天上より注ぎし至上の光 〜 Love Supreme 〜 11




窓掛けを僅かに手繰り、硝子越しに映える景観へイザークは視線を向けた。
申し分のない暖かく柔らかな陽射しが、静かに朝の訪れを告げていた。
斜向かいの館の窓に陽が射し込み、朝露を帯びた傍らの緑樹にも御零れを分かつ。そうして輝きを増し佇む緑に僅かに目を細め、しかし何を言うでもなく、視線を若干手前へと伏せた。
その表情は変わらない。そして、思考は今朝方まで遡る。

――――キーナゼ・・ユゼル・・ 真の名だ・・・

そう語り詫びた男の声が、自身の中に遠く響いた――――




露を含む早朝独特の空気が辺りを覆っていた。
昨夜の名残か霧もまだ濃く残り、陽は霞んだ空の思しき位置にその存在が仄かに認められる程度である。 そんな中、イザークはとある場所へと向かっていた。

今日送られる、そうカイザックより聞いていた。
別段話がしたかった訳ではない。元より投合出来るほど気安く知る相手でもない。
あれほどの激情を抱いた、殺すとまで言った。本来ならば憎々しい感情を向けて然るべき相手である。 なのに、不思議と今は負のそれには傾いていなかった。ノリコが手元に戻ったからかもしれないが、それだけとも言い切れない。イザーク自身にも判然としない感情であった。
結局理由は明瞭とならぬまま、それでも足は違えなくそこへ赴き―――行き着いた先には、黒馬車が待機していた。
豪奢な趣などまるでない頑丈であるだけのそれは有体に言うなら護送用、正に移動する監獄である。 長閑で美しいこの町にそれは些かにも相応しくなく映えた。生ける者を滅入らせる戒めならば、充分な役目であろう。
御者は既に台に就いていた。時折催す欠伸も早朝だからだろう。その様が何処か不愉快然ともとれるのは、これが早急に湧いた用向きであるからか。 何時であるかまでは聞かされてはいなかった。故にもうなのかとも思ったが、急くにもそれなりの理由があるのだろうと、さして気にも留めなかった。

――――長く留め置いて、元の鞘が恋しくなって貰ってもなァ〜

カイザックならこう言って笑うだろう。伊達に町長の娘婿を遣っている訳じゃない。飄々としているようでも、この町を愛し護ろうとしている。 そして、あの男にとっても多分これが最善なのだろう。身の振り方の思案に煩う種など、ない方が好ましい。

片手には余る数の欠伸を御者が洩らし始めた時、やはりこの町のそれにしてはやや重厚過ぎる傍の建物の扉が開き、両脇を役人に固められた男達が出てきた。両手にはしっかりと枷鎖が掛けられている、ギスカズールとジルヴァスであった。
一連のそれをイザークは微動だにせず眺めていた。無論そこに表情はない。そしてギスカズールも程なくイザークの存在に気付き、足を停めた。
決して長い刻ではなかったが、まじまじと瞠った。そこにいる、それ自体が信じられなかったのかもしれない。
・・・が、やがて得心が行ったように目を細め、呟いた。

「・・・そう、か・・・森は、あんたを受け入れたのだな・・」

無傷である―――男の目にはそう映った。あれからどれほどの時を経たと言えるだろう。その場に超然としているイザークを見てそう判じたとしても無理はない。
娘を救出してなくば、そもそこに在る筈なき人物。そして如何なる者であれ男子侵入を固く拒む、かの森。
よもや救い出せぬという選択肢は、しかし在り得なかった。この男なら必ず娘を救い出す、そんな確信めいたものを感じていた。そしてその男が今眼前に立っている。その眼に一点の曇りさえなく自分を見据えて、だ。
道に外れることなき者とは、こうも毅然としていられるのか。そんな思いにこの時男は捉われた。羨望、表すならそんな言葉であろう。森に諾されたのだという事実に、そしてイザークという男そのものに、それを感じた。
―――・・・だが、
所詮それも、他者から見た像である。無論心に悖ることなど何一つイザークはしていない。が、その幼少期から彼が蒙ってきたあらゆる辛酸を、そうした忌まわしい背景を、男は知り得ない。 だから、それによって培われ研ぎ澄まされたイザークの獣にも似た感性をその印象として捉えることは出来ても、所詮は上っ面である。
だからという訳でもないが、男の言葉をイザークは是も非もなく流した。現状で無事であるというだけで、無論無傷で済んだ訳ではない。だが森での仔細を告げたところで、やはり何の意義もない。しかしそれで良い、それ以上のことをイザークも望んでいる訳ではない。
言葉を返さぬイザークに男は視線を伏せ、自嘲めいた笑みを浮かべた。が、再びその顔を上げた時には、悔恨の苦味を含んだように眉根を寄せていた。

「改めて、すまなかったと・・ノリコ・タチキに・・伝えたい・・・ あんたにも・・すまないことをした・・・」
「・・・・・」
「・・・言える筋でないというのは・・・承知している・・・」

言葉の途中で俯いた。男の言葉にもイザークは無言、寧ろそれで当然だろう。どんな言葉を連ねようとこの男の溜飲を下げることなど不可能、そうギスカズールも考えた。それでも、言わずにはいられなかったのだ。

「伝えておこう」

男の申し出に対し、表情を変えぬままイザークは返した。
短くはあったが、罵倒をも覚悟していた男には期待以上の返答だったのだろう、すぐに顔を上げた。一瞬見せた驚きのそれはしかしすぐに安堵のものへと変わり、微かに笑みさえ浮かんだ。
遂げてくれるかどうかなど最早どうでも良いことだった。どうでも良いのというのは語弊があるかもしれない。しかし最悪罵倒、良くて無視、いや、或いはその逆であるのかもしれないが、そうした反応を予測していた者にとっては何よりの言葉。だから仮に果たされずとも、それはそれで構わなかったのだ。
結局このギスカズールという男も、イザークに対し僅かな隙を見出すことすら出来なかった。十近くも下である者への完全なる敗北、それをあっさりと認めたことになる。だが何故だろう、逆にそれが酷く小気味良い。自虐の意味ではない。男が直感で感ずる、何かであった。
もし彼がイザークを見知る者達ともっと話を交わしたなら、恐らく同様な感情と得心するだろう。この男も彼等と同じくイザークという人間に感服した一人であるのだ、と・・・
役人に促され、男は横目で軽く頷くと改めてイザークを見つめ、こう言葉を紡いだ。

