◆ 君につなぐ想い 2 ◆


眠っている娘の顔を窺いながら、母は思う。

いなくなっていた四年ほどの間に、典子もまた成長していたのだな・・・と。

多少のあどけなさは未だに残っているものの、行方不明になる前までの娘の印象が
強く残っている母には、今の典子の姿には、やはり感慨を覚えるのだった。


まだ寝顔だけしか窺えないが、表情は少し大人っぽい感じを思わせる。
以前家にいた当時のふっくらとしていた頬は、ややすっきりして見える。
まつげは相変わらず長いが、ウエストの辺りまで長く伸びている艶やかな髪・・・・

どことなく、娘が遠い所に行ってしまったかのような、
もう自分の娘ではなくなってしまったかのような、そんな錯覚にさえ陥る。

一人の男性をそれこそ命掛けで愛し、生死が常に隣り合わせの苦難を共に乗り越え・・・
そうした経験が、典子を、人としても、また女性としても大きく成長させたのであろう。
そして、夫となったイザークに愛され、大事にされているからだろう。
実際、娘はとても綺麗になった・・・と思う。


「典子・・・、皆、あなたにとても会いたかったのよ。早く目を覚ましてね・・・」


優しい笑顔で娘を見守る母の温かな手が、典子の額に乗せられた。




――――典子は、この部屋に現れてから丸二日眠り続けた。


安らかなその呼吸で、彼女が生きている事は確信できた。
早く目覚めて欲しいと、家族の誰もがそう思っていた。



そして三日目の午後。

母が傍で見守る中、ベッドに横たわっていた典子の瞼がピクリと動く。

「・・・・ぅ・・・」

「!・・・典子、典子・・・」


眉を顰め、少し呻くと、典子はゆっくりと目を開けた。



頭の中が朦朧としていた。視界もまだぼんやりしていてよく見えない。
傍で自分の名前を呼ぶ声だけが、まるで靄が掛かったかのように、だが妙に耳障りに反響して聞こえる。

(・・・だれ?・・・イザークの声じゃない・・・ガーヤおばさんでもない・・・ぅ・・)

額に手の甲を当てた。

(イザーク・・・何処?・・・頭が痛い・・・くらくらするよ・・・)


異変を感じて部屋に来た父や祖父、兄もまた、典子の名前を呼んだ。

「典子!・・・しっかりしろ。」
「気が付いたかぃ?典子や・・・」
「大丈夫か?典子!」

頭の痛みに表情を歪めていた典子だが、自分を呼ぶその声に

(・・・え・・・?・・・何?・・・だれ?・・・)

そして、ようやく視界がはっきりしてきた。


「典子・・・良かったぁ・・・」

安堵した家族の表情がそこにあった。



『・・・う・・・そ・・・』

自分を見つめる者達の顔を見た典子の顔に、信じられないような驚愕の色が表れた。
顔色は真っ青になり、慌てて飛び起き、そこにいる者達の顔をまじまじと見つめる。

『まさか・・・そんな・・・うそでしょう・・・』

身体が、無意識の内に後ずさりした。

『そんな・・・そんな・・・』

頭を両手で押さえ、震えながら呟く。
その呟きは、日本語のそれではなかった。




「典子?・・・どうしたの?」

家族が驚くのも無理はない。

感動の再会になる筈だった・・・・・・
なのに、典子は自分たちの顔を見るなり、真っ青になって震えているのだ。
――――まるで、見てはいけない物を見ているかのように・・・

しかも、典子の口から出てきた言葉は、自分たちの知らない言葉だった。
一瞬、そこにいる娘が、典子とは全くの別人であるかのような・・・ そんな馬鹿げた錯覚すら起こしてしまう。


