天上より注ぎし至上の光 〜 Love Supreme 〜 7




それは予感だったのかもしれない・・・――――

失いたくない――― そう思う気持ちが生じさせた、予感・・・――――

あの時の俺にもっと・・・ 勇気があったなら・・・――――






ピチャン・・・ ピチャ――ーーン・・・

蒼き泉に身体を浸す・・・ 揺らめく水面・・・波紋は幾重にも広がり・・・

パシャン・・・―――――


掲げた掌・・・ 掬い上げた泉の水が零れ、ゆるゆると腕を伝い、白き肌を伝う。

身体中に伝わる、蒼き水の穏やかな感触・・・
何も考えずに、水と一体になれた、不思議な体験・・・

天面を見上げ、瞳を閉じる。揺らぎ、そして伏せられる睫。陽の光に透け、キラキラと輝きを増す。

水音、そして森の囁き、洞窟の壁を彩る苔の蒼の煌き、流れ吹くそよ風の歌・・・
髪をくすぐり、肌を掠めてゆく風が・・・心地良い・・・

何もかもに優しく包まれる感覚・・・ そのどれもが温かく沁みる・・・
清水であるのにとても柔らかく、温かみが伝わるのだ・・・

優しく護られる感覚・・・ 穏やかに潤っていく心・・・――――


水に再び両手を浸し、静かに掬い上げた。
掌の中でも陽の光を受けキラキラと光るそれを、見つめる。

・・・そして思う・・・ この世界に生きるのだと・・・

風を感じ、ふとまた顔を上げ・・・ 壁の蒼を見上げる。


――――・・・共に生きたい・・・

自分はこの世界の者ではない。だけど、残る事を決めた。

この世界の為に出来る事を、今まで遣ってきた。


きっとここに、この世界に、骨を埋める事になるだろう・・・

今は、心からそう感じる・・・ この世界と一体になりたいと・・・

そして、あの人と共に・・・ これからも・・・ ずっと・・・・・・


思いを馳せ、静かにまた瞳を閉じる。



――ーーキィィーーーー―――――――――ン・・・・…


「・・・っ」


突如頭に響く、澄んだ音・・・ そして、



―――― ・・・礎ト・・成ルカ・・・ 娘・・・ ――――
  


「ぇ・・・」

声。

聴こえて来たその声に、ノリコは目を見開く。



―――― コノ世界ノ・・・礎ト成ルカ・・・ 目覚メノ・・娘・・・ ――――



気の所為ではない。確かに聴こえるその声に、すぐに周りを見渡した。洞窟の蒼が一層煌いている。

「・・・ぁ」

耳に手を添える。男性とも女性ともつかないその声は、ノリコの頭の中に直接響いて来ていた。

さわさわと、風もまた優しく吹き抜ける。



―――― コノ世界・・・ ソナタニハ、決シテ、安寧デハ、ナイヤモシレヌ・・・



「・・・・」

頭の中を、その声がぐるぐる巡る。



ソレデモ、覚悟ハ、有ルカ・・・ 目覚メノ・・・娘ヨ・・・ ――――



重々しい響き。

「ぁ・・・」

ノリコは天面を見上げ、両手を掲げた。


「・・・残りたい・・・この世界で生きたい・・・」

「あの人と共に、生きたい・・・ 大切な事を教えてくれた、この世界に・・・そしてあの人に・・・恩返しがしたい・・」


「・・・残る事を許してくれますか?・・・ あたしを、受け入れてくれますか?・・・」


この森に息づく意思よ・・・――――

イザークと共に生きていく事を、この世界に居続ける事を・・・ 許してくれますか?・・・――――


心の何処かで感じていた、微かな思い・・・
自分がいつかこの世界から、消えてしまうのではないか・・・戻されてしまうのではないか・・・

それは僅かではあっても、決して拭いきれない不安・・・

自分の居場所は、まだこの世界のあるのだろうかと・・・ だから・・・


ピチャ―――――ーーン・・・



―――― 覚悟ハ・・・有ルカ・・・ 娘・・・ ――――



「あたしの命は、あの人に貰った・・・ あの人がいなければ、あたしはこの世界で生きてはこれなかった」

「だから・・・ あたしのこの命は、あの人の為にある」

「あたしには何の力もない・・・でも、この世界に生きたい・・・ あの人の・・・ この世界の為になるのなら・・・」