「キーナゼ・・ユゼル・・」

その呟きに、イザークは怪訝気味に眉を顰める。男は更に、それが己の真の名であると語った。

「ギスカズールは裏の通り名・・・恐らくはもう、使うことはないだろう・・ そして、こうしてあんたと見えることも・・」

その男―キーナゼ―は、穏やかに目を細め再び頭を垂れた。そして、その足先を再び馬車へと向ける。

「あんたは、あんたの成すべきことを須く遂げろ」

ピクリ―――・・・
半ば弾かれたように足を停め、見開いた眼ですっと男は振り返った。その背に向かい、イザークが告げたのだ。
露骨に顔を顰める役人に構わず、男は暫しイザークを見つめた。そしてそれ以上の言葉を継がぬイザークに対し、僅かに頷くことで返事とした。


行く末を悲観してか終始項垂れ気味なジルヴァスと共に馬車に乗り込み、見届けた役人が扉を閉めしっかりと施錠した。そして帯剣した役人一人が御者の隣りに乗り込み、扉を閉めた先の役人ともう一人の役人が別な馬に跨り、馬車の前方と後方に就く。
御者の操作により程なく馬は嘶き、静かに馬車は出立した。王都へと向かい、中央は裁きの館にて沙汰が下されるのを待つ。
イザークの箴言が何を意味する言葉であるかは、この先の男の行動で示されることだろう。

――――――

―――




反射光の眩しさが視界の隅に入り、若干目を細めイザークは追想から返った。そして、手繰り途中だった窓掛けを静かに両脇に寄せ、それぞれを括り紐で留めた。

違った形で見えていたなら、あるいは何か通じるものをあの男との間でも得られただろうか――――
ふとそんな感覚が走った。元は実直な男だったであろう。イザークもかの男をそう判じた。
いや―――・・・
人として生きたいが為に辛酸を舐め尽してきた・・・そんな己も似たようなものだ、とイザークは思う。
魔に心捕らえられしかつての男達、ラチェフやケイモスのそれもまた相成ったかもしれぬ道である。 何処で道を分けるか、そんなのは結果に過ぎない。ただ、彼等のように生きたくはなかった。--それ--に支配され自身の心を失いたくはなかった。そして、何より命を擲ってでも護りたいものがあった。でなければ、己もまた同じ穴の狢・・・
負の感情で満たされなかったのは、そうした感慨の所為もあったからか。
だが、キーナゼという男にも護りたいものはあったろう、それ故の投降だった筈だ。
では何の相違か、何処で箍を掛け違うのか――――
求めるものが何であるか、護りたいと思ったそれが己を高める存在であるか否か。多分そこに、理由らしきものはあるのだろう。
かの女は不遇を憂いた。それは誰しも等しく抱く思いであろう。だがそこから先が違った。同じ不遇を味わったとしても、少なくともノリコはそれが為に他者を引き摺り落としはしない。 寧ろ自らを擲ってでも与えた。そして、何より他者の幸福を己のことのように喜べる。
性質の違いなどという言葉で安易に括れやしないだろうが、やはりその在り様から既に異なっているのだ。
では男への同情であるのか。いや、それとも多分違うだろう。
同情と謂わしめるのなら、かの女こそ哀れである。・・・だが――――
家族が在りながら、事実上独りと寸分違わない。それも、何処かかつての己と似ている・・・
そんな気もまた掠めた。

もし誰しも惜しみなく与え得る存在であるなら、諍いはここまで増えることはないだろう。
苦(にが)しく微笑う。夢みたいな話である。在り得ないからこそ、世界に魔の力が蔓延ることになったのだ。そしてその修復に、ノリコのような異界の娘が必要とされたのだ。
この世界の誰もそれを成し得ることは出来なかった、それほどに世界は疲弊し、伝説と予言とで示された天上鬼と目覚めという存在を恐れた。目覚めの意味すら漠然とした形でしか捉えられてはこなかったのだ。そして自分も、例に洩れずそんな目覚めを恐れた。
滑稽な話である。見える未来と見えない未来。どんなに未来予知が重んじられたとて、その全ての開示を網羅出来る筈もない。不確かであるからこそ、明日の為に頑張ろうと思うのではないか。不安があるからこそ、逆にそれを力へと活かしていけるのではないか。
全てのことに意味がある。それを言ったのはノリコだった――――

光の力を迎え入れ、世界は在るべき道を進んでいっている。
しかし、世が全て善を求め成す者達だけで構成される訳じゃない。いつの時代にも必ず何かしら綻びは生じる。そう、人はやはり人であり、人でしかない。だが・・・―――
綻びを生じさせるのが人なら、それを修復出来るのもまた人である。愚者にもなり、賢者にもなれる。
そう思い直して、苦笑した。
そして、キーナゼ・ユゼル・・・ あの男の未来もまた変化し得るのは違えないことだ。だから成すべきことを遂げよと手向けた。投降は何も不幸にのみ繋がる選択ではない。




短く息を吐き、イザークはそれ以上彼等のことで考えるのを止めた。
感傷に浸っているゆとりなどない筈だ。本来ならもっと高揚して然るべき日であるのにと、自嘲に等しい笑みが上がる。その瞳に未だ若干の険しさを含むのは、まだ全てへの落着を見てない故か。
気を抜くな――――そんな戒めの言葉がそこかしこから聞こえてくるようだ。

