あまたの星煌燦く天よ -amatanohosi kiramekusorayo- 1 |
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俺はずっと独りだった・・・ 何にも捉われることなく・・・ 得るものもないが、その代わり失うものもなかった・・・ いや・・・ 既に失うだけ失っている。 両親も親しい者も、愛情も信頼も、何もかも・・・ 俺には、もう何も残されてはいない・・・ それを求めることさえ、諦めた。 求めても、求めても、それは得られない。 疑ったことすらなかった。いつかは皆振り向いてくれるのだと信じた。 だが、その期待全ては裏切られ、誰もが恐れ離れていった。 自分は人間なんだ・・・化け物じゃないんだと・・・ たとえ喉が枯れるまで叫んでも、その声は誰にも届かない。 悲しい・・辛い・・・ そして・・・虚しい・・・ 期待しても無駄だ。得られる日など決して来ない。 ならば、求めなければ良いのだと・・・自らを閉ざした。 いいだけ傷付いていた心。修復さえ施せないほどに・・・ だが、もういい。それで良かったのだ。 辛いという感情も捨てた。人との距離も極力置くようにした。 独りに慣れてしまえば、後は楽だった。 その内に、求めていたそれがどんな感情であったかすら忘れてしまった。 それでも良かった。 得られぬ代わりに、煩うこともない。 もう傷付くこともない。 それで良かったのだ。 だが、ノリコと出会ったことで、その均衡が脆くも崩れた。 冷たく、堅く閉ざされていた己の内に注ぎ込んだ温かいもの・・・ 永らく忘れてしまっていたその感情・・・ 再びそれに触れてしまったが為に・・・新たな涙を知った・・・ 温かきものを知ったが為に・・・ 俺の均衡が崩れた・・・ もう失いたくない。 もう傷付きたくない。 だから、得ることすら拒んできたものを・・・ それは、気付かぬ内に・・・ゆっくりと、だが確実に沁み込んできた・・・ 張り巡らせた防御の網さえ潜り抜け・・・ そして・・・何の恐れも抱かず・・・ 俺は何を恐れていたのか・・・ 自分が化け物に変わってしまうことか・・・ それとも、そんな化け物になった俺を恐れた彼女が離れていってしまうことか・・・ ―――何故・・・そんなことを思うのだろう・・・ 答えは一つ・・・ ノリコといることで、孤独が癒されていたからだ・・・ 彼女に魅かれていた・・・ その笑顔に癒されていた・・・ それに・・・気付いてしまった・・・ 何度も疑問を抱き、何度も否定しようとした。だが、否定しきれなかった―――― 防御していたと思い込んでいた。・・・だが・・・・・・ その感情に最も無防備だったのは・・・ 俺の方だ・・・ 血の涙が流れる・・・ 変わりたくはなかった・・・こんな異形の姿・・・ 彼女にだけは、見せたくはなかった・・・ 俺を信頼してついてきてくれた彼女にだけは・・・ 独りの方が気楽だ・・・ 独りに戻る・・・それだけだ・・・ 彼女が離れる前に、俺の方から離れよう・・・ そうだ・・・あの時も俺から離れたんだ・・・ それで良かったではないか・・・ こうなることは解かっていたことだ・・・ 人の姿のままでいたかった・・・ ―――これで独りに戻れる・・・ 違う、俺が欲しかったのはこんな姿ではない・・・ ―――これで彼女から離れられる・・・ 何処か遠い声のようだ。何処かで、そんな意識が駆け巡る。 俺の中の意識なのか・・・ それすらも判らない・・・ 僅かに残る『己』としての意識・・・ それが完全に失われてしまわない内に・・・ 彼女から離れよう・・・ これで、彼女を解き放てられる・・・ 彼女から・・離れられる・・・ 俺が・・俺でなくなる前に・・・ 彼女を・・・この手に・・掛けて・・しまう・・前に・・・ 離れ・・よ・・う・・・――――― ―――――― ―――― 霞む、何もかもぼやけてゆく・・・ もう、まともな思考すらなかった。 