴルのそれに、否――とイザークは呟く。

「都合のいい抜け道はないが、道を作ることはできる」
「何……?」
「向こうにも占者がいるから、何処までその裏を掻けるかは判らないが……ダメならば元々」

 イザークの言いように、些か噛み砕けない面持ちでバラゴは額を掻いた。

「場所と道に幾らかでも見当がつけられたらそれでいい。要は表も裏も、考えるゆとりを与えなければいいのだから」

 そうか、とアゴルが拳と掌を軽く打ち合わせた。

「そういう見当ならば、ジーナに見立てられるかもしれんな」

 イザークは肯く。

「最良ならばそれに越したことはない。だが、どのみち先々には奴等がいる……もはや小細工の通用を期待するのは愚かだろう」
「イザーク……」
「按配が悪くて当然。ならば、いい按配とやらを作ればいい」

 ともすれば破れかぶれのようでもある。些か考えるように宙を仰ぎ、バラゴは幾度か肯いてから二人に向き直る。その顔がにやりと微笑っている。

「いいんじゃないか? 血路を開くと昔から言うぜ。まあ、どうしたって最後は開き直りがモノを言わせるんだからな」
「だな。……しかし、あちらさんが開き直る可能性の方が大きい気がするな」
「笑って言うな、アゴル」
「おまえもな」
「――しかしアレだ、さっきもそうだが、最初はおまえが開き直ったのかと驚いたぜ。まあおまえのことだからそんな訳がないだろうがな、イザーク」

 イザークは静かに腕を組む。

「考えていることはある……上手く運べばいいと思っているだけだ」
「なんだかよう、いつになく慎重だな。まあこれも、おまえン処の清らかなる乙女の為か――や、おまえだけじゃねえ。アゴルの処の小さな乙女もな」

 イザークが軽く目を瞠り、アゴルもまた若干虚を突かれたような顔を晒した。周りを憚って、更にバラゴは少々声を絞る。

「この町の女達にとってもだ。寝首を狩られるに等しい訳だからな……と、これはここだけの話だぜ?」
「……ああ」

 些か神妙な面持ちを交えて、それでも苦笑を交わすバラゴとアゴルだったが、ふと、イザークの表情から動きが消えているのに気付いた。

「どしたよ、イザーク」

 元よりそれほど表情に変化を見せる男ではない。が、更に輪が掛かり――さながら彫像を摸したかのようだ。そんな動かぬ表情のまま、そしてバラゴの問いにも応えることなくすっと立ち上がると、間入れずその身を翻した。
 ――間際に呟く。

「先に戻っていてくれ」
「――何?」

 知らず晒したバラゴとアゴルの素っ頓狂な面と科白。――無理もない。イザークの挙動に反した静かな物言いは何の感情も、ましてや事態の急変すら全く感じさせないそれで――後の二人の疑問符の態にも当然のように応じることなく、イザークは大路の先へと駆けだした。それは、広場のある場所へと通じている。

「お……っ、イザークっ!」

 叫んだが、それが無駄であると悟るのに時は掛からず……
 残された二人は呆気に取られたまま少々の間黙っていたが、やがて、バラゴがやれやれといった態で額を軽く掻いた。ほぼ同時にアゴルからも、唖然の末の呻きとも感嘆ともとれる声が洩れる。

「……イザークは、どうしたんだ……」
「さあな。まあだが、あいつが大方言わずに駆け出すってことは、大概何かあるってことだ。そしてその何かってえのは、大概はノリコだな……」
「ノリコだと?……しかしノリコはジーナと共に、クレアジータ殿の屋敷にいる筈……」

 バラゴは苦笑いを醸しながら頭(かぶり)を振る。

「詳しい按配は知る由もねえが……これだけは言えるな。先に戻っててくれってことは、俺等は行く必要がねえってことさ。援護が欲しいなら初めから、だ。……おい、そんな不景気な面するな」

