天上より注ぎし至上の光 〜 Love Supreme 〜 幕間




静寂という名の薄衣―――深き宵の森はその身に纏う・・・
激しかった先の雷雨も森の憤りの声さえも、まるで、刹那の夢空事であったかの如く――――
樹々の間では蒼き光が小さな淡い光彩を放つ。一定の様ではないが、ゆっくり点り・・そして消え・・・を重ねる様相は、星の煌き、あるいは蛍のそれを彷彿とさせようか・・・
そのあまりに幽玄なる装いは、久遠の夢界へと足を踏み入れてしまったのかと、生ける者を惑わせるだろう・・・

そんな森の中を、イザークは静かに歩いていた。
腕の中にはノリコ――――
大きな布に包まれ、イザークの胸に身を預け、最も信頼を寄せるその人の腕の中で眠る・・・



手当ての途中、ノリコはすぅー―っと眠りに入っていった。
出来るだけ彼女の苦痛を取り除いてやりたいと、イザークは薬草を遣う傍ら己の気をノリコに分け与えたのだ。更に、張った結界のお陰で寒さにも幾許かの対処が出来た。治療の為に肌を晒さねばならぬノリコにとっては、有難い事であったろう。
イザークの瞳に己がどう映っているのか・・・ 見えぬノリコにそれを確かめられる術はない。
肌を晒す事にノリコは羞恥を感じ一瞬躊躇ったが、身体の痛みにはこれ以上耐えられそうもなく・・・
震えながら、促されるままに肩と背を晒した。


「・・・・・」


手当てを施しながら・・・いつかこれと同様の光景があった――――・・・と、イザークは思い巡らし、
ああ、グゼナ国境近くの・・・あの時だったと、それはすぐに思い出された。
尤も状況は全く違う。あの時のノリコは、初めから意識を失っていたから・・・
そして無論、立場も、今と昔のそれとでは全く違う。

彼女の長い髪を除け、露になった華奢な肩としなやかな背を目にした時、内に生じた感情に若干の動揺を覚えた。 それが何であるかなど推し量るまでもない。・・・が、今は彼女を癒すのが先決・・・無茶はさせたくはない・・・
ノリコを愛おしむ想いと、同時に・・これほどまでに衰弱させてしまった事への悔恨と・・・
様々な感情が交錯し、己の内を巡る・・・


時は、もう既に真夜中を過ぎたであろう・・・
今日がその日なのだ――――
ノリコを妻として得る・・・その日なのだ――――




・・・癒セ



不意に聞こえたその声に、イザークは我に返り歩みを止めた。
更に声は続く。



癒セ・・・其ノ傷ヲ・・・ 心ト身ニ負イシ傷ヲ、癒スガ良イ・・・



「癒す・・・」

ふと視線を前方の木立に移した。
仄かな蒼い光彩を放ちながら洞窟らしき穴が僅かにその姿を覗かせている。しかしながら、注意深く探さなくては見落してしまいそうな・・・木立と緑に守られてそれは在るように思えた。 昼間ならば草木に隠され、知らぬ者ならまず違えなく見落とすだろう。
精霊達の声は尚も、癒せ・・癒せよ・・・と木霊する。神秘的なその輝きに誘われるように、イザークは穴の中へと足を踏み入れた。

知らずその足が止まる―――――
不思議な光彩で煌いている所為だろうか・・・ こんな刻限にも関わらず、その場所は淡く明るさを保っていた。
なんという神秘的な光であろう・・・ 見上げれば天面には開いている箇所があり、撓垂れる緑の間からは微かに星の瞬きも望める。 そして視線を戻せば、奥には豊かに水を湛えた泉が見える。

「・・・洞窟の中に・・泉・・」

ノリコを抱いたまま、イザークは静かに泉の際まで歩み寄った。壁の色彩光の反射に因るものなのか、それともこの水自体がそうであるのか・・・ 泉の水は澄みとても蒼かった。濃紺の色彩を保ちつつ、底と思しき深部の方からは時折仄かな蒼白い光が浮かんでは消えている。

「・・・そうか・・ここが・・・・・」

―――ガイアスの泉・・・その地であると、悟った。

滾々と清水が湛えられる泉を眺めながら、禊をしたノリコの言葉が脳裏に浮かぶ――――
とても神秘的な素晴らしい場所なのだと・・・ 一緒に見られたら、そして共に水浴出来たらどんなに良いかと・・・
その通りだ、そう感じずにはいられない。
本来なら己がこの地に在ることなど、どんなに足掻いても望めぬ・・・居合わせただけで奇蹟・・・
そんな思考が掠め、僅かに苦い笑みが浮かんだ。

雨の忘れ形見か・・・ 天面より滴る雫が、透明なる音を水面に生む。
ピチャーン・・・ピチャーーン・・・――――
空間に浸透するように静かに響き渡っていく・・・ 心地良さを覚える音だ。
そしてそれに共鳴するように更なる光彩を壁の蒼が放っている。
知らず心の中まで洗われてゆくようで、瞑目し深く息をついていた。


腕の中のノリコに視線を移す。



――――イザークの・・所為じゃない・・よ・・・・



「・・・・・」

俯せに身体を横たえ俺の手当てを受けながら、ノリコはそう呟き微かに笑みを浮かべた。
笑顔など見せられる状態ではなかったろうに・・・俺に心配を掛けまいとして・・・・・・
ノリコは俺を責める言葉を一切口にしなかった。尤もそれがノリコだ。いつも、いつも・・・おまえは・・・