「あたしに出来る事なら何でもしたい・・・精一杯頑張りたい・・・ それでこの世界にずっといられるのなら・・・」


大切なの・・・何よりも・・・ あの人が大切なの・・・ 傍にいたい・・・ だから・・・ だから・・・――――



それは、祈りにも似た・・・深き想い。



―――― ・・フ・・・ 己ニ・・・力ガ無イト・・・申スカ・・・ ――――



「ぇ・・・」


天面に開けし穴より注がれる陽の光。それは、とても柔らかな暖かい光。
真っ直ぐにノリコへと注がれ、その身体を包んでいく。

煌く眩しさに、目を細めた。


「ぁ・・・」



―――― 天上鬼ヲ・・ ソシテ、コノ世界ヲ・・・ 目覚メサセシ娘ヨ・・・

・・・結バレヨ・・・ 心ユクマデ・・・ ソシテ、コノ世界ノ・・・礎ト成ルガヨイ・・・ ――――



ピチャ―――ーーン・・・ さわさわさわ・・・

・・・くすくす・・・くすくす・・・ ふふふ・・・あはは・・・

森の声、風の歌。それは森の精霊たちの囁き・・・ 森の意思と共に、彼等もまた歓喜に満ち溢れる・・・

水の蒼が輝きを増す。そして洞窟内の壁や岩、苔、全てが共鳴するかのように、キラキラと光り出す。


――――――ーーーー・・・・  眩い光で溢れていった。


ぁ・・・――――


身体が一層温かくなる。ジーンとする何かが身体を駆け巡った。
感慨深げに、ノリコはゆっくり息を吐く。

ゆらゆらと揺らめく水・・・降り注ぐ光・・・ 包まれていく・・・森の優しさ、温かさに・・・


「有難う・・ございます・・」

感無量の涙が頬を伝う。


この世界で生きる・・・ イザークと共に・・・――――



そして、ずっと立ち会っていたニーニャも、この奇跡を目の当たりにした。

言葉も掛けず、ただじっと・・・ この七日間の禊の間、ノリコにもたらされる奇跡を見つめていた。
最初は、より蒼く輝きを増した泉の水に驚いた。だが日が経つにつれ、森や洞窟が彼女にもたらす数々の奇跡を目にし、最後には感動すら覚え、涙が止まらなかった・・・ 謂わばこれは、彼女だけが立ち会えた奇跡だ。

森の声、そして精霊達の声は、ノリコを媒体としてニーニャにも届いていた。
この七日間、これまでの他の乙女達では決して成し得なかった、森の意思が示した奇跡。
ノリコが選ばれし目覚めであった事をまざまざと思い知る。


何故、ノリコが--目覚め--としてこの世界に召喚されたのか・・・
何故、異界に生きるノリコでなければならなかったのか・・・

ニーニャには解かる気がした。

彼女でなければならなかったのだ・・・と、ノリコとイザーク、二人を鑑みて思う。
もし他に誰かがこの場に居合わせたならば、その誰もが間違いなく賛同するであろう。



森と光の祝福を受け、輝くノリコは、とても美しかった。






-- illustration by webmaster --





―――――

―――――――・・・


「ノリコ・・?」
「・・えっ・・・」

呼ばれて我に返る。焼き菓子を包む手が止まっていた。

「どうしたの?」

不思議そうな顔で小首を傾げるジーナに顔を覗き込まれる。

「ぁ、・・・ごめんねジーナ、ちょっと考え事・・・」

恥ずかしげにノリコは取り繕った。
つい、思考の海を漂っていた。最後の禊の時の事を思い出していたのだ。

この世界に来てから感じた奇跡は少なくない。
自分の役割についても、何度も思いを馳せた。

この世界は自分を受け入れてくれた・・・まだ居続ける事が出来る・・・と。それが嬉しかった。

自分に出来る事をこれからも頑張りたい。そして、幸せな時を紡いでいきたい・・・
イザークと一緒に・・・


「ごめんね、あとこれだけだから急いでやってしまうね」

そうして、また菓子を布で包んでいく。

ノリコは午前中に拵えた焼き菓子を、ジーナと共に包んでいた。今朝アゴルが迎えに来た際に 一度ジーナは帰って行ったのだが、一寝入りし午後から再び出掛けるアゴルの都合で、またガーヤの家へと来ていたのだ。そして、菓子を近所の子ども達に届ける為に、この作業をしている。