 バラゴに指摘される――そのアゴルはまるで、些か消化不良にぶち当たった者のような面を晒している。

「まあ今の内だ、祭りの準備の様子でも平和に眺めながら戻ろうぜ、アゴル」
「……あ、ああ……」

 飄々と笑うバラゴにやはり釈然としないそれを漂わせながらも――ややもってアゴルは、そうだな、と同調を示す。

「何せ、あいつが一番悶々としてるんだ……」

 バラゴがぽつりと呟き、今度のことではな、と言葉を足す。幾分神妙な顔をしていたので、アゴルもまた難い顔で肯いた。

「気付いてるか? アゴル」
「――え?」

 出し抜けのそれに首を傾げると、バラゴは今度は人の悪い笑みを浮かべている。

「あいつは顔には出さないが、行動でそれが出る。しかも、比較的すぐにだ」

 アゴルは目を瞠る。――だが、その通りだった。イザークという男とのこれまでの付き合いで得た分析である。バラゴが笑んでいるのは、多分にその性格に起因するところが大きいが、イザークへの対処術といったところでもある。
 言葉のでないアゴルの肩をバラゴはポンポンと叩くと、行こうぜとばかりその背を促し――二人もまた、その場を後にした。









 こちらの動揺を悟られてはならない――
 そう思い詩人は視線を逸らした。しかし、次に顔を上げた時、かの男はまだこちらを眺めていた。不敵な笑みを、その顔に浮かべたままで。
 一度目は偶然を装えても、二度目はそうはいかない。その上、男はノリコが去った方向に再び視線を据えたかと思うと、すぐさま走りだしたのだ。――まるで後を追うかのように。

「……っ!」

 弾かれたように立ちあがる。拙い!――そう思考するまでの間は一瞬にも満たなかっただろう。
 もはや今日の興行どころではなかった。手回りの品全て置いたまま、その後を追った。

 苦(にが)しい思いが身の内に渦巻く。
 駄目だ、彼女は駄目だ――!!
 あのサーガは、自身の想いそのものだった。
 理想と言えばそうだろう。切なき想いと言えばそれも否定はできない。仮に事実であるなら、これほどに素晴らしいことはないだろうとさえ思えた。だがその想いを乗せたサーガが元で、こんなことになろうとは……
 全てが自分の行為に起因しているとも思われた。今更だ。しかし、なかったことにはできない。
 だからこそ、取り返しのつかぬ事態に繋がることは、たとえ微塵であろうが存在させてはならないのだ――



 大路より一本逸れた往来、あの男が追っていったであろう路へ出た。息を整える間もなく辺りを見渡し、周辺を覗いて見るも既に男の姿はない。

「……く」

 焦りの色を濃くした時、背後で呼ぶ声がした。
 振り返ってぎょっとする。――あの男が、そこに立っていた。

「そんなに血相変えて……何か捜し物か、吟遊詩人さんよ」
「…………」

 まさに、度肝を抜かれた気分だ。しかし、鎌を掛けられたと知った今、これ以上の動揺を見せる訳にはいかなかった。

「あの娘なのか。あんたの言っていた"清らかなる乙女"」
「……何のことです」
「あんたが自分で言ったことだ。――忘れたとは、言わせないぜ」

 男は自信ありげに笑んだ。追い込んだとでも思ったか。なのに、不意に詩人が笑いだしたので、怪訝な色をその顔に浮かべた。

「そのように勘違いをなさったのではないかと思い、こうして飛んできたのです」
「……勘違い、だと?」
「そう。前にも申し上げた。あれは占者の言葉を基にした私の勝手な想像の産物。あなたのような勘違い、思い込み……その所為で、謂われもなき町の方にご迷惑を掛けるようなことになってはいけませんから」

 実際、かの乙女であれというのは願望に過ぎない。自分の描いた理想のそれにあの娘が適ったという、それだけのこと。清らかなる乙女がそうそう簡単に見いだせる筈がないのだ。
 男は苦笑いを浮かべた。

「……なるほどな。上手い纏め方だ」
「捜しだして、どうするつもりですか」

 詩人の問いに、男は軽く片眉を吊り上げる。

「それくらい訊ねる権利が私にあっても、咎められるものではないでしょう。違いますか?」

 男はハッと笑う。その後も愉快であるかのようにくつくつと笑い続けたので、詩人は些か戸惑いの色を見せる。
 こんなにも笑う男だったのか――初対面の時など終始無表情、言葉は寧ろ丁寧でさえあった、が……こんなそぶりなど微塵の気配すら感じさせなかったのだが。

「そうだな、もっともだ」

 認めながらも尚笑っていたが、不意に男はその笑みを止めた。

「――絶つ」

 充分な間を置いた上で尚、戦慄を呼ぶその言葉。
 詩人は無言で目を瞠る。一瞬、己の耳を疑ったほどだ。

「疑いのある者は皆。――そう言ったらどうする? 全力で止めるか?」

 尚も絶句する詩人に向けて、男は再び片方の口角を歪める。

「冗談だ」
「な……」

 男は続けて、若干肩を竦めてみせる。

「世の中もすっかり大人しくなった。……穏やかなり、安らかなり。――だが……明日が、楽しみだ」
「……明日……」
「素晴らしき収穫の祝い。そして続く、大切な者達の日……輝かしき復興の象徴。これほどまでとは、まさに光の賜物。さて――」