何処までが己の意識であるのか、それとも既に--それ--に支配されてしまっているのか、それも判らない・・・ ただ、そんな意識の中で身体だけは無意識に動いていた。 どうすれば良いのか解からぬまま、それでも、本能的に下した判断だったのか、 彼女から離れるかのように・・・地を擦り・・・僅かずつ・・・・・ だが、イザークはその声を聞いた。 溢れる涙を拭おうともせず、魔物に負わされた傷の痛みを堪え、 必死に地を這い己を留めようとする少女の声を・・・ 僅かながら残る意識の中へ、それは飛び込んだ。 「だめっ・・・行かないで・・・行かないでっ!!」 『己』を取り戻させてくれたのは、まさにその声だった。 イザーク・・ イザーク・・ イザーク・・・! 身体中が痛い。ちょっとでも動けば全身が悲鳴を上げる。 でも、そんなこと構ってなんかいられないっ!! 行っちゃう・・・イザークが行っちゃう・・・ あたしの所為だ。 身体、あんなに辛そうだったのに、 あたしを守る為に、イザークは必死になって庇ってくれた。 見るなと言われたのに、あたし・・・見ちゃったよ・・・ イザーク・・・ご免なさい・・・ でも、お願い行かないで・・・! もう置いてかれるのは嫌・・・ あんな思いをするのは、嫌・・・ あたしは・・・ あたしは・・・ 「行かないで、イザーク・・」 あなたが好き――――― 「あたしはイザークが好き」 必死に這い、イザークの手を取った。その手を離したくなかった。 あなたがたとえどんな姿でも、あたしは―――――!! 「どんな姿でもいい・・・何者でもいい・・・イザークが好き」 涙で目の前に見えているそれが歪む・・・ それでも、大好きなその人が自分を見ている。声を聞いてくれている。 暮れていく空の下、激痛で気が遠くなりそうな中、夢中で気持ちを伝えた。 最後に触れた彼の肌・・・唇の感触は忘れない・・・ 「ごめ・・な・・さぃ・・・あたし・・の・・・せ・・・・・・で・・―――」 力が入らない・・・ 目の前に幕が下りてゆく・・・ ノリコの全ての記憶は、そこで途絶えた。 目の前の光景が信じられなかった・・・まるでスローモーションのように、それがイザークの瞳に映る。 呆然と見つめ・・・だが彼女の身体が地面に接触する寸前、殆ど無意識にその身を抱き留めていた。 くたりと力なく・・・ 意識を失った彼女の頬も首も、涙で濡れていた。 頬に掛かる髪に触れようとして、視界に入った己の手の形に愕然となる。 醜いその形―――凍り付いたように動けぬのに、見つめた先の手が痙攣したように震え・・・ ぐっと瞑目する。このまま触れてはならない。最初に感じたのはそれだった。 駄目だ・・・こんな鋭い爪、硬い皮膚で触れては・・・ 彼女を傷付けてしまう・・・ 彼女の身を支えている己の異形の腕さえもどかしく、そして腹立たしかった。 断ち切ってしまいたいほどの衝動、込み上げる苦々しさに震えが止まらない。 呆然と、しかし意識の中では未だ混乱と逡巡のさなか、先刻の光景が次第に記憶の淵へと呼び起こされる。 己がなくなり掛けたそんな中で、彼女が告げた言葉。 微かに記憶に残る・・・『自分』を取り戻させてくれた言葉・・・ ――――・・・どんな姿でもいい・・・ 何者でもいい・・・ イザークが好きっ 弾かれたように眼が開く。目の前に見える光景が何かで歪んでゆく。温かさを持つそれは瞳では留まり切れず、 溢れ、頬へと伝い落ちた。 なみ・・だ――――? 唇が震えた。つい先刻まで抱いていた絶望とは違う温かい何かが内を占めていく。 すー―っと、洗い流されていくような感覚が全身に静かに拡がる。頬を伝ったそれに、震える手を近付けた。 「・・・っ・・」 人の手。視界が捉えたそれは、人の手の形だった。 「・・・・・」 身体が・・・戻っている――――? 