――――注意が・・・全然・・足りなくて・・・・・ 皆にまで心配・・掛けて・・・ だから皆・・あたしが・・悪い・・・



「ノリコ・・・」



――――逢えて・・・良かった・・・・ 過ぎてしまってなくて・・・良かった・・・・・



そうしてまた、瞳から涙が流れた・・・ 泣かせたくはないのに・・・

だが、その言葉で俺の中にも熱いものが流れた。それは否めない。
同じ想いなんだ。再びこの腕にノリコを抱きしめた時・・・どれほど安堵の気持ちに満たされたか―――



そこまで思い巡らした後、ぐっと瞑目した。
込み上げてくる感情に、奥歯を噛み締め、そして僅か後・・・また静かに眼を開く・・・

視線を周囲に移し、何処かに横たわれそうな場所はないかと探した。さほど間を置かず蒼く苔生す地所を見出し、柔らかな場所を選びそっとノリコを横たえた。彼女を包んでいた布を静かに開く。
手当てを全て施した後、イザークは眠っているノリコの身体に負担を与えぬようにと軽くその衣服を着せてやっていた。 胸元を留めていた結び紐は緩く結わえてあるのみ・・・ 合わせ目の隙間からは僅かではあるが肌の白が覗いている。
履いている靴を脱がせノリコをそっとまた抱き上げると、イザークは泉の岸辺へと向かった。そして腕にノリコを抱いたまま泉に入り、浅所へ静かに腰を下ろした。二人の腰から下が水に浸される。
冷たいだろうと思っていたそれは、存外冷たくはなかった。寧ろ仄かに感じる温かさに、不思議な事もあるものだと吐息を交え僅かに笑んだ。

不思議な感慨に知らず思考を奪われそうになる・・・ 気が付けば、そんな思考にぼんやりしている己がいる。
・・・疲れて・・いるのだろうか――――・・・確かに、心労を感じたのは否めないが・・・


残っていた己の衣服の端を千切り、泉の水に浸しノリコの頬に付いた汚れをそっと拭き取った。こんな物でも何もないよりはマシだ・・・

「・・・・・」

ノリコを見つめながら思う・・・早く楽にして遣りたいと・・・

手当てしたとはいえ所詮応急に過ぎない。気を与えた程度ではまだ足りぬだろう。充分に時間を掛ければ薬の影響も抜け快復もするのだろうが、今日の式を楽しみにしているノリコの為にも、明るくなるまでにせめて少しでも癒して遣りたい・・・



癒セ・・・ 其ノ傷ヲ、共ニ癒セ・・・



「・・・声」

視線を僅かに上方に向け、その声に耳を傾けた。いや、声は頭に直に伝わって来ているのだから無駄な所作であるかもしれないが、おかしなもので、空間へ・・・不思議なこの泉、そして蒼く揺らめく壁の光へと目が行ったのだ。



深キ源ノ恵ミニ・・抱カレヨ・・・



《癒せ》という森の導き・・・ 伝えられた言葉は短かったが、それで全てを解した。


「俺はいい・・・ ノリコを、・・・彼女を癒してくれ」

切に願う――――

この美しい光景そしてその業に、人智の到底及び得ぬ自然の意思、そして力を感じ取った。
ノリコが聞いたという『声』も、自分が聞いたかの嵐の『声』も、恐らく同一の主によるものであろう。
何かに縋る、そして願う――――
有り余るほどの時があるのなら、幾らでも自分が傍で看て遣りたい。
だが、夜明けまでにそれほどの時は残されてはいないようだ。
ならば今は何でもいい・・・ どんなものでも、縋れるものなら縋りたい。
少しでもノリコを楽にして遣る為に。今はただそれだけを願う。
だから・・・
この泉に癒しの力があるのなら・・・ 叶えたい―――――――




ぴくり―――――・・・ ノリコの瞼が微かに動く。
纏わる水の感触に気付いたのか、長い睫が揺らぎ、ゆっくりとノリコの目は開いた。

まだ少しのだるさを感じる・・・ それでも、・・・ああ・・・あの時よりはずっといい・・・・・・
そんな思考の中をぼんやりと漂いながら、徐々にではあるが、ゆるりその視界に入ってきたもの。
仄かに明るい、蒼く輝く空間。天面からは月のそれであろうか、光が筋となって注いでいる。
静寂に満ちて・・・ 時折滴る雫が奏でる、心地良い調べ・・・ 微かに温もりを覚える、柔らかな水の感触・・・

そして・・・

「・・・ぁ」

蒼き光彩の中で、自分を優しく見つめるイザークの姿。
きらきらと周囲の景色に溶け込んで、それはまるで物語の中の光景を見ているかのようで・・・
夢の中を漂っているかのようで・・・

なんて、綺麗なのだろう・・・
こんなに・・綺麗な人を・・・ 他には・・・知らない・・・

ああ・・・ やっと・・・やっと・・・――――


随分と長い時を経たかのような、そんな錯覚に囚われる。
涙で瞳が潤み、それでも微笑を浮かべ、ノリコはイザークを見つめた。

「イザ・・ク・・・ 凄く・・きれい・・」
「・・・ノリコ・・」

言われた方は、やや照れたような戸惑ったような・・・そんな、何とも言い難い笑みをその顔に浮かべた。そして何か眩しいものを見るように、目を細めた。 ノリコの腕がゆっくり上がり、指先がイザークの頬に触れる。その手にイザークは自分の手を添えそっと握った。