町長邸内の別棟に調えられたその部屋の中は、適温に保たれ静かであった。
本館とは別にその館はあり、一階の渡り回廊で二つの館は繋がっていた。所謂賓客用の寛ぎ部屋であるが、今日の二人の為にと特別に調えられていた。無論今夜丁重にもてなさねばならぬ賓客はない。広いその別館自体を借り切ったようなものなので、二人の時間が損なわれる懸念もない。
イザークは露台の窓を離れ、ベッド脇に置かれた椅子へと静かに腰を下ろした。肘を膝につき、間で結ぶように組んだ指を口元に近付ける。
本来ならノリコは今もガーヤの家にいて、そろそろ目覚め、今日という日の慶びに満たされながら挙式の支度をと運ぶ筈であった。事の顛は最悪、しかし結果とを鑑みるなら、イザークもあれからノリコの傍にいられて良かっただろう。ガーヤに任せるという選択もあったが、そうしたくなかったというのが本音だった。

「・・・・・」

息をつく暇すらなかった。気のゆとりがない所為か、時はゆったりと流れているのに、何かに追い立てられている、そんな感触が消えない。だが、眼前のそれは違う、やはり安らかであって欲しいと願う。
耳を澄ませば、軽やかな光のそれが溢れ、心地良く奏でるものとして聞こえるようだった。その記憶を確かめるようにゆっくりと瞳を伏せた。――――まるで自身を落ち着けるかのように。

ベッドに身を横たえるその人は、まだ眠りから醒めていない。
寝息すら、余りに静かで聞き取れない。だが、呼吸と共に微かに上下する胸元、その白き肌にも血色が戻っていた。何より穏やかなその寝顔が、現在の彼女の安楽を物語っている。


初めて、心から欲しいと望んだ娘――――ノリコは、光であり、水である。


常に何かに飢え、乾いていた――――
物理的なそれではない。だが、幼き頃より慣らされ、多分それが当然であると身に染み付いていたのだろう。飢え乾いていることにすら気付けず、そうであると理解した時には当に極限を超え、虫の息だった。
無意識に求めたとして与えられる筈もなく、そんな権利すらもないのだといつしか諦めに変わり、そして忘れ去った。考えぬようにしていたのかもしれない。
冷えていく心、感情の一切を捨てた、だがそれも已む無しと、それがこの世で生きていく為の己の防御壁であった。無防備な自分を、脆い自分を他者には決して悟られまいと。
だが、そんな自分の前に、ノリコは現れた。
何よりも無垢なる心を持って。

どうしようもない生き物だ。闇という闇、そして血泥にいいだけ塗れていた。
もがき苦しみ、這い出たいと足掻いていた、かつての自分。同種など在りはしない。当然、理解してくれる者もいない。
他者には決して見せたくない弱き自分の姿。しかし、本当は誰かに救って欲しかったのか。
解からない。誰でも良かった訳ではない。それでも、やはり救って欲しかったのだろう・・・
一人でもいい。どうしようもない己を、それでも、理解してくれる者が、たった一人でも――――
飢えと乾き、それは終わることなく疫病のように蝕み続けていた。期待など無駄であると、何処かで何かが恒に嘲笑った。そんな自分の前に、ノリコは現れた。
最初は、最悪の形と戸惑った。感情など捨て去った筈なのに、と、そんなかつての自分を思い、苦笑う。
違っていた。ノリコは光であり、清水であった。
眩しかった。あの時抱いた戸惑いは、敵対する力を何ら持たず、ただ純粋な瞳でいた彼女の眩しさからだったのかもしれない。そして、翳り、荒み、どうしようもなかった自分にノリコは温かな灯火を燈し、乾ききった心を潤してくれた。
なのに・・・――――
そんなノリコを一度は離そうとした。莫迦だった、しかしどうしようもなかった。
今では信じられぬだろう、呆れ果てるほどだ。

――――行くなっ、何処にも行かないでくれっ!!

そう叫んだ姿が鮮やかに思い出される、まるで昨日のことのように。
出会いそして知るにつれ、飢えていたことを、望んでいたことを思い出した。失う可能性に、例えそれが小さな障壁であったとしても恐れ慄いてしまうほどに。
最早離したくない存在であった。心から、初めて心から欲した。先の見えぬ不安を抱えながら、それでも傍にいて欲しいと、心から欲した。
ノリコは理解者となっただけではない。ありのまま全てを受け止め、共に泥に塗れるを厭わず、そして、変わらず慕った。忌まわしいこの生い立ちを知ってさえ、変わらず。

――――イザークは、イザークだよ。そのままのイザークでいい・・・イザークが、好き・・・

人と接することに慣れてなかった。ノリコにも戸惑った態度で接していた。
後にそれを詫びた。慣れてなかったのだ、と詫びた。
ノリコは、微笑って言った。無理に変わろうとしなくていい、ゆっくりでいい・・・と――――

――――いつだって、イザークの傍にいるよ・・・

知らなかった、知り得ようもなかったのだ。

――――だから、そんなに、自分を・・・追い詰めないで・・・ 大丈夫だよ・・・・・・

己を己として認めてくれることの尊さを、それが、こんなにも心満たされるものであることを。
そしてそんな自分を、変わらずノリコは必要としてくれた。




ガイアスの奥深き地に存在する神秘の泉・・・―――
かの泉はノリコだけではなく、イザークの負ったものまでも癒した。
漲ってくる力の感触。急速に昂り、身の中を突き抜け、そして、深い安堵に満たされた。
やっと取り戻せた、この腕の中にノリコを取り戻したのだという安堵。
水から上がった時、ノリコの意識はなかった。だが、その顔には安らかな色が浮かんでいた。
濡れた髪が顔に、衣服がその肌に纏わり、触れようとした指が滑稽なほどに震えた。
そして、見つめたまま暫く動けなかったのだ。
共鳴して輝く洞窟の所為ではない。腕の中で、ノリコは確かに美しかった。
崇高なるもの、そんな思いで満たされるほどに。
グゼナ国境での時も、怪我で意識のないその身を抱き上げた。
まるで羽が生えたように軽い、華奢な身を。
その時と同じ―――得難き存在。
美しいと、尊いと、心から感じた、その存在・・・――――

