◆ 君につなぐ想い 18 ◆


『本当に・・・こっちの世界は、便利なんだな・・・』

シャワーの柄を眺めながら、イザークはため息混じりに苦笑し、そう呟いた。

『やっぱり・・驚いた?・・・』

典子はイザークの背中を洗いながら、ややはにかんで訊いた。

『そうだな・・・湯をこんな風にいつでも使えるというのは、確かに有難いと思う・・・
 ・・・ここに来る途中でも、驚く事はいろいろあったが・・・ノリコから、ある程度
 ここの世界の事を聞いていたお陰で、助かったがな・・・』

イザークは微笑いながら、応える。

『そっか、・・・良かった。・・・でも、あの時の話が役に立つなんて、思わなかった・・・』



不意に、イザークは典子に訊ねる。

『ノリコ・・・・・・こっちの世界で暮らしたいか・・?』

急にそんな事を訊かれ、典子は驚いてしまう。

『え・・・どうしてそんな事・・・?』
『いや、・・・この世界の方が、おまえも暮らし易いのではないかと・・・ふと思ってな・・・』
『イザーク・・・』
『もし・・・おまえが望むなら・・・、』

イザークは前を向いたままで、そう話す。こちらからはその表情は伺えない。
だが、鏡に映っているので、夫の表情は解かる。
鏡にはイザークの真剣な表情も、典子の驚いている表情も映っていた。

『・・・おまえが望むなら・・・俺は、どちらの世界でも、構わないと思っている・・・』

そんな事をイザークが言うなんて、典子は思っていなかった。イザークと再会出来た嬉しさで
胸がいっぱいだったのが、考えてもみなかった選択肢に、頭の中が混乱してしまう・・・

典子は何も言えないままで、暫く俯いていた。
だが、ようやく言葉を紡ぐ。

『あたし・・・そんな事、考えてもみなかった・・・』

イザークは穏やかな表情で、やや後ろを振り返る。

『・・・すぐに決めろとは言わん。ゆっくり考えて、それで決めればいい・・・』
『・・・・・・・』

色んな想いが頭の中を駆け巡る。不覚にも涙が滲んで来て、典子の手は
止まったままになる。そんな気配に、イザークが後ろを伺う。

『ノリコ?・・・どうした、泣いてるのか?』

涙を見て少し慌てたイザークは、典子の肩をそっと掴むと、心配そうにその顔を伺う。

『ノリコ、どうした?・・・俺の言った事が気に障ったのか?』

典子は、イザークを見つめた。僅かに滲む涙を手で拭い、頭を左右に振った。

『ううん、違うの。・・・ごめんなさい、なんかいろいろ考えちゃって・・・
 違うの、泣いてないよ、・・湯気の所為ね、えへへ・・・』

そして、取り繕うように笑顔を見せる。

『ほら、まだ洗うの、終わってないよ。早く洗わないと風邪引いちゃう。』

バススポンジを持って、にっこり笑った。



典子はイザークの身体を洗いながら、言葉を続ける。

『・・・イザーク、あたしね、向こうの世界での暮らし・・・好きよ。』
『ノリコ・・・』

『いや、そう言ってくれるのは嬉しいが、ここで育ったおまえには、向こうの暮らしは不便では無かったか?』
『・・・そうだね・・・確かに、こっちの方が便利な物が多い。・・・でも・・・そうじゃないの。』
『そうじゃない?・・・何がだ?』

訊かれて、典子は暫し俯いた。じっと何かを考えているような仕草・・・
そして、ようやく口を開く。

『・・・こっちに飛ばされてから、毎日のように感じてたの。・・・何だかこう・・・言いようのない違和感・・・』

『違和感・・・』

訝しげに見つめるイザークに、典子は頷いた。

『うん・・・。便利な物に囲まれて、ここの家も、とても懐かしい筈なのに・・・全然喜べないの。
 酷い違和感と、何とも言えない居心地の悪さ・・・そして虚しさしか感じる事が出来なくて・・・・・・』

『あたし、向こうで生活して、とても楽しかった。・・・あなたと構えた二人のお家、
 そして優しい人たちにも囲まれて、毎日がとても充実してた。
 便利な物が無くたって、色々工夫しながら生活するのは楽しいし、色んな事を覚えて
 いっぱい勉強も出来たよ。向こうにいたからこそ、得られた事がいっぱいあるの。
 ・・・でも、こっちでずっと暮らしていたら、そんな大切な事に気が付かないままで、
 毎日ただ惰性でやってただけかもしれない。・・・便利さを当たり前だと感じて・・・』