ノリコの瞳はもう囚われていた時のように曇ってはおらず、今は澄んでいた。そしてその眼差しは、イザークだけに向けられている。

「ノリコの方が・・・ずっと綺麗だ」
「イザーク・・」
「見えるのか?」
「・・・ん・・・ でも、まだ・・・少しぼんやりしてる・・・ だけど・・・ずっと、いい・・・ だって、」

――――感極まった涙が一筋、その頬を伝う。

「だって、やっと・・・やっと・・・ あなたの姿が、見れたから・・・」
「・・・ノリコ・・」

涙を拭うように、イザークの指がそっとノリコの頬に触れた。ゆっくりとまた瞑目し、添えられている手に心地良さげに、そろり自分の手を添える。 感慨深げに長く息が吐かれ、そしてまた静かに瞳を開き、見つめた。

「水は、冷たくはないか?」

イザークの問いにノリコは「ん・・」と小さく頷く。

「ここ・・・あの泉なのね・・・」
「ああ」

「・・・嬉しい」

そう呟き、ノリコは若干瞼を伏せた。

「ご免なさい・・・ 皆に迷惑掛けて、本当は、喜んじゃいけないのに・・・ ここにもう一度来れたのが・・凄く、嬉しくて・・・」
「ノリコ・・」
「ここの景色・・・あなたと一緒に見れるなんて・・・思ってなかったから・・・ だから・・・」
「ああ、俺も見れるとは思ってなかった・・・ 本当に美しい場所だな・・・」
「うん・・」

そして暫くは言葉もなく、二人静かにその美しい光景に目を向けていた。




「ノリコ・・」

沈黙を破るようにイザークは口を開く。だが視線は合わせていない、泉に向けられたままだ。しかも、何処か虚ろにも見える。実際イザークは泉を見ていた訳ではなく、それを越え何か別の事柄に思考を飛ばしていた、そんな感じの虚ろさだ。
それに対しノリコは問うように見つめ、傍らのその人の次の言葉を待った。

「今日の・・婚儀を終えたら・・・ この国を・・・出ようと思う・・・」

やはり虚ろげに聞こえる、感情の伴わぬ抑揚なきその声・・・
ゆるりと紡がれたイザークの言葉に、ノリコは僅かに見開いた。だが、彼を見つめる表情は程なく穏やかなものに戻る。 ・・・まるで、発言の真意を悟っているかのように。

「・・・ついて・・いくよ、イザーク・・・」

その言葉に、瞬間光を取り戻したかのようにぴくりと見開かれ・・・ そのまま、ゆるり視線をノリコに移す。 多少なりとも反対の憂き目を見ると覚悟はしていた。だが、ノリコの表情はやはり変わらずに穏やかだ。

「イザークと一緒なら、何処にいてもいい・・・だから・・・」
「ノリコ・・・」
「ご免・・ね・・・ あたしの所為で・・迷惑掛けて・・・」
「ぇ・・」
「いつも、あたし・・・あなたの足、引っ張ってしまってる・・・」
「・・ノ・・リ・・」

掛ける言葉に詰まる・・・ そんなつもりで言ったのではなかった。迷惑になど微塵にも感じてはいない。
そも今回の事はノリコには何の責任もない。誰よりもイザークがそれを解している。

「・・・何を・・・ノリ・・コ・・」

詫びるノリコの言葉を遮ろうと微かに震える口をまた開くが、それを遮るかのようにノリコはゆっくり首を左右に振った。

「連れてって・・ね・・・」
「ぁ・・」
「また・・・あなたに・・迷惑掛けてしまうかもしれない・・・足を・・引っ張ってしまうかもしれない・・・それでも・・・」

「・・・置いて・・かないで・・・ね・・・」
「・・・ノ・・」

瞳の端に涙を浮かべたまま微笑み想いを告げるノリコに、イザークは完全に言葉を失った。

「お願い・・・」
「・・・・・」

・・・置いていける・・・筈がない・・・―――――

言葉を、何も返せぬまま・・・ イザークはノリコから視線を外し、伏せた。ガーヤの許にノリコを置いていったあの日の事が、この瞬間ここに実現しているかのように脳裏に重なり愕然となる。

「・・・・・」

少なくともそれが最善であると、あの時は思った。だが結果として、後にそれを悔いた。

「・・・くっ・・」

無論、それがノリコへの思いを改めて考えるきっかけとなったのだとも言えるだろう。だがそれはまた別な話。 最早置いていける道理などある筈がない。己の命を懸けてでも護りたい、失いたくない唯一の存在であるのに。
瞑目しぐっと歯を噛み締め、何かを否定するように頭を振った。微かではあるが、イザークは震えていた。
心の中でそれが爆発する。
置いてなど、いける筈がない――――
もう・・・ 後悔に身を灼き尽くすような思いなど、したくない――――