顔に掛かる濡れ髪を震える指でなんとか避けて遣り、そっと抱きしめ気を送り包んだ。
互いの衣服を、髪を、乾かす為に。
眠っているノリコに負担を掛けぬよう、細心の気を払いながら。


あの泉で、安らかに眠るノリコを改めて抱きしめた時、それを感じた。
様々な者達から授かった箴言―――多くはイザークとノリコの二人を静観する意向を示唆した。
しかし見る者が見れば、ノリコの持つ違和感にも気付くだろう。それを覆しきるのは易くない。
だから―――?
そんな思いが駿馬の如く駆け抜け、凌駕した。
それこそ上等というものであろう。
その異界の者に頼らねば救えなかったこの世界ではないか、違うのか。

安寧な世界でないかもしれぬ。否。
幸福な暮らしなど営めぬかもしれぬ。否。

決まった未来などない。幸は自分で掴むものだ。
考えるほど滑稽だろう、どれほどかの言葉に救われたか知れぬ。
幸福にするかしないかではない。共に零から在れば良い。
護るだけではない、傍にいることで、自身もまた護られていた。
この存在に何度も救いを感じた。そんなノリコの為に、何処かに落ち着こうと望んだ。
だが、良い。何処に在るかではない。どんな形でも良い。何でも良い。
二人で共に在れたら、それで充分だ。

――――イザークと一緒なら、何処にいてもいい・・・一緒にいられたら、あたしは幸せ・・・

触れた手が頬が、温かかったのだ。
いつまでも触れていたいと思えるほどに。
だが――――・・・
同時に感じたもどかしさ、それを何と捉える。
触れて良い筈なのに、一番その場所に近く、その権利を持っている筈であるのに、
触れてはいけないような気がして、酷くうろたえた。

――――もぉ、またからかう、あたしはただの女の子だよ、王女でも、聖女でもありませんってばっ・・・

そんな風に微笑ったノリコの顔。そう、ノリコは普通の少女だ。
しかし、その彼女の想いがいつも気高きものであることもまた知っている。
そして、普通の少女であるが故に儚い。
手にしたそれが珠玉のようで、触れただけで傷付けてしまう、そんな気がして。
それもまた、いつか等しく感じた感情だったと思い起こす。
大切であると思う感情。あの頃よりも更に、日を増す毎に更に、それは大きくなる。
切なくなるほど、そしてそれが、どうしようもなくもどかしくて。

そんなもどかしさも、今日を境に解消されるのか・・・――――




生きる基準―――イザークのそれはノリコにある。
誰に頼り縋って生きてきたこともない。誰にも国家にさえも膝を折らず、信頼すべきは全て己だけであったイザークである。 それがノリコだけを全幅の信頼、忠誠の対象と成した。
それほどまでにのめり込めるなどと、ともすれば破滅に似ている。いや確実に破滅へと導くだろう。それをイザークは理解している。 しかし破滅と幸とは、最も遠いようで実は紙一重の所で存在している。それもまた、イザークは体験で知った。破滅でしかないと恐怖していたそれが、実は光へと自身を導いてくれた存在であることを。
こんなにものめり込めることが、己にとって無類の幸であることを。
それを狂信と唱える者が在るかもしれない。不思議ではないだろう。だが、他人の価値観と己のそれとを天秤に掛けるまでもない。 その存在が己にとって欠くことを許せぬものであるなら、手放すことなど最早一片たりとも考えるべきではない。

――――化け物になった方がまだましだ・・・

離れるくらいなら、そうしてノリコの身が危険に晒されるのを危ぶむくらいなら、いっそ・・・――――
そんな心情であった。よくぞ言ったものだと思う。無論その選択は間違いではなかった。
こんなこの上なき幸福が破滅であるというなら、寧ろ諸手を広げそれを選ぶ。

「―――・・・・・」

しかしながら・・・

それを考えれば、心が痛んだ。否めない、拭いきれない、現存する想い。
何処か後ろめたさとも似ている、ノリコの家族へのそれだ。

愛している、大切に護り育んできた。だが、肉親のそれと比べられる筈もない。
光の世界を通じて感じ取ったノリコの世界、何より彼女自身を見ていれば瞭然である。
自身など、頭を上げることすら出来ぬだろう。
だが・・・ それでも、やはり愛しているのだ。
手放すことなど考えられない、考えたくもない。
だから、決めたのだ。
今日、その家族から、ノリコを永遠に貰い受ける――――と。




膝に戻した掌をぐっと握り締めた時、ベッドの上で僅かに蠢く気配がした。まどろむような洩れ声と共に瞼がぴくり、またぴくりと動き、こちら側へと僅かに顔が傾げられた後、ゆるりとそれは開いた。

・・・・、ぁ・・」

その視界にイザークを捉え、大きく瞠った瞳は確かめるかのように幾度か瞬き、眩しげに細められた。

「おはよう・・ 気分は、どうだ?」
「・・イザーク・・」

嬉しそうに口元を綻ばせ、微笑を湛えた眼差しで応える。

「おはよう・・ とてもいい・・凄く幸せな気持ちで、目覚めたよ」

想定以上の応えだ。安堵を交えた微笑を返し、イザークは頷いた。だが、そんなイザークを笑顔で見つめていたノリコの眉根がふと僅かに寄せられる。 更にじっと見つめるその眼差しは、気遣わしげであった。イザークもまたそんなノリコの表情の変化に訝りを見せた。