『ノリコ・・・・』

典子はシャワーの柄のスイッチを押して湯を出すと、夫の身体の泡をキレイに流していった。

『向こうでは・・・生きていられる事がとても大切だった。だからいろんな事に感謝出来た。
 ・・・あなたと出会って・・・あなたと一緒だったから・・・あたし、生きていけたの。
 頑張ってもこれたし、楽しくもやっていけた・・・・・・・なのに・・・・・・・・』

止めたシャワーの柄を持ったまま、典子は黙ってしまう。
俯いた彼女の瞳からは、堪えていた涙が一筋流れ落ちた。

『・・・ノリコ?』

イザークに肩を掴まれる。ゆっくりと顔を上げた典子の瞳は、やはり涙で濡れていた。

『・・・イザーク・・・あたし、便利な物なんて・・・要らない・・・』

その涙を拭おうともせず、典子は言葉を続ける。
イザークは妻の涙に、やはり動揺する。その身体をそっと抱き寄せた。

・・・持っていたシャワーの柄が下に落ちる。

『ノリコ・・・』

『・・・この家で目が覚めてからずっと・・・凄く辛かった・・・元の世界にいるのが、こんなに苦しいなんて・・・・・・』

典子はイザークに抱かれながらも、気持ちを話すのを止めない。

『こんな風に、もう一度あなたと逢えるなんて・・・思わなくて・・・あたし、殆ど諦めていた。・・・だから、だから・・・
 便利な物なんて、何も要らない・・・あなたがいなければ、あたしには何の意味も無いもの・・・』
『!・・くっ・・・』

イザークは抱き締める腕に力を入れた。典子の身体は、夫の腕の中にすっぽり収まってしまう。
力を入れ過ぎたら壊れそうに思える程に、今の典子の身体は華奢だった。
そんな妻を、堪らなく愛おしく感じる・・・

『・・・この世界に来た時に感じ取った、おまえの気配・・・ その奥底から、悲鳴のようなものが聞こえて
 くるのを感じた・・・』
『イザーク・・・』
『・・・家族の元に帰れても、おまえは苦しんでいたのか?・・・癒されてはいなかったのか?』

髪に唇を寄せ、労わるように抱き締めながら、イザークはそう訊ねた。
典子は少し身体を離し俯くと、コクンと頷いた。そして、ゆっくりと口を開く・・・

『・・・勿論、家族には逢いたいと思っていたよ・・・ だけど、前にも言ったけど、その為にあなたに二度と
 逢えなくなってしまうなんて・・・絶対に嫌だった・・・・・・
 でも、あんな風に、いきなりこっちに飛ばされて・・・ どうしてなのか、どうすれば良いのか全然解らなくて・・・
 戻りたいのに戻る事も出来なくて・・・もうあなたに逢えないのかって思ったら・・・涙ばかり・・・
 皆にも心配かけるから、元気にならなくちゃって思うんだけど・・・ でもダメなの・・・ 頭の中ではいつも
 混乱してて、現実を受け入れられなくて・・・あなたの事・・・思い出しては、あたし・・・あたし・・・』

『ノリコ・・・』

再び典子を掻き抱く。安心させるように、自分の腕で包み込むように・・・

『あんな形でこっちに戻って来ちゃって・・・・あなたに助けを求めたけれど、間に合わなくて・・・
 あたし、申し訳なくて、自分が、とても・・・情けなくて・・・』
『・・・ノリコ、解かった・・・もういい、もう何も言うな・・・』
『・・・イザーク・・・』

逢いたかったの・・・と、何度も切なげに繰り返す。愛しげに典子の髪に頬を寄せながら、イザークは言葉を続けた。

『・・・寂しい思いをさせてしまったな・・・・
 こんな風におまえを、悲しませたくはなかったのに・・・』

イザークの背中に、典子はそっと手を回す。

『イザーク・・・ううん、あなたの所為じゃない。・・・あたし嬉しいの。
 イザークは、あたしを迎えに来てくれた。もう逢えないかと思っていたから・・・だから・・・
 あなたに逢えて・・・嬉しくて、また、あなたの傍にいられるのが・・・嬉しく・・て・・・』

『ノリコ・・・・!』


典子の顎に手を掛け上を向かせ、唇を重ねた。深く熱い口づけ・・・
その頭を片手で掴んで支え、もう片方の手で背中を支え、
柔らかな唇を、そしてその奥の熱い塊とを貪るように絡ませる・・・