何年経とうが忘れられぬ・・・いや決して忘れてはならぬ。
それは大いなる皮肉、そして同時に苦味の拭えぬ教訓でもある。
《忘れぬ》というそのことが、己の認識を常に再覚醒させる。
当たり前だとは決して思うな。千や万に一つ、・・・いや違う、そんなもんじゃない。
気が遠くなるほどの稀少な確立で成り立った奇蹟。己が救われたのはそんな奇蹟なのだ。




「ついてきて・・くれるか・・・?」

暫く黙っていたが、自然、その言葉が口から生じた。

「何処かに・・・落ち着いた方がノリコの為だと・・・そう思っていた。だからこの地に赴いた。なのに――」

また、言葉に詰まる――――じっと何かを考えるかのように、置かれたその『間』は長かった。


「・・・・・・すまない」

ようやく繋いだ言葉に、ノリコはゆっくり首を左右に振る。

「・・自分を・・責めないで・・・・あなたの・・所為じゃない・・・ あたし、本当に嬉しかったもの・・」
「ノリコ」
「一緒にいられたら・・あたしは幸せ・・・ 何処であっても、イザークと一緒なら・・・ だから、ずっと旅の生活であっても、構わない」
「ノリコ・・・」
「野宿だって・・好きよ・・・空の星を眺めながら眠るのが・・好き・・・ これからは、あなたの腕の中で眠れる・・・いつだって・・イザークの鼓動と・・温もりを感じながら・・眠れる・・・」

「・・・・これ以上の・・幸せはないわ・・・」
「・・・・・」

満足げにそう告げるノリコの柔らかな笑顔・・・

たとえようのない感情が内を満たす。感動のそれであるのか・・・それともただ己を情けなく思う故の感慨か・・・ どちらともつき難い複雑な心境に瞬間どん底まで落とされどっぷりと浸かった。しかも浮上すら易くない。
未だ慣れぬ感情だと思い知る。イザークは眉根を寄せ、僅かにその視線を伏せた。

「・・・く・・」

ノリコの身を支えていない方の掌で、ゆっくりと己の顔を押さえた。
・・・情けない。癒すどころか、これではどちらが慰めを得ているのか。

「・・・っ―――」

何かを言わねばならない。なのに唇が微かに震えるだけで、歯痒いほど言葉にならない。伝えたい想いはたくさんある筈なのに・・・
込み上げてくるものに圧し潰されたかのように、喉の奥からはくぐもった嗚咽しか出てこない。





「・・・・・しな・・い・・」

伏せた顔のその部分は髪に隠れ窺えない。だが、瞳であろうその場所から光るものが一筋頬に伝い、そして落ちた。醜態だとは思うが、どうでもいい。最早構ってるゆとりなど微塵も残ってない。
本当は叫びたかったのだ―――― それを抑えられただけでもまだマシだ。

「・・・・置いて・・いったりは・・しない・・ 二度と・・・」
「イザー・・ク」
「俺には・・・ノリコだけだ・・・」

長い間を置いた後、ようやくゆっくりとその言葉は紡がれた。嗚咽の後のそれ、途切れ途切れではあったが、己が今思う気持ちの全てをその言葉に込めた。それから・・・ノリコを再びその腕に抱え上げ、イザークはゆっくり立ち上がった。二人の半身を濡らしていた水がさらさらと滴り落ちる。

この腕に決してずしりとは感じない、それほどに彼女は軽い。心切なくなるほどに。・・・だが、反対に存在は何よりも重い・・・やはり自身の心をも握り潰してしまえるほどに・・・
ノリコが長い時苦しむのをイザークは是としない。己が代わって遣れれば尚好しとする。彼女が心から笑顔になれることを何よりも望む。

それはノリコとて同じだ。イザークに代わって貰おうなどと露にも思わない。たとえその怪我がどんなに人より早く回復しようが、ノリコはいつもイザークの身を案じ、その身に負うやもしれぬ苦痛を厭う。

「森の力を借り・・おまえを癒す・・・」

ノリコにそう告げ、ゆっくりと泉の中央に向かう。二人を中心に水面には幾重にも波紋が拡がり・・・深みへと進むほどに水の蒼はその輝きを増した。
そして足元に踏みしめるべきもののない場所まで行き着き、躊躇うことなく更なる水の深みへとその身を投じた。――――コポコポと水音がする中二人の身が沈み、細かい気泡が二人を包んでいく。
水は蒼くそして淡く光彩を放つ。それは透明なる光を帯び、また消え・・・を、不規則に繰り返す。

イザークは、力の入らぬノリコの身体をしっかりと抱いた。
泉の底へと落ちていってしまわぬように・・・ その腕に、大切に・・・・・・


二人の髪がゆらゆらと揺らめき漂う中、ノリコはうっすらと目を開けた。
目の前にはイザークの肩がある。そこへ顔を凭れさせた。
水とイザークの温もりを感じながら、ああ、あの時と同じだ・・・との思いがよぎる。
泉は自分を温かく包んでくれた。
まるでイザークの腕の中にいるような安心感・・・ ああ、これなのだ・・・と。
僅かに身動ぎ、顔を上げる。森とイザークの気が包んでくれる、だから水の中でも呼吸は苦しくない。