典子は、自分のいる空間をあちこち見渡し、ここが元の世界の
自分の家の 部屋であることを悟った。顔色は依然真っ青のままだ。

身体は震え、呼吸も荒い。

『・・・イザーク・・・何処?・・・イザーク、イザーク!』

典子は、頭を両手で押さえた。目を見開き、取り乱している。

『・・・ぁ・・・ぁ・・・いやよ・・・いやぁ・・・どうして・・・どうして・・・!』



聞き慣れない異世界の言葉だけを話す娘の姿に、家族はただ驚くしかなかった。

・・・だが、典子が呼んでいるその相手が、イザークだという事は何とか理解出来た。









いきなり、典子はベッドから降りる。
しかし足元がふらつき、その場に転倒してしまった。
慌てて、母が典子を起こす。他の家族も驚いている。

「典子、大丈夫!?無理しちゃいけないわ・・・・」

しかし、典子の耳に母の言葉は全く入らなかった。
取り乱した様子は変わらず、震えたまま、母の手を弱々しく振り解こうとする。

『・・・違う・・・違う・・・あたしは・・・今まで・・・』

そう言うとまた、周りを見渡す。
何かを否定するかのように、頭をゆっくり左右に二度三度振り、ふらりと立ち上がった。

肩で大きく息をしている。
いつの間にか、その瞳には涙が溢れていた。

『イザーク・・・何処?・・・あたしはここよ・・・イザーク!』

イザークの名前を叫ぶと、典子は部屋を飛び出す。

「・・・典子っ!待ちなさい!・・・典子っ!!」

母が叫び、家族は驚いて典子の後を追った。
あの取り乱し様は、尋常ではなかった。
もしあのまま、外に出て行ってしまっては危険過ぎる。直感的にそう感じた。

「典子っ!」

階下に下りてきた典子は、そこがイザークと構えた自分たちの家ではなく
自分の実家の居間であることを見定め、愕然となる。

『・・・ああ・・・イザーク・・・ここは違うよ・・・違う・・・イザーク何処なの?・・・
 あなたとのお家じゃない・・・お家じゃない・・・そんな・・・』

頭を両手で押さえながら、何度も左右に振った。
信じられない事を打ち消すかのように・・・・

『・・・いやよ・・・こんな形で・・・こんな・・・あああ・・・いやぁぁぁぁ!!!』

流れる涙を拭おうともせず、家中を走っては、自分の最愛の人を探した。
だけど見つからない。見つからない。



家族はただ呆然とその場に立ち竦むしかなかった。
そこにいる典子は、自分たちの全く知らない典子だった。

いや・・・・確かに典子には違いないのだ。
だが、こんなに半狂乱になって泣き叫ぶ典子の姿は、見た事が無かった。


母だけが―――そこは同性だからこそ理解出来る感情なのだろうか・・・

「典子っ!落ち着いて!・・・典子!」

と、典子を抱き締めようとした。

しかし、その手を払いのけるように、典子は廊下に出る。

『いやぁぁぁ!・・・こんなのやだよぉ!イザークっ!イザークっ!!』

(そんな・・・もう会えないの?!・・・なぜこんな事になったの?
 ・・・あたしの声があなたに届かない・・・イザーク!あなたの声が聞こえない!)


――――――――――!


両手を掲げたまま、その場に崩れるように膝をついた。
髪が、ふわりと舞う。

典子の瞳は、半ば発狂したかのように大きく見開かれ、
何かを掴み取ろうとするかのように、その手を掲げている。

涙が止め処なく流れ落ちていく。

『イザーク・・・逢いたいよ・・・あなたの傍にいたいのに・・・
 どうしてなの・・・お家にいたのに・・・あなたの上着を縫っていたのに・・・
 まだ出来ていないよぉ・・・あなたの喜ぶ顔が見たかったのにぃ・・・』

『・・ああイザーク・・・イザーク・・・抱いて・・・お願いよ・・・お願いぃ・・・』


その場にぺたりと座り込み、掲げていた両手を凝視したまま、ゆっくりと下げた。
そして、自分の体を抱きしめるように掻き抱く。

その身体が、ガタガタと震えていた。


『・・・イザーク・・・抱いて・・・あたしを抱き締めて・・・・・・お願いぃ・・・イザーク・・・
・・・あなたがいないと・・・あたし・・・あたし・・・』

『イザーク・・・あたしを抱いて・・・あたしを愛して・・・お願いぃ・・・イザークぅぅぅ・・・』


それは血を吐くような、絞り出すような叫びだった。


最愛の人の優しい笑顔が浮かび、目の前に現れる。
典子は手を伸ばそうとする。・・・が、その幻は、音もなく消えていった。

手だけが、ただ虚しく空を掻く。

そして、何かがブツリと切れたかのように、典子はその場に崩れた。


「典子っ!」

慌てて母が駆け寄り、娘の身体が倒れる前にしっかりと抱き留めた。

「典子・・・典子・・・落ち着きなさい・・・もう解かったから、典子・・・落ち着いてね・・・ 」

母もまた涙声だった。
そして、その様子を呆然と見ていた家族の目にも、涙が滲んでいた。




その後も、虚ろな瞳で、イザーク、イザーク・・・と呼び続けていた典子だったが、 ようやく静かになった。
その間ずっと母は典子をしっかりと抱いていたが、ゆっくりと 典子の体を離しながら、娘の顔を見つめた。
そして優しく言葉を掛ける。