「どうした?」

イザークの問いに、掛け布の中から出した右腕をノリコはゆっくりと伸ばした。指先がイザークの頬へと届く。瞬間、イザークはピクリと震えた。

「・・・・・酷く、張り詰めてる・・」

指の腹が優しく頬に触れた。それは撫でるように慰めるように頬を伝い、掌が改めて頬に添う。
若干冷たかった頬にじわりと伝わる温かみ。

「とても・・辛そう・・・ 周りの空気が、酷く・・・ 大丈夫? イザーク・・」

澄んだ瞳が労わるように、しかし真っ直ぐに見つめる。

「ノリコ・・」

時に尋常でなく深くそして鋭い、この娘が見せる洞察とは何であろう――――
そんな素振りなど見せたつもりもない、なのに、目覚めて程なく眼前のイザークのその心穏やかならぬことを見抜いた。 優しげに触れる手。そこから全てを癒すように何かがすーっと突き抜けた。イザークの張り詰めていたそれが、静かに緩んでいく。

「大丈夫だ・・」
「でも・・」
「心配するな、身に障る・・」
「・・・イザーク・・」

それでも心配そうに見つめる瞳にイザークは微笑って見せた。そして頬に添えられたノリコの手の上に自らの手を包むように添え、優しく外した。
温かな手がイザークのそれに包まれても、まだノリコは案ずるように見つめている。
心の不安はノリコに伝染する。この娘もまたイザークの異変には敏感である。時に己の所為だとまで思ってしまうほどに・・・
何事かと誤魔化すのは易いだろう。しかし今のノリコには無駄だ。だから、認めた上で、案ずるなとイザークは更に告げた。


気を抜くな―――そう自らに銘じた。しかし、ノリコの安否が掴めずにいたあの時とは違う。
警戒を解くなとは思う、しかし控えた殺意すら必要とはならぬだろう。
得体の知れぬ相手ではなかろうが。今日一日護り通せぬ訳ではなかろうが。
気を抜くな・・・だが、恐れずとも好い、・・・そういうことなのだ。
何を恐れることがある。大事なものであるなら、手放せぬなら、とことん護る、それを貫く。それだけのことだ。


「有難う」

気遣わしげに見つめていたノリコだったが、微笑みと共にそんな言葉を返した。

「楽しみなんだよ、あたし・・」
「ノリコ・・」
「今日のお式も、それから明日からの旅も・・・」
「ああ」

再びイザークと二人きりで旅が出来るのが嬉しいのだ、と、瞳を輝かせながらノリコは言葉を繋いだ。

「色んなとこ、行きたいね、ね、イザーク? 今度はずっと北にも行ってみたいなぁ」
「これからだと、北は雪と氷に閉ざされる。厳しいぞ」
「え・・あ、そうか。じゃあ南がいいのかな? でも、極に近付くと南も同じね、んー、赤道辺りがやっぱり年中暖かいのかな・・」
「赤・・道・・?」
「うん、・・あ、そういう言い方こっちではしないのかな、地球の、えっと、世界の一番暖かい地域を結んだ・・・んー地図上で見てその地域を結んだ線というか・・・緯度が零の所をね、赤道って向こうでは呼んでるの。昼間は太陽がいつも真上を通るから、赤い太陽の道で赤道。雰囲気、解かって貰える?」
「ああ」
「ね、ね、この世界には、大陸は西と東と北しかないの? 周りの島々は解かるけど、他にはないのかな?」
「俺の知る限りでは、ないな」
「そっか・・ ね、島とかには渡れる?」
「ああ。中大海の航行より小規模にはなるが、船はある。しかし島は設備等で大陸より遙かに劣る。尤も、街を外れれば何処も知れているが」
「そうだね、うん、解かる、大陸でも自然いっぱいな所はあるものね」

うんうん、と自分でも納得するかのようにノリコは頷いた。

「楽しみだな、ゆっくりでもいいから、全部回ってみたいな」
「全部、か?」
「うん。・・可怪しい?」
「何年かは掛かると思え。その覚悟があるなら、不可能でもない」
「じゃあ出来るんだね。ふふ、楽しみ」
「本当に回る気か?」
「駄目?」
「・・いや」

楽天的なその思考に、思わず微笑みが洩れた。
世界を立て直す旅の時には通常徒歩や馬が主だった。しかし時に船、そして翼竜やチモに頼ることもあった道行きはそれほど大変ではなかったように思える。だが今度は全くの私的な旅、道行きそのものを楽しむならば精々が馬や徒歩であろう。全てを回りきるには、やはりそれくらいの年月を要するのは解りきったことで・・・
だが、名も知らぬ地を訪れるのも悪くはないという気がした。いつか、それでも落ち着かねばならぬ理由が出来た時、そうした何処かの土地で、見知る者も誰一人なく―――それもまた好しと思えた・・・

「行く宛てがなくてもいいの。気の向くままの流れ旅。そういうのも面白いじゃない?」
「そうだな・・」
「今度はね、あたしもいっぱいお手伝いするよ。イザークみたいに剣は振るえないけど、女のあたしでも出来ることはいっぱいあるもの、ね」
「何もおまえが案ずることじゃない、今までと同じでいい」
「あら、だから女で出来ることをするの。アイビスクの村でお世話になった時と一緒よ、こう見えてもあたし何にでも挑戦するんだから」
「おいおい・・」

自分がどう見えてると思っているのだろう。それでなくともノリコが頑張る少女だというのは、充分過ぎるほど知れているというのに。
なのに相変わらずノリコは微笑っていて――――

「元気になったでしょ?・・・あたし」
「ノリコ・・」
「希望がいっぱいなの、だから、ふふふ。・・だから、ね、やっぱり北にも連れてって?」

寒さが厳しくなる地方だというのに、それでも北行きを望むのか・・・。
屈託なく微笑み両の掌を合わせながら請うノリコに、イザークも苦笑った。それから、ノリコは腕で支えながらゆっくりとその身を起こす。