角度を変えては、何度も触れ合った・・・・・・

典子も再びイザークの首に手を回し、夫の求めに応じる。
身体の奥から熱い何かが湧き上がり、溢れてくるような気がした。
このまま溺れていってしまいそうな・・・



幸福感が全身を満たしていく・・・―――――







――――――・・・


『今度はおまえの番だ・・・ 洗ってやる・・・』

名残惜しげに唇を離すと、イザークは典子を優しく見つめて言う。

『・・・え・・・あの・・自分で出来るよ・・・』

恥ずかしげに答えるも、イザークは容赦しない。

『だめだ・・・俺が洗う。これは命令だ・・・』

有無を言わさぬその物言いに、典子は驚いてイザークを見つめる。

『・・イザーク・・』

・・・自然と顔も赤くなってくる。

『・・・俺の言う事は聞け。・・・いいな?』

ニッと笑う口元、悪戯な光をたたえた瞳。だが、典子を見据えるその瞳は、優しく労わる色で満ちている。
ドキドキしながらも、典子は黙ってコクンと頷いた。




彼が、労わるように髪と身体を洗ってくれている間、
気恥ずかしさもあり、典子はずっと頬を染めて俯いていた・・・・

イザークは、そんな典子も愛おしく感じていた。・・・・だが、おもむろに口を開く。

『・・・やはり、前より痩せたな・・・おまえ・・・』
『え・・・』

・・・驚いて、典子は顔を上げる。お互いの視線が絡み合う。

『これ以上痩せたら、身体が無くなってしまうぞ?・・・ん?』
『・・・ぁ・・・ご、ごめんなさい・・・』

イザークの口調は優しく、決して叱るものではないのだが、
まるで叱られた子どものように、典子は俯き、うなだれてしまう。

『・・・あの・・・どうしてもダメで・・・食べようとしたら・・・吐いて・・・身体が・・・受け付けてくれなくて・・・』

心臓がドクンドクンと鳴っている。言葉を一つ一つ確かめるように、典子は申し開きをした。
だがその声は、消え入るように小さい。
そんな妻を優しく見つめ、イザークは彼女の濡れた髪に手を通し、梳き下ろしながら言う。

『・・・怒っている訳ではない、ノリコ。・・・俺が来たんだ・・・おまえの傍にいる。
 だから、ちゃんと食べろ、・・・いいな?』

そう言うと、またその身体を優しく抱き締める。
触れている身体から、イザークの鼓動の音が聞こえ、伝わって来る。


トクン・・・トクン・・・トクン・・・・・・・・


徐々に心が落ち着いてきた。安心する・・・

『・・・う・・ん・・・イザーク・・・』


イザークが気遣ってくれるのが解かる。それがとても嬉しい。

あなたの言葉一つで、どうしてこんなに安心出来るんだろう・・・
あなたの前では、あたしはまるで子どものよう・・・

やっぱり、あなたの腕の中が一番安心出来る・・・






湯に浸かり、イザークは大きく息を吐いた。

『・・・やはり、おまえを追いかけて来て・・・良かった・・・』

そう言い、ふっ・・・と、微笑う。

『イザーク?・・・』
『チモ達にはだいぶ無理をさせてしまったが・・・それでもこうしてノリコに会えた・・・』

典子は黙って頷いた。

『・・・何よりもおまえを、この世界の誰にも渡したくはなかったからな・・・』

ドキンッ!・・・――――
典子の心臓が、一つ大きく・・・跳ねた。

『ぇ・・・・・』
『・・おまえを独りぼっちにして、他の男を伴侶にでもされてしまったら・・・悔んでも悔みきれん・・・』

そう言って、苦笑めいて微笑うと、イザークは髪を掻き上げた。



いつもよりも饒舌な夫に、ドキドキした・・・

本当に・・・ドキドキが収まらない・・・
あたしの心臓は、本当に金属疲労したみたいに・・・壊れてしまうのではないか?・・・
そう思えるくらい、今日一日でこんなに酷使してしまっている・・・



典子は下を向いてしまう・・・・・・

『・・・そ、そんな・・・あたしは・・・』



『あたし・・・誰か他の人となんて・・・考えた事もなかったよ・・・』
『・・・ノリコ・・』
『イザークに・・・もし、あのままで、もう逢えないとしたら・・・あたしはずっとこの先・・・
 独りでいようと思ったもの・・・』
『・・・そう・・なのか?・・』

典子は、湯舟の水面に両手を上げ、すっと伸ばす。・・・湯がちゃぷんと波打った・・・
そして、伸ばした指先を浴槽の淵に掛け、コクリ・・・と、頷いた。

『だってね・・・』

『・・・こっちに飛ばされてからも、いろいろと思い出していたの・・・あなたの事・・
 あなたと樹海で出会ったあの日からの事・・・ずうっと・・・』

典子の瞳には、少しの澱みも無かった。澄んだ美しい光を纏っている。
その瞳がイザークの心を捉えて離さない・・・・
彼は妻の話す言葉を聞き漏らさずに、じっと耳を傾けていた。