そう・・・ あの時も、苦しくはなくて・・・ そして、とても心地良くて――――


視線が絡み合う。


――― ・・ノリコ・・・ ―――
――― イザ・・ク・・・ ―――


互いの名を心で呼び合い、穏やかに笑む。そして―――唇が触れ合った。



・・・融けていくようだ・・・と、感じた。

身も心も、重ね合った唇から、全てが融けていくようだ・・・と・・・


それは短い時であったのか、それとも長い時であったのか・・・ ノリコには判らなかった。

ただ、とても心地良いと・・・

何もかもが解き放たれるような、心地良い時であると・・・

エンナマルナでの精神の融合・・・ 光の世界の扉を開け、二人の意識が溶け込んだ・・・・・・

あの、心地良い・・時と・・・

似ている・・・と――――



無論、ここに月貴石はない。
心揺るがすような多大なる力をもたらす影響力が存在している訳でもない。
そして森の意思、精霊達のそれも、何か特定の対象にのみ益や害をもたらすものではない。

それでも・・・――――

と、ノリコは思う。癒されている。癒されているのだ。
薄れゆく意識の中で、ノリコは確かに・・・そう感じた。



そして・・・

底深き源より生じた蒼白き光。それは二人の身体を包むように、更に輪となり拡がった。
そして一際煌き水面まで拡がった光は泉全体を覆い、尽くせぬ溢れた光が洞窟いっぱいに拡がり煌いた。
天面の穴より溢れ出た光の勢いは留まるところを知らず、天空へ向け、さながら柱の如く伸びてゆく。
僅かな時であったが、真昼を思わせるほど・・・ 夜の空にその存在を顕にしたのだ。

洞窟の蒼く苔生す壁も光に共鳴し輝いた。
きらり、きらり・・・と、人知れず二人を癒す。
精霊達の微笑む柔らかな声も、静かに森に木霊した。


その奇蹟を目にした者はいない。

多くは・・・ と、語ることにしよう・・・
そう・・・夢の中の住人へとその身を変えているのだから・・・









「お・・おぃ・・・」
「ああ・・・」

そんな中で空に煌く光の柱を目にすることが出来た彼等は、幸運かそれとも否か・・・

「天に伸びる・・光の柱・・・」
「ええ・・・泉のある洞窟の方角よ・・・」

バラゴ、バーナダム、ガーヤ、そして、カイザックにニーニャ。彼等はまだ戻らぬイザークとノリコを案じ、森の入り口付近までやって来ていた。 そして、この奇蹟を偶然目にした。
あと数時で夜が明ける、そんな刻限だった。だが、イザークが街を出て以来眠ろうとした者は一人もいない。皆、二人の無事な姿を確かめるまでは・・・  いや、今日の二人の婚儀が滞りなく執行されるまでは、ゆっくり休むつもりすらないようだ。



「本当にここで待っていればイイのか?」
「ああ。森がイザークを通し、精霊とやらの導きがあるのなら、ここに戻ってくる筈なんだが・・・」

言いながらカイザックは足元に視線を遣る。その眉根が芳しくなく寄っている。

「どうした? カイザック・・」
「ここを見ろ」

言われて男達はカイザックの示す足元を見た。地面の色が変色している。それは見る者が見れば薄闇でも解かる、明らかに違う色。雨で流され掛けたそれは、土と混じり微妙な色合いに変わっていたが、ここに来るのが初めてではないカイザックはその変化に疎くはなかった。そして他の者も、にわかには判別し難いそれを怪訝な顔でよくよく見つめた。

「なんだ、これは・・・」

その場に屈み武骨な指でそれに触れてみた。雨に降られたとはいえ、時を経てねっとりとなっていたそれは土と混じり、えもいえぬ感触だった。

「・・・血か」

戦士のバラゴにはそれがなんであるか解かったようだ。バーナダムの顔にも緊張の色が走る。

「獣のそれではないな。しかも、あの雨の後でもまだこれだけの量が残るとは、かなりの血を流したと見える。やはり・・・あっさりと通してくれた訳ではなさそうだ」

腕を組みながら、カイザックは森を再び見据えた。他の者達も、緊張感が拭えない。

「ああ・・無事でいておくれよ、イザーク・・ノリコ・・・」

己の留守中にノリコが行方不明になってしまったガーヤは、特に気を揉んでいたことだろう。森の奥をじっと見つめたまま、祈るような面持ちでいた。

「しかし、ホントにここに男は入っちゃいけないのか? 見た限り普通の森と全然変わんないじゃないか」

憮然とした顔で、バーナダムは森に数歩足を踏み入れた。・・・が、

「!!・・うあっ!?」

途端に彼の視界が音もなしにぐにゃりと歪んだ。その場にバーナダムは動けなくなり、何か恐ろしいものでも見たかのように、口を大きく開けたまま固まっている。 これに他の者が慌てない筈がない。他の者から見たそれも、一瞬空間が歪んで見えたのだから。

「やだっ、バーナダムっ!」
「莫迦野郎っ、何遣ってんだっバーナダムっ!!」

しかし彼を引っ張り出そうとして、叫びながらバラゴも迂闊に足を踏み入れてしまった。

「うっ! があっ!?」

当然の如くバラゴの視界も歪んだ。ぐにゃりぐにゃりと目の前が混沌、澱み回る。そして頭の中をまるで素手で握り潰され掻き回されるような感覚。バラゴもまたその場に動けなくなってしまった。

「やーん、もう二人とも〜っ!!」
「全くもぉ〜世話が焼けるよっ、あんた達っ!!」

血相を変えたニーニャとガーヤが森に入り、固まった二人を引っ張ったり押したりして森から助けた。女性がそこにいてくれたのは、彼らにとって幸運だったろう・・・。

しかし、本人達にしてみれば至って大真面目な状況であるのだが、何処か茶番に見えなくもない。
その証拠に、カイザックに至っては、

「やれやれ・・」

・・・呆れている。



「もぉぉ・・・大丈夫? 二人とも」

ニーニャが二人に声を掛けるが、

「・・・・・」
「・・・・・」

二人ともまだ正気に戻れないのか、声も出せず固まっている。これには、カイザックも更に嘆息した。

パチンッ!