「・・・典子・・・解かる?・・・私が解かる?」

生気の無い瞳で、母親を見つめる。掠れた声がようやく出る。

「・・・お・・・かあ・・・さ・・・ん・・・」

母は、うん、うんと頷いて、泣き笑いの表情で、優しく娘の髪を撫でた。

「おかあ・・・さん・・・いないの・・・イザーク・・・が・・・いない・・・」

母は、娘の気持ちを慮ってか、ゆっくり頷く。

「大切な人なの・・・彼を、愛しているの・・・愛しているの・・・」

娘のこんな切ない台詞を聞く事になろうとは・・・家族の誰も、予想だにしなかっただろう・・・

思えば、典子の多感な時期を家族で共に過ごせたのは、僅かであったかもしれない。
少女から大人へと変わっていく貴重な時期に、自分たちは離れ離れになってしまった。
そして、娘はその間に、自分にとって一番大切な存在を見つけたのだ。
その愛しい人の為に、こんなに切ない涙を流しているのである。

「あたしを・・・大切にして・・・くれてたの・・・
 毎日・・・毎日・・・あの人は・・・愛してくれた・・・優しくしてくれた・・・
 お仕事で・・・家を一日・・・空けて・・・でも・・・次の日には・・・
 帰って来る事になってたの・・・だから・・・お家で待ってて・・・」

「典子・・・解かったから、もう解かったから・・・」

母はまた典子を抱きしめた。
典子は、空間を見つめたまま、言葉を続けた。涙が止まらない。

「あたしがいないって・・・解かったら・・・イザーク・・心配する・・・
 あの世界にいないって・・・解かったら・・・きっと悲しむ・・・
 幸せに暮らしてたのに・・・あんなに・・・優しい人に・・・愛されて・・・
 あたし・・・凄く・・・幸せだったのに・・・」

「典子・・・」

「イザークを・・・一人にしちゃいけないの・・・・・・
 いつだって・・・あの人は・・・他の人の為に・・・傷つきながら・・・戦ってきたのに・・・
 【目覚め】のあたしを・・・殺さないで・・・助けてくれたのに・・・
 その所為で苦しんで・・・あの人は・・・あたしを守るために・・・
 自分の力を・・・苦しみながら・・・力を・・・いつだって・・・あたしのために・・・うぅ・・」

母は典子の背中を優しくポンポンと叩く。

「イザークの望むことなら・・・何でも・・・してあげたいの・・・
 だって・・・あの人は・・・お父さんにも・・・お母さんにも・・・愛されなかったの・・・
 だから・・・あたし・・・何でもしてあげたいの・・・」


母はもう何も言わず、ただ頷いている。目にいっぱいの涙。
流れる涙を、二人とも拭おうとはしない。

「約束したの・・・イザークに誓ったの・・・ずっと傍にいるって・・・一生傍にいるって
 ・・・イザークの・・・いない世界は・・・いやぁぁ・・・」

「一緒にいたい・・・イザークと一緒にいたい・・・あの人のいない世界なんて・・・・
 生きていけないよ・・・あたし・・・あたし・・・」


典子の言葉で、娘が向こうの世界でどれ程幸せな暮らしを
営んで来たのか、容易に理解する事が出来た。

ただ、それは簡単な事ではなく、日記に綴ってあったように
数多くの苦難を乗り越えた末に勝ち得た幸せであろう。
これからは、二人の時間がずっと続いて行くものと思われたのに・・・
自分の意に反して、娘はここへ戻されてしまったのだ。

本当に、何という運命の悪戯であろうか―――



母はしっかり娘を抱き締めた。

父もまた、母子をそっと抱き締め、愛しむように娘の背中を撫でた。





宜しければご感想をお聞かせ下さい→Mailform

この小説に出てくる舞台は、ノリコの実家やその周辺がメインとなります。
で、台詞ですが、「」は日本語、『』は異世界語という事で解釈してください。
ちなみに典子(ノリコ)は、異世界語を一生懸命勉強したので、今やペラペラです。…羨ましい。
あと、【 】《 》も特定の言葉を強調したい場合などに使ってます。
……ややこしいかな(笑)
夢霧 拝(06.03.10)
Back  Side2 top  Next