 言葉を止めた男の視線が、上目遣いのそれを示す。

「――刈り取れるのは、何であるか」

 詩人の呟きに答えを与えたか、それともただ言いたいことを連ねただけか、男はそう嘯き、軽く面ぶせながら微笑う。そうして後、やはり微笑いながら詩人に背を向けたその男は、大路のある方向へと去っていった。
 言葉なく、遠ざかるその背を茫然と見送る詩人の顔は、失せた血の気の代わりに憔悴の色で染まっていた。





 目指す処はもうすぐだった。木立を抜けて、そうしたら――
 だが、不意に後方より片腕を引かれる感触。

「ひゃ…っあ」

 一瞬のそれに驚いたものの状況を判ずる間はなく――引かれたその弾みで世界がぐるりと回る。できたのは咄嗟に目を瞑ること。結果として進行方向から反転し後方の何かにぼすんと、やはり勢いのまま顔を埋める格好になった。

「う……ご免なさ……」

 ――今日はよくよく何かにぶつかる日だ。そんな思いを抱く間もそこそこ、それでもぶつかった弾みで謝ってしまう。だが、おおよそ考えるまでもないだろう、今回ばかりは己の所為でこうなった訳ではない。
 しかし逡巡する間なく更に閉じこめるように抱きしめられ、ほどなく馴染んだ衣服の匂いに気付いて、漸く薄らと目を開けた。

「あ……」

 顔を上げたら、最も見知る人物がそこにいて、目を瞠る。

「イザーク……」
「――どうして……」

 驚く自分に構うことなく問うてくる眼差しは、どう贔屓目に見ても好ましく思っているとは言えず――バツの悪さにノリコは目を伏せた。
 気配に敏い人だ。解っていたのに、訳もなく早く戻れば大丈夫だという思いがあった。

「……あ、の……」

 勿論、ノリコにも事情はある。今回ばかりはどうしても買い物に出る必要があった。黙って出たのも余計な心配をさせない為だった。しかし、それもこれも全ては裏目。
 どうして説明し得ようか。どんな言葉を並べてみたところで所詮言い訳であり、納得して貰える理由にはならない気がして、ノリコは途方に暮れた。
 無論、注意を喚起しなくてはならないのも解っていたが、怠ったのは自分だ――

「……ご免なさい、あの……」
「ノリコ」
「怒ってる、よね……」
「…………」

 イザークから、浅く溜息が洩れた。ノリコがただ悪戯に街に出たとは、イザークも思っていない。無論、好んで自分に逆らったとも。
 しかしどんな理由があるにせよ、事が解決していない以上、不用意に出掛けるのは危険が伴う。ノリコにも、そう伝えていた筈であった。

「……余程の用だったのか」

 少しだけ顔を上げたノリコは、小さく肯いた。怒るというよりは案ずる面持ちで、イザークから再度溜息が洩れた。

「ならば、呼び掛ければ良かっただろう」

 手にしている包み――その中身を手に入れる為に街に出たのだろう、そうイザークは察した。代わりに自分が行けば、わざわざノリコを危険に晒すこともないのだ。
 しかし、ノリコは頭を振った。

「ノリコ……」
「ご免……だけど、今度ばかりは、どうしても……」

 イザークが今度のことで忙しい身であるのは、ノリコが一番解っていることだ。ただでさえ神経を使う中、自分の都合を頼める道理が何処にあろう。まして贈り物の材料を買うのを、どうして贈る当人に頼めるだろうか。――そう顧みてみるも、やはり上手く説明できず、もどかしくも首を振ることしかできない。
 いつもならあれこれと説明するノリコが、今日は言葉少なに頭を振るだけだ。イザークは質問を変えた。

「途中、何か変わったことはなかったか……怪しげな者に出くわしたりとかは」

 え…――とノリコは咄嗟に顔を上げた。

「怪しげな、人……? ううん、そんな人は……あ、ただ……不注意で、ある人にはぶつかっちゃったけど……」
「ぶつかった?」
「広場に近い大路で……戻るのに気が急いていてこれを――」