「っ、無理はするな、ノリコ」
「大丈夫・・」

イザークの制止にもノリコは微笑んで見せた。

「支度もしなくちゃならないでしょ? そろそろ起きないと、ね・・」

心配し伸ばされたイザークの腕に触れ、更にきゅっと掴む。そのまま、イザークの胸に凭れるようにノリコは身を寄せた。

「ノリコ・・」
「少しだけ、ぎゅっとしてくれる?・・・」

ノリコの言葉にイザークは頷き、包むように抱きしめた。仄かに馨ってくる芳香に、顎下のノリコの柔らかな髪に頬を寄せる。腕の中で安堵する息遣いに微笑み、一層大切に抱いた。

「温かい・・ イザークは、もう大丈夫? 怪我・・」
「癒えている、安心していい」

自分のことが本筋ではないだろうと僅かな苦笑を交え応えると、良かった、と安堵の吐息と共にノリコは呟いた。

「・・・本当、良かった・・ あのね・・あたし・・」
「ん?」
「ずっとね・・・本当は、起きていたかったの・・・泉で・・」
「ノリコ?」
「イザークの腕の中に戻れて、ホッとしちゃって・・・ だから、いつもの癖が、ちょっと恨めしかったな・・」
「・・・・・」

少しでもノリコを休ませたいと思っていた。彼女が程なく眠ってくれて、それで寧ろ安堵したものだ。だから、何を言いたいのだろうと訝ったが、ノリコがぎゅっと服地を掴むので、イザークはそのままでいた。

「・・・・・ずっと・・一緒だよね・・」
「ノリコ・・」
「離されたくない・・の・・もう・・ ずっと・・イザークの傍にいたい・・」
「ああ」

一言一言確かめるように呟くノリコの声が若干震えていた。じっと身を委ねるノリコのその震える声ごと庇うかのようにイザークは改めて抱きしめ、再度口を開く。

「おまえに、伝えておくことがある・・」

その言葉に問うように顔を上げたノリコは、イザークを見つめ小さく頷いた。









湯の入った水差し、そして桶や布を載せた盆を抱え階段を昇ってきたガーヤは、廊下の扉横の小卓の上に盆を置き、来訪の意を告げる為に部屋の扉を若干控え目に叩いた。
無論まだ休んでいるかもしれないとの懸念もあったが、そろそろ起きて食事やら何やら支度に掛からないとならない。唯でさえ花嫁の支度には時間を要する、その上昨日の今日である。ノリコの按配を見つつ、午後に間に合うように飛び切り上等に仕上げて遣らねばならないのだ。
飛び切り上等―――本当にガーヤはそう感じた。特にそうあって欲しいと。慶びの日を迎える前日に辛い目に遭ったノリコであるからこそ、綺麗に支度を調えさせ、最も幸福な花嫁としてイザークの許へ嫁がせたいのだ。
バリスの店のユニカも、後ほど着付けをしに来る手筈になっていた。そして、今日の二人の晴れ姿を留める為に絵師も呼ばれている。異世界のノリコの家族へ二人の結婚の報告をする、これはその書簡に添える肖像として描いて貰うもので、イザークとノリコが二人で決めたことであった。そして、絵師はお披露目に間に合うように来る手筈になっている。
幸福に暮らしていることを知らせ離れた家族を安心させる、それにはガーヤも良い考えであると笑顔で賛成したのだった。

あれこれと思いを馳せながらも、応答がなかった為ガーヤは再び扉を叩いた。少し後に静かに扉は開き、中からイザークが姿を見せた。

「おはようイザーク、お邪魔だったかぃ?」

少々おどけた態で挨拶を告げるガーヤに、イザークも微笑いながら挨拶し、まぁな・・と加えた。お陰で脇腹に肘鉄を食らう。ニヤリとしながらの応酬にはイザークもわざと脇腹を押さえ、苦笑を洩らした。

「すまん、時間か」
「そうだね、午後までにはまだ間はあるけれどあんたも食事がまだだろ? それに昔から花嫁の支度には手間が掛かると決まっているもんさ。何しろ世界一の幸せな花嫁に仕上げて遣らなくては意味がない、だからそろそろね」

片目を瞑りそこは楽しそうに語るガーヤである。彼女にとっても今日は心待ちにしていた日。そんなガーヤの心情はイザークにも解かっていた。

「ノリコ、起きてるかぃ?」
「ああ」

扉を開放し中へと手で示したイザークに従い、盆を再び抱えガーヤは部屋の中へと足を踏み入れた。前室から寝室へ入り、ベッドに半身を起こしているノリコを見つけた途端その顔を綻ばせる。

「ああノリコっ、具合はどうだい?」
「おばさん、おはようございます。・・あの、心配掛けて、本当にご免なさい・・」

笑顔で、それでも申し訳なさそうに若干肩を竦めて応えたノリコをガーヤは温かく抱きしめた。無論、手にしていた盆はすぐに脇の小卓に置いてである。

「何であんたが謝るのさ、あんたの所為じゃないんだよ。でも良かったよ、本当、あんたが見つかって・・」
「おばさん・・」
「ご免よノリコ、あんなことになるとは思ってもみなかった、あたしがいたらあんたを連れて行かせやしなかったさ。でも本当に良かった、身体はもう平気なのかぃ? 目立った怪我はないようだけど、大丈夫なのかぃ?」

骨も折れんばかりの抱擁を心地良く受け入れたノリコは、はにかみながら大丈夫であると告げた。

「お腹も空いただろ、湯を持って来たからまずは顔と身体を清めて、それからすぐに食事にしよう」
「ぁ・・そういえばあたし、昨夜から何も・・・」
「だろ? さあさっさと済ませてしまおう、花嫁の支度にはたっぷり時間が掛かるからね。後からバリスの店のユニカも顔を見せてくれるよ」
「・・・はぃ」