『あなたとずっと旅をして・・・その間に感じた、自分の想い・・・いろいろな事・・・
 思い出して・・・そして考えて・・・』

今までの事に思いを馳せるかのように・・・典子は瞼をゆっくり下ろす。
・・・その長い睫が揺らいだ・・・――――
そして、瞳を閉じたまま、その口元は微笑みの形を帯びる。

伸ばしていた両の手を口元に持ってきて、きゅっと合わせて握り、下唇につけ、そして尚も言葉を続ける・・・

『・・・あたしにとって、命賭けで誰かを愛する事なんて、初めての事だし・・・
 おそらく人生の中で、もうこんな事はないだろうなぁ〜って思ったの。
 自分の気持ちに嘘はつけないし、イザーク以上に誰かを好きになんて・・・
 絶対になれないって思ったから・・・』

『・・・ノリコ・・』

典子は目を開ける。その頬がほんのり赤い・・・ 湯で温まり、少し上気している所為もあるからか。
そして微笑みを湛えたままで、その眼差しをイザークに向けた。

『一世一代の恋なの・・・あたしのイザークへの想いは・・・
 ふふっ、・・・後から考えると恥ずかしくなっちゃうような爆弾発言とかも、
 結構しちゃったよね、あたしったら・・・。そんな事も、今まで生きてきた中で
 初めての事だし・・・ずっと傍にいたいなって思った人も、イザークが初めてだし・・・』

頬はさらに愛らしく・・・赤く染まる。
恥ずかしげに、でも一言一言ゆっくりと、自分の想いを更に紡ぐ。

『・・・口づけを交わしたのも・・・身体を許したのも・・・イザークが、初めてで・・・』



その言葉に、イザークの心臓がトクン・・・と跳ねる・・・



――――――・・・ノリコ・・


・・・この世界で、彼女に恋人がいたかどうかなんて事は、知る由もない。
もしもいたらいたで、俺は嫉妬に狂っていたかもしれないが・・・

だが、彼女のうぶな様子を見ていれば、その言っている事が嘘ではない事ぐらい、
容易に理解出来る・・・ 第一・・・彼女は嘘をつくのが苦手だ。

バラチナの花の町で式を挙げ、俺達は、共に生きる事を誓い合った・・・・・・
そして、初めて俺と全てを重ね合った時のノリコは、ぎこちなく・・・その身も硬かった。
だが、その華奢な身体に俺が与えてしまった苦痛に喘ぎながらも、涙に濡れた笑顔で
この俺を受け入れようと、健気に・・・ついて来てくれた・・・

女性との付き合いなど無縁の人生を送ってきた俺だ。
忌まわしい宿命を抱え、力の制御の為にも、人との関わりや、厄介ごとに首を突っ込むのは
極力避けてきた・・・ だから、女を抱く気になんぞなった事はない・・・
当然、女の扱いなど慣れてないから・・・彼女を労わる余裕も足りなかった。
だが彼女は、そんな俺を信頼しその身を俺に委ね、そして俺の全てを受け入れ・・・妻となってくれた・・・
それが・・・とても、嬉しかったんだ・・・・・・・




典子はふぅ〜っと一つ、ゆっくりと息を吐いた。

『・・・イザークは凄く優しくて、思いやりがあって、心がとても綺麗な人・・・
 そして勇気があって、凄く強くて・・・あたしの事をとても大切にしてくれる・・・
 でも時に、子どものように純粋な面もあって・・・守ってあげたいなぁ〜って思える人・・・
 こんなにステキな人が夫なのに、他の人に目が行く筈ないじゃない?』

華奢なその白い肩をちょっと竦めながら、目を細めて微笑んだ。


イザークの瞳の色が、揺らぐ――――





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苦しみと共にup… 嗚呼、何度も書き直したのがこのページです。
台詞中心になってしまい、状況が解かって頂けるかちょっと不安も無きにしも非ず。
書いてみたかったお風呂シーンですけど、
こんなに台詞ばっかり言ってたら風邪引くでしょうが、と余計な心配…(笑)
でも、引いてませんか?大丈夫ですか?

次のページは、やはりお風呂シーンなのですが
ちょっと、性的表現注意報発令の注意書きを載せてます。
ここでの二人は夫婦という設定で、風呂での台詞もあるので書いてます。
苦手な方はスルーで宜しくどうぞ。
夢霧 拝(06.03.22)
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