 と、手にしていた袋に目を落とす。

「これを、落とさないように抱えて……走って戻る途中、つい前方から視線を外してた時にぶつかってしまって……あ、でも何処も怪我はしてないよ。その男の人も大丈夫だったし……」
「男……」

 男という言に、若干眉を顰めた。

「親切な人だったよ。弾みで落としたあたしの持ち物も、落としたぞ、って教えてくれて……バラゴさんくらいの背があったかな……なんていうか、鍛えられた感じの人で……」

 鍛えられた体躯というそれにイザークは訝しげにまた眉根を寄せるが、ノリコに名を呼ばれて、僅かな思考のそれから引き戻される。

「――あの……怒って、る……よ、ね……?」
「ノリコ」
「だっ、て……何処にも出るなって、言われていたのに……あたし……」

 さすがにノリコもしおしおと俯き、言葉を濁す。
 イザークは僅かに眉尻を下げ、言い掛けて開いた口を、倦ねた末に閉じた。こんな項垂れてる姿を見せられては、言いたいことの半分だって言えない。
 バラゴなどが居合わせたなら、多分に盛大に天を仰いだ末の、これまた盛大なる嘆息を交えた苦笑を進呈されるところであろうが。

「――好ましいとは、思わないが……」

 それでも今一度ノリコを懐にふわり抱き寄せ、髪にそっと唇を寄せる。

「無事ならば、それ以上言うことはない」

 その男のことは気にはなったが、ここまで来る途中それらしい男の姿は見掛けなかった。仮に、それが関係者で、ノリコに何かを感じ取るところがあるなら、後をつけていたとしても不思議ではない。そうではないということは、それほど案じる事象ではなかったということか……

「屋敷まで送ろう。もう他に用はいいのか?」
「あ……うん、有難う、もう何もないよ。……後は、帰ってからだから」

 漸く少し笑顔を見せるようになったノリコに、イザークは安堵して頷いた。









 ノリコを無事に屋敷まで送り届け、本来ならば功労者である筈のイザークは、そのノリコから締め出しを食らってしまい、仕方なく階下への階(きざはし)を降りていた。
 最も尊いと思っている者から、今日中にどうしても仕上げたいのだと切々と、しかも申し訳なさげに両手合わせ拝まれては、言葉を挟む道理がないというものだろう。理解を示すことに異存はなかったが、知らず、苦笑もまた洩れていた。
 贈り物であることを内緒にしておきたいという女心である。そうした微妙な女心にさっぱり長けていないイザークではあるが、どういう訳なのかと無粋な詮索までするほど堕ちてはいない。仮にあのまま傍にいたとして、ノリコの気を削ぐつもりは毛頭なかったのだが、実際傍にいられては、細部までの仕上げに集中できないというのもまた、否めない真実で…――
 同じ部屋で寝泊まりしている以上、手製の贈品の守秘に難儀が付きまとうのは、悲しいかな、これもまた一つの宿命と言えよう。但し、こちらの宿命は、譲歩するに容易い。
 そして――イザークは屋敷北庭に面した書斎の扉に、静かに手を掛けた。


 日中でも直陽はあまり射し込むことのない、室温も一定なそこは、書物にとっては恵まれた空間だった。調べ物をするのは勿論、軽く考え事に浸るのにも向いている。
 折しも暮れなずむ頃。空の僅かに残る薄明が佇む主の姿を捉え、斜め後方に微かであるが長い陰影を造り出す。
 応接間には他の仲間もいたが、一人で考えたいことがあった。だから、ノリコに締め出されたのはある意味ちょうど良かったのかもしれない。

 窓の玻璃に微かに映る己の姿に、無意識に唇を引き結ぶ。
 ――最悪の想定など、たとえ頼まれてもしたくはないものだ。
 どんなに大勢の者が攻めてこようが、間違いなく倒すことはできるだろう。――だが、用心した。既に把握している範囲でも、人という身の代が多すぎる。占者を向こうにしているだけに、厄介に一層磨きが掛かっていた。

 戻ってきた皆に、ジーナハースは道を示した。
 真っ当な占いであり結果であったが、少女が幾分困惑を交えたような苦い表情を湛えたのは、見立ての実が必ずしも芳しいものではなかったからだろう。
 必ずしも最善の道と言い切れないのは、懸念の童女と女性の陰が未だ消えていなかったからだ。