二人の眼前で指を鳴らす。一瞬二人の身体が弾かれたようにビクついた。

「う」
「あ」
「大丈夫か? おぃ」

呆れ笑いを浮かべたカイザックに声を掛けられ、正気に戻った二人は暫し惚けていたが、なんともバツが悪い。

「ああ、面目ねぇ。・・・その、なんていうか・・・掻き回される・・・不思議な感覚なんだ・・よ・・な」
「う・・ん・・・その、目の前がいきなりグルグル回るんだ。ギューンって感じで、ホントに終わりがないというか・・・そこだけ世界が違うというか・・・ それに頭の中に嫌な音がしたんだ。ギィィーーーンって響いて来るんだ。白霧の森の比じゃない・・・ホントに直接的だ・・」
「で、動けない。だろ?」
「ああ・・」
「症状は人にも因るらしいがな。この森は外見は普通に見えても中はそうじゃない。終いになると常に幻影を見せられる。しかも性質の悪いことに本人にはそれが至極心地良いらしい。次第に恍惚から抜け出せなくなり、気違いもどきが完成するという寸法だ。早く出られたからあんた等は正気に戻れたが、気を付けるんだな」
「ぉ、おお・・」
「すまん・・」


「それにしてもじれったいよ・・・ここでただ待っているしかないのかねぇ・・」
「ガーヤ・・」

嘆くガーヤの肩にニーニャは手を掛けた。

「そりゃあ、私達ならこの森には入れる。でも、森は侮れない。静かに見えても、森が本当に鎮まっているかどうか解からないままでは、迂闊には・・・」

最後を濁すニーニャの言葉に、ガーヤも半ば諦めたように溜息を吐いた。


「さっきのあの光、天まで伸びていくのが見えたが・・・イザーク達に何か関係があるのかなぁ」

呟くバーナダム。皆はまた森の奥、ガイアスの泉の方向を見つめた。


「おいっ、あれ・・」

更に発したバーナダムの言葉そして指差す方向を皆は見つめた。程なく、辺りを含め森に小さな光がふわりふわり浮かび漂っては消えていくのが見え始め、驚いて辺りを見回す。 そして森の奥の方に蒼白い光に包まれた何かが見え、それは徐々に大きくなっていった。そう見えていたのは、それがこちらに近付いていた為だ。

「イザーク・・・」

近付くにつれ、それははっきりとした。ノリコを腕に抱いたイザークの周りを蒼い光が包んでおり、それが二人の姿を蒼銀のように光らせて見せていたのだ。まるで二人を庇うかのような優しい光。そしてふわり点滅する小さな光は、道標となり二人を導いていた。 皆の顔に安堵の色が浮かぶ。

「ノリコも・・・ああ、無事だったんだね・・」

イザークが森の結界の外に一歩出た刹那、それまで纏っていた光はその役目を終え静かに消えていき、二人の姿も従来のそれに戻った。 再び無の静寂が辺りを包み、さっきまでは感じなかった柔らかな微風がさわさわと肌を掠めるのを、皆は感じた。

「イザーク・・ノリコ・・」
「よく戻ってきたな、イザーク」
「お帰りなさい・・」

皆思い思いの言葉で二人を迎えた。尤も、ノリコは未だイザークの腕の中で眠っており、この事を聞くのは彼女が目覚めてからになるが。
そしてイザークは特別その顔に歓喜の感情を表すでもなく、無言のままで皆に応えた。ガイアスの泉を離れ、ここへ向かうまでの間もずっと彼は無言そして無表情だったのだ。

「しかし、おまえのその格好・・・ひでぇな」

バーナダムに至っては、まるでいつかのあの台詞を彷彿とさせる物言いだった。ノリコの無事を喜び、眠る彼女の顔を窺おうと布に僅かに触れた、その刹那――――

バチィィィーー―――――ッッ!!!

「うあっっ!?」
「 !? 」

突然のバーナダムの叫び声に誰もがギョッとした。まるで感電でもしたか、大きな力に弾かれ彼は大きく何歩か後退した。いやさせられたと言う方が相応しいかもしれない。
ノリコを一層大切に腕に抱きバーナダムに視線を遣るイザークの表情は、氷のように冷たく尖っている。

「眠っている、触れるな」

低い声での威嚇。これに「やれやれ」と嘆息を洩らしながら近付いたのはカイザックだ。

「もっと肩の力を抜けイザーク。気持ちは解かるがな、そんなに張り詰めてたら保たんぞ」
「・・・・・」
「まあ恩を売ろうなんて気はないがな、皆ただ純粋にあんたとノリコを案じている。・・・汲んでやれ」
「・・・・・」
「今頃夢を見ているのは、ジーナのような子どもやご婦人達ぐらいなもんだ。ジーナを一人残す訳にもいかんと残ったアゴル、それから大公の二人の息子達も寝ないであんたとノリコの帰りを待っている。そしてアレフは、牢所であの男達の寝ずの番だ」
「・・・・・」
「どういう事か、解からん訳でもなかろう?」