皆が優しく自分を受け入れてくれている。これはその礼の意味もあった。
そして、これからも宜しく・・・との意味も込めた。この界隈の子達にノリコはとても慕われている。家が完成すれば、ノリコはイザークと郊外のその家に住む事になるが、ガーヤの店が開店すればこの辺に顔を出す事も多くなるだろう。そして何かと世話になる事もあるだろう。
だから、親しみを込めてノリコは菓子を焼いた。

明日になれば、イザークにも会える。そして明日は挙式の本番だ。
それ以降は、ずっと彼と共にいられる。・・・傍にいられる。

昨日の夕刻に届いた衣装。今はノリコに宛がわれている寝室に置いてある。
ユニカは、とても素晴らしく衣装を仕立ててくれていた。ノリコの想像を遥かに超える出来栄えで、その衣装に袖を通し彼のもとに行く自分を思い浮かべては・・・また頬を染める。

楽しみだった――――
全てが、きっと良い方向に行くと・・・ 今までそう思いながら遣ってきた。信じていれば、きっと全てが上手く運ぶ。今回も、そんな気がする。そして、これからも・・・きっと・・・

早く明日になれ・・・ 幸せな気持ちに胸を膨らませながら、ノリコは菓子を包む。


ガーヤは外出中だった。グゼナから出て来ている姉ゼーナに会いに行っている。
日暮れ時までには戻る事になっていた。




「ガーヤ!」
「姉さん!」

ガーヤとゼーナは抱き合って再会を喜び合った。
そして、同じくグゼナから共に出て来たアニタとロッテニーナの二人もそれぞれに抱きしめた。

ノリコとジーナを家に残し、ガーヤはゼーナ達が宿泊する宿へと訪ねて来ていたのだ。

「アニタとロッテニーナも、よく来てくれたねぇ〜。皆喜ぶよ」
「うふふ、ノリコに会えるのを楽しみにしていたのよ、ねぇ?」
「ええ、それから勿論、ガーヤさんにもね」
「あら、ご挨拶だね、二人とも?」

ガーヤの台詞に、皆が笑う。

「ノリコも喜ぶだろうさ。会ったらビックリするよ。あの子は本当に綺麗になったよ」
「そうかい、やはり婚礼を目前にすると女の子は変わるね」
「ああ、毎日傍で見ているあたしでさえ驚くほどさ。元々の愛らしさに加え、一層磨きが掛かったという感じかねぇ」

「ガイアスの泉の事はあたし達も聞いているわ。バラチナは特に水がいいから香水や化粧水も評判がいいし。
 ああ〜いいわよねぇ、あたしも結婚するならバラチナに住みたいわ〜」
「ロッテニーナったら・・・うふ、でもその前にまず、お相手を、見・つ・け・な・い・と・ね〜」
「えっ?・・もうアニタったら〜、それは、お・た・が・い・さ・ま、でしょう?」

うっとり語るロッテニーナにアニタはにこり微笑みながら突っ込んだ。ロッテニーナも負けじと片目を瞑ってやり返す。
その場にまたも笑いが生じた。

「だけど、それじゃ益々ノリコに会うのが楽しみだねぇ。今夜は皆で前祝いかぃ?」
「男達はね、今夜は酒場で前祝いだろうさ。アレフ達もそろそろ到着するだろう?グローシアに会うのも久々だね。
 楽しみだよ」

「ノリコに贈り物があるのよ。グローシアも何か素敵な物を用意するって言ってたわ」
「あたし達は二人で冬用の外套を選んだのよ。夜に外出する事もあるだろうから、これからの時期には役に立つ
 と思うわ」