「北の街道に合流するのに三つの大路。大路を挟んで更に九つの小路。一番相応しいのは広場からこう行く道。だけど、この道からは強い叫び声も聞こえるの。他の人々のそれとは違う、泣き声と悲鳴と……」

 童女の声はともかく、一緒にいるらしい女性のそれに何処か聞き覚えがあるような――と、ジーナは首を捻った。ただ、それ以上占(み)ようとすると、何故だか声が頭から消えてしまうのだという。

 ――どんな最善を見越しても多分に綻びの源は付きまとう。
 俯瞰する上で致し方ないのは承知。掴めない謎はあるが、現時点でそれが全てであるなら、やはり受け入れるしかないということか。
 だが逆に言うなら、杞憂となるその最優先で逃がさねばならない件(くだん)の標的さえ見失わなければ、避難の取りこぼしは避けられるというシグナルでもあるのではないか。
 なのに――微かではあるが、喉の奥で引っ掛かっているかのような違和感。
 それが今も尚、燻り続けている。

 描ききれない最悪というものがある――
 普段は決して考えたくない"最悪"。だからこそ考えていない。そういう思考そのものを避けている。
 だが、綻びが必ず在るように、描ききれない最悪というのも生じる可能性は常にある。
 慢心している訳などない。しかし、それはいつも僅かな隙を何処からか巧みに衝いてくる。
 かつて、己の弱さを衝いて、その己自身の内に潜む魔に苦しめられたように。
 ――では、一体、何処からであるのか。
 何か、決定的なものを、見逃しているのではなかろうか……

 コツコツ――
 扉を叩く音に、イザークは思考を途切れさせる。振り向くとそこには灰鳥の一人、ローリが立っていた。

「こちらだろうと伺ったので。ノリコに訊ねたら大層忙しそうで、随分と慌てていました」

 ローリの言うノリコの状況にはイザークも眉尻を若干下げたが、僅かに苦笑しながらも頷いた。考え事を遮った来訪者を無碍に断る意向はない。
 近くまできて、ローリが呟いた。

「クレアジータ様に、呼ばれました」

 イザークが問う眼差しを向けたので、今朝方、とローリは言葉を足した。

「役舎まで呼ばれました。私だけではなくダンジエル、ウェイとカタリナも。それで、策を講じていたのです」
「策……」
「あまり刻に猶予がなかったので。軍は件の御仁を王都へ連行していったので、二陣が間に合うかどうかは微妙……なので、こちらで取れる策を考えました」

 無言であるが続きを促すかのようなイザークの視線に、ローリは言葉を続ける。

「些か原始的な手法で、どれほどの人間が思惑通りに動いてくれるかは未知だが、きっかけぐらいにはなるでしょう――」

 要は、安堵させられるだけの材料があれば上々。恐怖が、大丈夫なのだと思えるようになれば尚上々――ということだ。
 今朝イザーク達がクレアジータと会った後、程なく灰鳥の面々が召集された。明日の、民間人を逃す手立てについての講策であった。
 できるだけ安全に逃れられる方法を講じたい、と――

「――それで、住人の家々にビラを投函した訳です」
「ビラ――?」

 ローリは肯いた。
 即ち――占者の声あり、退避との声せし刻は街道を北へ、と。

「街道を、北へ……」
「小さな占者が道を示してくれました」
「――ああ」

 先ほどのジーナの見立てだ。イザークも肯く。

「目的が明確なら、多分に人は走れるんです。どうすればいいか判らない時、人は恐慌に陥りやすい」
「そうだな……だが、手間を要しただろう」

 如何ほどの量であるか、当のビラを作るだけでも暇を割かれるだろうに。

「ええ。しかし手段を選んでいる暇もまたなかったので。口宣伝ならば早いですが、やはり敵方に知れてしまうのは拙いでしょう」

 そう言って、ローリは微かに苦笑する。

「無論、これで万事補える訳ではないでしょうが」

 不測の事態など推して然るべきだろう。唐突な状況、且つビラの内容を信じろという方が難しい。見つけた敵方がそれを揉み消す可能性も多分にある。それでも灰鳥の面々が見物人の避難に立ち回ってくれるのであれば、遙かに頼もしいのは間違いないだろう。
 イザークは頷いた。

「心得ている」



 ローリが辞した後、特に戻る訳でもなくイザークはそこに暫く居続けた。
 取れるだけの手段は講じた。そう、思いたい。明日、できるだけ被害を出さずに済めば、それで上々――……