「イザーク・・」

ガーヤもニーニャも心配げな面持ちで挙動を見守る中、ようやくイザークはカイザックと視線を合わせた。そして置き所なく佇むバーナダムに視線を移した後、僅かに顔を伏せる。

「すまん・・ 少しでも長く休ませてやりたい・・・ だから触れて欲しくない」
「う、・・・ん、まあ、そういう事なら解かる。解かるから、それ以上は言うな。・・・ノリコが一番大変な思いをしたんだもんな。俺も悪かったよ」
「ノリコの具合はどうなんだ? 怪我はしてないのか?」
「町長の屋敷の方に手当ての用意は全てしてあるよ、イザーク」

「・・・諸手を上げて大丈夫だとは言い切れないが・・・」

バラゴとガーヤにイザークは答え・・・それから視線を後方の森に僅かに向ける。そしてその森を見据え、

「森が、力をくれた・・・」

言葉少なにそう呟いた。余り多くを語らないイザークに、皆はやはり先ほど垣間見た光柱が、その印であるのだと察した。

「あんたは、どうなんだイザーク」
「・・・?」

カイザックの問いに、イザークは一瞬の間を置き静かに視線を向けた。何故自分に? というような怪訝の色合いのその目に、カイザックは一つ息を吐き、やはり視線はそのまま指で地を指し示す。そしてイザークもカイザックがそうしたので、下を見た。

「あんたのだろ?」

そこには、先ほどカイザックが見つけた血糊がまだ残っている。イザークは表情も変えず、問いにも無言のままだ。

「獣のものじゃない。まさか森を抜けただけで、そこまで服がボロボロにはならんだろ。怪我はないのか?」
「・・・見ての通りだ。案ずるには及ばん」

暫し黙っていたが、カイザックの続く問いに短くそう告げた。

「・・・森は、あんたに刃を向けなかったのか?」
「・・・・・」

その問いにイザークは無言のままカイザックを見据える。

「身に受ける事で、森の怒りを鎮めた・・・そうなんだな?」
「・・・過ぎた事だ」

肯でも否でもないイザークの答えに、カイザックは苦笑するしかない。だが、身震いも同時に覚えた。
・・・無理もない。他の誰にも真似の出来ない業だ。

「あんたって奴は・・・まあいい、乗れ」
「 ? 」
「ここで立ち話もなんだ。明日・・いやもう今日か・・式の準備もあるしな。式は午後からに予定変更だ。あんたも少しでも休んでおかないとな」
「カイザック・・」
「ノリコも多少は休めるだろう。まあ大事をとって延期というのも考えるには考えたが」
「いや、今日でいい」
「そう言うだろうと思ったぜ。さあノリコとそこの馬車に乗れ。これ以上の長居は無用だ」

カイザックの示す方向に目を遣ると、停めてある馬車が目に入った。他の者達が乗ってきたと思しき馬も数頭いた。

「・・・・・」

・・・気付かなかった。

重要でないと思える事にはそも思考すら及ばない。徒歩で戻るつもりでいた。いや、そのことすらあまり深く考えてはいなかったかもしれない。ノリコを無事に取り戻す、彼女の安全を確保する。そういう優先順位だ。 だからカイザックの言葉にも返答する文言がすぐに出て来ず、初めてそこに考えが及んだと気付く。大体皆がここまで来てくれていたということからして想定外だったのだ。・・・その程度だ。

「ノリコに関しちゃ、全くそつがないのがおまえなのになァ」

とは、後にこの話を聞いたバラゴの談だ。バラゴはこの場に居合わせていたが、イザークがそんなことを思っていたとは露知らずだ。だからこそ意外だという顔で笑った。 その通りだ。それはイザークも感じていることだ。だから手抜かりだったと改めて気付いたのだ。

「徒歩で戻るつもりだったのか? いい加減昼になっちまうぜ」

と、これは後のカイザックの談だ。『昼』とは少々大袈裟だが、彼もまた笑いながらこの台詞を言うことになる。
・・・全くだ。逆を返せば、それだけ気持ちにゆとりがなかった証だろう。

ノリコが笑顔で、健康で、軽やかに駆けたり、花を摘んだり、自分の傍で自分に話し掛けてくれて・・・・・・
それが充足されれば、他はさほど意に介さない。
・・・と、これまた少々大袈裟かもしれないが、イザークにとっては、多分その程度の優先順位だ。
しかもそれを真顔で考えている、その辺からして・・・ある意味才能と言えるだろう。



そしてカイザックの一声で、皆はそれぞれ馬に跨る。ニーニャはカイザックと共に馬車の御者台へと乗り込んだ。

「・・・・・」

腕の中のノリコに視線を落とし、彼女が変わらず眠っているのを見てから、イザークは用意されたその馬車にそっと乗り込んだ。 二人が乗ったのを確認し、手綱を握るカイザックは静かにそれを波打たせ発車させる。
道行きの振動からノリコを護るように、眠るノリコを胸に大切に抱く。伝わってくるノリコの温もり、安らかな息遣いを感じ、ようやく抜けなかった気をイザークは緩め、深く息をついた。