満面の笑みを浮かべて話すガーヤにノリコも微笑みつつ応えた。
しかしその胸中には複雑な思いも混ざる。僅かな間とはいえ、またイザークと離れるのだ。無論、そんなことを言えば子供染みたことをと失笑を買うだろうが。
考えてみれば、これは挙式の為の支度、それが調えば式でまたイザークと会える。そしてその後はずっと彼と一緒でいられるのだ。
若干俯いたノリコのそんな想いを見透かしたのか、ガーヤは顔を覗き込み、肩をポンポンと軽く叩きつつ宥めるように微笑った。

「楽しみの為の支度さ、あっという間だよ、ノリコ」

その言葉にノリコも顔を上げ、少々の間を置いてから取り戻したように微笑みを浮かべ、頷いた。

「イザークも名残惜しいだろうけど、本館の食堂に食事を用意してあるから、行って済ませておいで」
「ああ」
「あんたもイイ男にならなきゃだろ? ノリコが惚れ直すようなさ。何せ今日は特別な日だ」

これにはイザークもはっと微笑い、ノリコはほんのりと頬を紅く染めた。

「すまないガーヤ、ノリコを頼む」
「ああ、任しときな。といっても説得力には欠けるかもしれないけどさ、今度は充分用心するから安心しておくれ」

イザークは黙って頷き、自分を見上げるノリコへと視線を落とす。ノリコの瞳が切なげに揺れたのは気の所為ではない。行かないでくれと喉まで出掛かっているのを堪えているような、そんな健気な様が見て取れた。

「イザー・・ク、ありがと・・・また・・後で・・」

その言葉に頷き、ベッドの脇に片膝を乗り上げると、同じ目線になるまでイザークは身を屈めた。若干問いたげな表情を見せるノリコの上腕をすっと伸ばした手で掴み、彼女の唇に自らのそれを合わせた。

「っ・・」

決して人前でこんな風になど振舞ったことはなかった。イザークの所作にノリコは驚き瞳を見開くが、かといって唇を離すことも出来ず、おずおずと瞑った。ガーヤも同様だろう、一瞬ギョッとしたがそこは年長者だ、大した動揺を見せることなくそんな二人を見守った。

「本当に、頼んだぞ・・ガーヤ」

名残惜しむようにゆっくりと唇を離したイザークは、まだ若干放心気味のノリコに視線を当てたまま、再びその言葉をガーヤへ送る。その顔は少しも笑ってはいない。まるで念を押すかのような口調に、ガーヤは一瞬身の引き締まる思いを感じ、改めて解かったと告げた。かの言葉の重みもイザークの心情も、充分身に沁みている。

「おまえの花嫁姿、楽しみにしている。ガーヤとユニカにうんと綺麗にして貰え」
「イザーク・・」
「会場で待っている。必ず俺の所へ来い」

穏やかに告げるイザークに、恥ずかしげに頬を染めノリコはコクリと頷いた。ノリコの後頭部に手を添え、その額に一つ口付けを落としイザークは立ち上がる。視線をガーヤに向けるが、互いにもう改めて言葉を添える必要もなしと目で挨拶を交わすのみであった。

本当は、離れたくなかったのはイザークの方である。その時間をもどかしく感じているのは、イザークの方なのだ。
前室へと身を移し扉に手を掛けたイザークの耳に、二人の会話が届く。

「さあノリコ、身体を拭いてしまおう。本当昨夜の嵐が嘘のようだよ、今日は良いお披露目になるだろうさ」
「はぃ、おばさん」

屈託の無いガーヤの声にノリコのはにかむ声が重なる。それにイザークは笑みを洩らした。自嘲の笑みであった。
殆ど眠ってはいなかったが、頭は逆に冴え冴えとしている。
出来ることなら彼女の身も清めてやりたかった。だがそれを今望むのは些か過ぎるというものか。
考え、再び自嘲い、扉を開けその部屋を後にする。そして、階下へと続く階段を降りていった。




「しかしイザークも、随分と大胆になったもんだねぇ」
「・・・おばさん」

ガーヤが洩らした言葉に、ノリコは布を受け取りながら赤面した。

「でも、あんなこと今まではなかったから・・」
「人前ではってことかぃ?」

恥ずかしげにノリコは肯いた。

「まあ・・無理もないか、気持ちは解かるさ、昨夜のイザークのあの取り乱し様を見たらね」
「・・・・・」

イザークの取り乱した様というのを無論ノリコは知り得ない。だがガイアスの森に挑んでまで自分を探しに来てくれた彼である。 容易に想像出来るというものだろう。

「別の世界へ・・・もしかしたら、飛ばされてしまったのかと・・・」
「・・へ?」
「見えない世界だったんです・・ 叩きつける雨と時折響く雷の音しか判らない、いつまで経っても闇に目が慣れてこない・・・ 何処なんだろう、ひょっとしたらイザークのいる世界ではない別な空間なのかも・・って・・」
「ノリコ・・」
「薬の所為で目が見えなくなっていたんだって、助けに来てくれた時イザークが教えてくれたの。
遠耳で声を聞けた時は、嬉しかった・・見えなくても気配で、そしてイザークに実際触れることが出来て、その温もりに包まれて、凄く安心して、あたし・・
本当は身体を起こしていられないほど酷い頭痛、それに身体中も痛くて・・・その怪我の手当てもイザークがしてくれた・・・だから・・」
「そうだったのかぃ・・」
「それなのにあたし・・いつもの癖で寝てしまって・・ ガイアスの泉の素晴らしい光景・・イザークと二人で見ることが出来たのに・・・それに、泉だってイザークとあたしを癒してくれたのに・・・水の中であたし・・意識を失ってしまったみたいで・・・・・」