「…………明日……」

 それを不意に思い出し、眼(まなこ)を見開く。

「…………しまった……前日か」

 まさしく唐突。今日が前日であったこと。失念していた訳ではないのに、結果、失念していたことに気付き、己の不覚に些かではなく目眩を覚えた。
 ノリコが前日で慌てていたのを、目にしているのに……不覚にも程がある。
 ――襲撃者の兆候などなければ、全てが予定通りであった。
 それが詮無きこととはいえ、やり場のない怒りが地味ながらに沸いてきて、尚のこと忌々しくなる。
 既に、薄日は薄闇へと姿を変えていた。

――明日、暇を取れるだろうか……

 今日はもう店仕舞いしたであろう。事態が事態だけにどうなるか判らない。早朝抜け出せるか。できたとしても、件の店が開いているかどうか。
 残金は受け取り時の手はずであるから門前払いを食らうことはないだろうが、先の女店主の態度までもが思い出され……

「…………」

 暮れてしまった空を仰ぎ、浅くはない溜息と共に、イザークは再び途方に暮れた。





「――もう一度言ってくれ」
「……子の泣く声が聞こえまする。泣きながら母親を呼ぶ声。そして、それを庇う者の声が……」

 長椅子に身を預けていた男は手にしていた杯を卓に置き、興味深げに視線を向けた。

「それは町の者か」
「定かではありませぬ。深く占ようとすれば乱れ行き……それ以上は……」
「ほう、ならばその餓鬼か近づく者か、どちらかが可能性を持っているということか」
「……ゼフ殿」
「そういうことだろう? 乱れ行く像とは即ちデラキエルかアジール。これまでは、そういう見立てだった」

 くつくつと微笑うゼフを、占者は些か困惑を交えた複雑な表情で見つめた。

「今日、街で面白い娘に会った」
「面白い、娘……?」
「俺が知り得る限りのどの女とも雰囲気が違ったな。……詩人は、違うとほざいていたが……どう見ても芝居だ」
「…………」

 暗澹とした気が巡る――ゼフの居室を辞した後も、足取りは重かった。これほどに滅入ったのは、いつ以来であったか。

 ゼフに、一つ伝えそびれたことがある。
 だが、伝えたとて、男はそれを止めぬだろう。止めたいと思えば思うほど、虚しいほどの空回りを見た。
 ゼフが目星をつけたというその娘。或いは縁(えにし)ある者か、それともかの者であるのか。
 としても、それを捉え、絶つことは叶わぬ、と。――そう、叶わぬことは解っていた。
 その乱れし像の者は護られる。
 それが解ったのは、捕らわれしゼフの姿を占たからだ。
 止めたいという思いがあればこそ、その結実する姿は当然の成り行きだと言えるのだろう。
 なのに、占者は混乱した。
 そう、混乱した。
 乱れし像の者は護られる。ならば護る者があろう。
 では……と試みて、あろうことか、その護る者もまた、占ることが叶わなかった。

「――――……っ…」

 目眩を感じ、足を停めた。落とした視線の先、地を踏みしめている筈の己の足が震えている――

 両者共に、乱れし像を持つ。これまでそれを何度も占ようと試みてきた占者だからこそ、それが何を意味しているのか解る。
 世迷い言だと思っていた。まさかという思いがあった。今も尚。なのに片方で、或いは……と肯定しようとするそれとで、せめぎ合っている。

 ――それが更に占者を、混乱の淵へと追い込んだ。





〜 To be continued.


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前日にイザークさんにお店に取りに行かせるのを、管理人が忘れていました…
イザークさんの失念ではなく、本当は管理人の失念です…
遠当てで吹っ飛ばしてくれて構いません…
という訳で、サーガ七回目です。

多忙だったとはいえサーガ更新までに一年半…。待っていてくださってた皆様、本当にすみません…
呆れませずお付き合いくださってた皆様、有難うございます…
私事ですが、今月初旬に自身のメンタルにかなりなダメージを食らう事由があり…実は今もまだ立ち直れておらずであります(現時点で未解決です)…
原稿からも遠のいてました、本当にすみません…
ただ、キリの良い処までは先月末までに書けていたので、年の瀬でありますがなんとか推敲…
すっかり遅くなってしまったのに、前回よりも短いお話となってしまいましたが、読んで頂けたら幸いです…
来年は、幸せ一杯あると良いな…(願)
皆様の処へもたくさんの幸が訪れますことを願います…
何方様も、どうか良いお年をお迎えください…

夢霧 拝(12.12.30





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