自失のまま、己の身を確認してしまう。着衣こそボロボロだが、身体は人間のそれ。 ・・・・戻れ・・た―――― その思いに満たされ、改めて腕の中のノリコを見つめる。 くたりとなっている彼女の顔色が蒼褪めていることに目を瞠る。 暮れ掛けた黄昏の空の所為だけとは思えぬ蒼白さに、鮮やかに蘇ってくる先刻の光景・・・ ――――・・・駄目っ・・・ ―――あっ!! ビクッ・・・! そういえばノリコは・・怪我を・・・! こんな、惚けている場合ではなかった!! 岩塊の直撃を受け、身体は相当傷付いている筈だ!! 「ノリコッ!」 急激に醒めてくる意識。ノリコに声を掛けてみたが、彼女の瞳は閉じられたまま、力なく・・・ 拙いっ・・・早くなんとかしなければ――――!! ノリコの胸元に耳を近付け、鼓動を確かめると、イザークはその場に一旦ノリコをそっと置いた。 さっと見渡し、さっきノリコが倒れた所に落ちていた荷袋を見つけ拾い上げた。 心臓が早鐘を打つ。早くしなければ、との焦りでいっぱいだった。 ノリコの許に急ぎ戻り、荷袋の中の薬を探す。彼女が負っているであろうあらゆる傷の可能性を疑った。 これまでにも彼女が負傷した時には手当てをして遣っていた。しかしこれほどまでに動揺したのは、恐らく初めてだろう。 彼女にもしものことがあったら・・・ 「・・・っ!!」 瞬間浮かんだ恐ろしい想像を、激しく頭を振って否定する。 護って遣れなかった。 力を制御し切れなかったばかりに、彼女を護り切れなかった。 こんな怪我までさせて、何を遣っている!! 彼女を死なせてはならない・・・絶対に死なせるものか・・・!! 己への怒りと、ノリコを案じ焦る気持ちとが交錯する。 だが、傷の具合を確かめようと彼女の着衣に手を掛けた時、硬直したように手が止まった。 これから己がしようとしている事は・・・ 違う、傷の手当てだ。あの状況だ、重症に違いない。 一刻を争うのに、躊躇してる暇など・・・・・・ しかし・・・ 躊躇いが圧し掛かり、ぎゅっと瞑目する。逡巡する間、僅かだが時は経ち・・・ ノリコにもしものことがあったら―――― その思いに再度ハッと見開く。 ぐずぐずしている暇はない。少しでも手当てを急がねばならんのに。 許せ――――!! 彼女を救いたい。ただその一心で躊躇いを捨て、着衣に手を掛けた。 肩から背に掛け肌着に紅いものが滲んでいるのを見つけ、押し寄せる悪い予感に眉を顰めながらも肌を外気に晒した。蒼く腫上がる箇所、更には血が滲む傷口・・・それが幾つも目に入る。やはり懸念は当たっていた。 痛々しい・・・ 酷い痛みだったろう。なのに彼女は痛みを堪え、自分を引き留める為に無理をしてしまった。 己とは違う華奢な身体・・・ 僅かな衝撃でも傷付いてしまう、本当にただの人間の女の子なのに・・・ 己の内を駆け巡る思いに、ぐっと奥歯を噛み締めた。そして震える手で帯を解きながら彼女の服を脱がし、背や他の傷も状態を確かめながら薬を塗り処置を施していった。 こんな応急手当が今の彼女の怪我に何処まで有効であるのか・・・そうした懸念も感じたが、それでも今はこれに頼るしか術はない。薬草を探しに行く間さえ惜しい。だから持ち合わせの薬を全て費やすつもりだった。充分な包帯だってない。だから袋の中から出した布を裂いて包帯代わりにし、薬やシップを施した身体に巻き付けていった。 己の内に走る痛み・・・ それは、鈍くもあり・・・鋭くもあり・・・ 躊躇いは捨てたが、それでもやはり捉われる後ろめたさ・・・目を逸らしたままで出来るなら、気も咎めずに済んだだろう。・・・だが、逸らすことなど出来なかった。 何者でもいい・・・ イザークが好き・・・ 先刻の彼女の言葉が蘇る。 ノリコが紡いだ言葉、そしてその後に触れた唇の温かさ・・・彼女の流した涙の味が微かに混じり・・・ 薄暮れの空の下、隠れ際のその日最後の陽光に嫋やかな彼女の身体が白く映える。 