自戒の笑みをノリコは洩らしたが、ガーヤは俯くノリコを見つめながら、少しでも長く休ませて遣りたいのだと、その腕にノリコを大切に抱えながら森の口で語ったイザークの姿を思い出し・・・寧ろそれで良かったのだ、イザークには何より安堵させるものとなっただろうと、感慨深くなった。
尤も、イザークと違いそこは同性である。ノリコの言葉の中に隠された微妙な女心、これをガーヤは見事に掴んでしまった。同時に、そんな切ない女心をノリコもついに抱くようになったかと、これまた感慨深くなったのだ。
両想いでありながら相当にじれったかった二人であるが、遂に年貢の納め時かね・・・と、二人の間にいずれ出来るであろう二世の顔なんぞもしみじみ思い浮かべたりしながら、じんわりと嬉しさを噛み締めた。 ガーヤにとっては孫にも等しい存在となろう。
・・・・・気持ちは非常に解かるが、些か早い。

「・・・おばさん、主だという人は何処にいるんでしょうね・・」
「ぅん?」

折角感慨深げになったというのに、暫し後ノリコがポツリと洩らした全く別な話題に、夢から引き戻されたかのように瞬き怪訝な顔をガーヤは示した。
意図しているのか無意識なのか、ノリコの場合は多分に無意識なのだろうが、その辺ノリコのまだ残念な箇所ではある。それがノリコらしいと言えるのかもしれないが。
きっと結婚後は多少変化もするだろう・・・とガーヤが感じていたかどうかは、定かではない。

「何の話だい?」
「キーナゼさんが、昨日あたしにそう言ったの。主があたしに会いたいからって、その為にあたしを連れて行くんだって・・」
「キーナゼ? 誰だぃそりゃ。あんたを連れてった男ならそんな名ではなかったようだけどね」
「あ・・その、さっきイザークが話してくれて・・・早朝に護送車で出発したのだと・・」
「何だって?」
「それで、出発際に、そう本名を名乗ったのだと・・」
「へぇ、・・まあギ・・なんとかっていうのは随分いかつい名だと思っていたけどねぇ。そうかぃ、今朝方ねぇ・・」
「えぇ・・・それで、あたしに謝りたいと言っていたそうで・・」
「昨夜のあれは嘘じゃなかったんだね、本当に改心したってことか・・」
「・・・でも、イザークが話してくれたのはそこまでなの・・」
「そこまで・・って、ノリコ?」
「あの人が首謀者だとは思えなくて・・・ 面識が全くなかったし、それに、どうしても悪い人には見えなかった・・・ 主がいると・・・捕まったのはあの人と御者の人だと聞いた、じゃあ主だという人は、きっとまだ・・」
「ノリコ」

俯き加減で話すノリコの言葉をガーヤは一度遮った。無論ノリコは顔を上げ、ガーヤを見つめた。

「それでイザークは、ノリコに何て言ったんだぃ?」
「ぁ・・・」

再び俯き、少し考えるような間をノリコは置いた。

「何も心配は要らないと、・・・でも・・」
「ノリコ」

肩に手を掛けられノリコは顔を上げる、そんなノリコに穏やかに笑顔を示したのはガーヤである。

「イザークがそう言ったのなら、心配することは何もないんだよ、ノリコ」
「おばさん・・」
「そうだねぇ、昨夜とっ捕まえたその男が白状したんだけどさ、確かに主だという人間は他にいるようだ」
「・・やっぱり」
「でもねノリコ、イザークがあんたにそう話したってことは、仮に話にその先があったとしてもだ、本当に心配する必要はないってことなんだよ。そりゃ余計な心配をさせたくない気遣いもあるだろう。だけどね、あんたを護りたいって思っているのは何もイザークだけじゃない」
「え・・」
「皆、あんたとイザークを護ろうとしているのさ、あんたとイザークが晴れて夫婦となる日を迎えられるようにってね。無論あたしも思いは同じさ」
「おばさん・・」
「イザークも他の皆もちゃんと考えてるのさ、最善な方法って奴をね。それなのにあんたが必要以上に気を揉んでどうするんだぃ? 女の子が一番輝ける日じゃないか、なのに折角の花嫁衣裳が翳んでしまうよ、ノリコ?」
「・・・・・」
「イザークを、そして皆を信じておやり」

穏やかに、しかし満面の笑みで諭すガーヤを、ノリコはじっと見つめた。そして若干目を細め、ゆっくりと頷いた。

「さぁさ、煩ってる暇なんてないよノリコ? さっさと食事して支度に取り掛からないとね。あんたを世界一幸せな花嫁に仕立てて遣るのは、あたしの夢なんだからねっ」

夢だという大袈裟な言葉に若干きょとんとしたノリコに、ガーヤは得意げに言葉を加えた。

「あんたに出会った時から密かに抱いてたんだよ、無論、花婿は絶対にイザークだって決めてたのさっ」
「お・・ばさん・・」

幾ら何でもそこまでは・・・・・・であろう。
あの時、無論離れたくなかったとはいえ、そんなことなどまだ夢にも思い描かなかったノリコである。
再度赤面し絶句するノリコを前に、ガーヤは豪快に笑った。その高らかな笑い声は外まで聞こえるほどで、それを受け、庭の緑が陽の光に輝きながらさやさやとそよぐのだった。

街の通りの石畳も軒を連ねる建物の屋根も、光を受けて昨夜の名残をキラキラと輝かせる。
清々しい朝の空気が身に沁み渡る、人々がその活動を始める刻。
生活の音が、そこかしこから聞こえ始める。







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前回の「天上〜」更新から実に一年一ヶ月振り……(´□`;)はぅぅ
なのに、こーんなに待たせといてまだ結婚式に行けんのかーいっ!?(メ`皿´)ノ_彡☆ノヾンノヾン!!
と、お叱りの声も多分あるかと思います。
今回繋げられなかった事実に一番ショックを受けているのは実は管理人だったり…orz
しかし、遣りっ放しに出来ない事柄とかもありまして、平にご容赦を。
更に、ギス兄さんってば仮名だったの?←自分でもこの展開にびっくり。
えぇと、次回は多分……行けます、ってか行かせます。
「天上〜」あと数回で完結となる筈、、、デス。

夢霧 拝(08.06.14)
『空色地図』様より素材をお借り致しました。




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