屋敷に戻ってからも暫くは慌しかった。イザークはノリコを一室のベッドに静かに横たえた後、ガーヤとニーニャに手当てをするからと否応なしに部屋を出されてしまう。 一方ガーヤとニーニャはノリコの身体に傷一つないのを見届け、体力の消耗だけで済んだのだろう・・・と安堵した。部屋は適度に温められており、休息を取るのには申し分ない。
尤も、ノリコの怪我をイザークが手当てしたことや泉で傷の癒しを受けたことについては、二人共知る由もない。それについてイザークが殆ど語っていないからだ。



「・・・そうか、奴がそんなことを・・」
「遣ったことは許されん。相当の罰も必要だ。だが奴もまた苦しんでいた。その気持ちも解からんでもない」
「・・・・・」

二人が無事に戻ったのを留守番組の男達も見届け――ただイザークの井出達には、やはり誰もが仰天したが――カイザックの勧めもあり、安堵しつつ僅かではあったがそれぞれ休息の床に就いた。そして締め出されたイザークは別室で着替えを済ませた後、廊下でカイザックからギスカズールについての話を聞いた。 腕を組みながら視線を伏せじっと話に耳を傾けていたが、その表情は芳しくない。

「来るのか、その女が・・」
「らしいなァ。だがあんたは手を出す必要はない。ノリコだけに集中していろ」

カイザックの言葉に、イザークは視線だけを上向け問う意を込めた。
しかし、イザークを見るカイザックの表情はニヤリと悪戯だ。

「ウィズリーンに対し一方ならず思うこともあるだろう。無論俺達だって腹立たしい。だがな、婚儀ってのは女にとって一大事だ。あんたそれをぶち壊しにするつもりか? 一生カミさんに頭が上がらなくなる、それでもいいのか?」
「・・・カイザック」
「だからあんたはノリコにくっ付いてろ」
「・・・・・」

毒気が抜ける。どうしたらここまで飄々とモノが言えるのか。有無を言わせぬカイザックの物言いに流石のイザークも二の句が継げなかった。この辺は年長たるカイザックの方に分があると言えるだろう。

「それに、奴の気持ちに変化を与えたのがノリコの一言だとすれば、あんたにも通じるモノがある。そうじゃないか?」
「・・・・・」
「後のことは俺達に任せてくれればいい。実はな、既に打ち合わせも済んでいる」
「 !? 」

その言葉にイザークは更に面食らった。

「何の為の仲間だ?」

更にニヤリと笑うカイザックに、イザークも程なくふっと微笑う。

「解かった、任せよう」

その返事にカイザックも満足げに頷いた。

「さあ、あんたも少し休め。ずっと気張っていたんだろ? まあ大して時間もないが、仮眠程度にはなるだろ」
「ああ」

じゃ・・とその場を去ろうとするカイザックをイザークが引き止める。

「カイザック」
「なんだ?」
「明日の朝、ノリコと二人この国を出る」
「何?」

イザークの発言に、カイザックは己の耳を疑った。

「聞き間違いか? バラチナを出ると聞こえたが」
「間違いではない」
「何故だ」
「理由は、あんたが心得ている」
「イザーク・・」
「散々世話になっていながら、すまないとは思うが」
「ノリコはどうする。二人の家も構えるんだろうが。がっかりさせるぞ」
「承諾済だ」

カイザックは更に目を剥いた。イザークの表情は尚も変わらない。カイザックも思っただろう、何故この男はこうも表情を崩さずこれほどまでに淡々とモノが言えるのか?・・・と。
・・・こちらの方は、背負わされてきた宿業に因る精神の錬の違い・・・とでも謂わしめようか。

二人の男の表情は厳しい。

「イザーク」
「もう・・後悔はしたくないんだ・・」
「な・・」
「話はそれだけだ、じゃ」
「お、おいッ」

カイザックの呼び止めにも応じず、丁度部屋から出てきたガーヤとニーニャと入れ替わるようにイザークはノリコの眠る部屋の中へするりと身を滑らせる。 その無駄のない所作は、カイザックはおろかガーヤとニーニャも「あ・・・」と驚かせたほどだ。
呆気に取られる三人の前で扉が静かに閉まり、カチャリ・・・と錠を掛ける音がした。


「どうしたのよイザークは・・・二人で何の話をしてたの?」

そう問うニーニャの前で、カイザックは苦虫を潰したような表情だ。

「あいつ・・・」

腕を組んでいるその姿は何処かイラついているような、そして呆れているような・・・

「・・ったく参るぜ。あの頑固でクソ真面目な性格、なんとかならんのか・・」

カイザックのこぼしにも、ニーニャとガーヤはきょとんとするだけだった。




そして花の町は・・・ 長かったその夜に、静かに別れを告げてゆく―――――







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月刊誌か、下手すれば隔月刊誌か…orz 嗚呼…遅くてすみません。
やっと夜が明ける。ってか、『幕間』の筈なのに…前回よりちと長いってどうよ。

さて次回は、お嬢さん方にも出てきて戴きましょうか。
背景も暗バージョンはお終いです。眩しいほどの…となりますかどうか(笑)。

夢霧 拝(07.05.11)




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