それは、イザークだけに感じられた錯覚であろうか―――― だが、涙の跡が残る頬も、閉じられた瞳も、信じられないくらい華奢な身体、そしてその白い肌も・・・ 彼女の何もかもが、イザークの瞳には美しく映った。 「ノリコ・・」 身体をそっと抱きしめた。少しでも力を入れれば壊れてしまう・・・それほどに華奢な彼女の身体。 壊れ物を扱うように、触れる手の指先まで細心の気を払う・・・ もしも傷付けてしまえば、きっと己を赦せず喉を掻き毟り抉るだろう。それほどに震えた。己の手は冷たいのではないだろうかと、そんなことまで酷く気に掛かるほど臆病になっていた。 じわり伝わってくる温かみ。口元に指を近付け彼女の微かな息遣いを確認するも、それだけでは飽き足らず、互いの息が交わるぐらい傍まで顔を寄せ、頬を掌でそっと包む。 こんなにもノリコのことを気に掛けじっと見つめたのは、初めてだった・・・ 頬に添えていた手の指先で今度は唇に・・・躊躇いの一瞬の間の後ゆっくりそっと触れる。それは微かな触合い・・・しかしそれが稀なる輝石のように尊く思え・・・ たったそれだけの事であるのに、泣きたいのか、叫びたいのか、感極まった想いが絶えず込み上げ、喉の奥でぐっと堪えた。 トクン・・・ トクン・・・ 伝わってくるノリコの静かな鼓動・・・ 温かい・・・ 生きている・・・ どうか、死なないでくれ・・・ 今まで感じたことがないほどの温かい感情、そして何かでぎゅっと押し潰されるような切ない思い。それが留まることなく込み上げ、己の内を駆ける。 そして、もう一度彼女の嫋やかな肢体を抱きしめた。涙の味を払拭させるほどそれは甘く切ない香りを放つ。 自身の傷をも全て包み込んでくれるように感じられ・・・ 新たな涙が頬を伝った。 彼女の荷から就寝用の衣服を取り出し、身に負担を与えぬよう注意を払いながら着せて遣る。 そして涼気に冷えてしまわぬように、荷から取り出した大きな布で彼女を包んだ。 ふと、己の格好に視線が行く。原型がどうであったかすら思い起こせぬほどボロボロになった着衣・・・ 「・・・・・」 己の意思だけでは、どうすることも出来なかった・・・ 今回は・・・どうにか、戻ることが出来たが・・・ 今は人のそれに戻った掌を見つめ、込み上げてきた苦いものに目を細める。 別な服を荷の中から取り出し着替えた後、その荷袋を肩に負う。 ノリコの傍に歩み寄り、身体に負担を与えぬよう注意深く抱き上げた。 深く眠るその身はくたりとして、動くことはない。 腕に感じる彼女の重み。その存在―――― これまでにも、幾度も彼女を抱き上げる機会があった。時には背負うことも・・・ 重くはなくとも、己の腕は彼女の『重み』を覚えてしまった。 そして・・・ 異形の姿から元に戻れたのは・・・ノリコの声があったから・・・ 奇しくも、目覚めに助けられた形・・・ それを思い、息をつく。 己の内に戻ってくる力。疲労感や身体の軋む厭な感じはもうない。ドクドクと脈打つあの独特な感覚も。 制御不能だった先刻までとはまるで違う。どうやら、普段の自分に戻ったようだ。 イザークは周囲を見渡し次いで上方を見上げた。襲われたその場所は谷になっており、周囲は高い岩壁が聳り立つ。 皆の所に戻るにはこれを上らねばならない。だが、中腹にある起伏を使えば山道まで戻れそうだった。 内在する両脚の力に意識を集中させ、壁の起伏目掛けて跳躍した。ノリコを慮り、振動を極力与えぬように気遣いながら、次々と岩壁の起伏を伝い山道まで上がった―――― 既に陽は落ち・・・ 薄闇は急速に己の縄張りを拡げ、そして宵闇の真黒色へとその姿を変えてゆく。 そんな夜空に彩りを添える月が艶やかなる姿を顕し、あまたの星達は共に |
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