「あたしはね、櫛と髪結い用の紐と、それから本をね」
「本?」
「ああ、以前にノリコが物語が好きだと言っていたんでね、読み物なんて、これまではゆっくり読む暇もなかっただろ
 うから、これからは、のんびりそういうのを読むのもいいかと思ってね。ふふふ・・実は贈り物のその櫛と紐は本の
 中に載っているのと同じ色合いの物でね」

ゼーナは片目を瞑って種明かしをした。

「体裁の良い紐は幾つあっても困らないだろ? 本の中にも同じ話が載っているから、ノリコには合うんじゃない
 かと思ってね。他にもノリコが喜びそうな本を選んだよ」
「気が利いてていいじゃないの、姉さん。・・・それにしても、皆の贈り物はノリコにばかりだねぇ〜、ふふふ」
「え、だってねぇ〜、イザークは・・・」

チラとアニタはロッテニーナを伺う。

「そうよ。彼にとってはノリコそのものが一番の贈り物だものねぇ〜」
「ぷっ、そりゃ違いない」

その台詞には、思わずガーヤも噴出した。

「いっそのこと、贈り物用にノリコを飾り立ててイザークに『ハイ、どうぞ!』ってするのはどう?・・喜ぶわよ〜、彼」

悪戯な表情で人差し指を立てるロッテニーナに皆は大いに笑い盛り上がり、その後も暫く話が弾んだ。






「じゃ、ジーナ、行きましょうか」

菓子を入れた籠を手にし、ノリコは笑顔でジーナと手を繋いだ。

扉に鍵を掛け外に出ると、午後の陽は西の方向にだいぶ傾いていた。しかし、夕刻までには菓子を配り終える事が出来るだろう。 ノリコはそう踏んでいた。界隈には、買い物に出る人の姿も見受けられる。子ども等の姿も見えた。道で出会った子等には、籠の菓子を直接手渡しした。

「家に帰ってから食べてね?」

にっこり笑顔で言葉を掛けられ、ノリコお手製の菓子を貰った子は、どの子も有頂天になり喜んだ。

大切に育まれ、素直な優しい子ども達・・・
そんな彼等の無邪気な様子を見つめながら、ノリコは自分の未来にも思いを馳せた。
いつか、愛しい子を自分も腕に抱いて・・・ そしてその隣りには、イザークが微笑んでいて・・・

そんな自分をふと思い、また我に返っては頬を染める。



そこへ・・・

「ノリコ様」
「え・・」

道を歩いている時に、後ろから声を掛けられた。ノリコもジーナも声の方を振り向く。

「失礼。・・・ノリコ・タチキ様ですか?」

声を掛けてきたのは、長身の男だった。

「え、・・そうですが、あなたは?」
「お初にお目に掛かります。実は、我が主が是非貴女にお会いしたいと申しております。・・・そして私は、その
 遣いの者・・・」

男はにこりと微笑み、頭を下げた。
だが、そんな事を急に告げられても、ノリコは面食らうしかない。

「ぇ、あの・・、あなたの主と言われても、あたしには誰の事だか・・・」
「驚かれるのもご尤も・・・ 聞けば、貴女は明日が婚礼の儀であられるとか・・・ 風の噂に聞きつけ、是非とも
 祝辞を申し上げたいと主が申します。本来なら自ら出向いて祝辞を申し上げるのが筋、・・・しかし我が主は
 身体が丈夫ではない故出向く事も叶わず・・・ このように呼びつける形になってしまい、誠に申し訳ないと・・・」
「はぁ・・・」
「是非とも貴女にお会いしたいと、斯様に申しております・・・どうか、我が主の願いを聞き入れて戴きたく・・・」
「ぁ・・・ですが・・あたしはあなたのご主人を知らないのですが・・」
「・・・」

ノリコの言葉に遣いの男は顔を上げる。一瞬の真顔の後、また微笑を浮かべる。

「・・・我が主は、既に貴女をお見掛けしております」
「え?」

「どうかご心配なく。この町に住む、アーヴィスが我が主。そして時の手間も取らせません。願いが成就した暁
 には、貴女を無事にこちらまで送り届ける由。どうかご快諾され、私めについて来て戴きたく願う所存・・・」
「・・アーヴィスさん? ぁ・・・でも、あの」

主の名を告げられても、やはりノリコには見当がつかなかった。

「ごめんなさい。今、この子を預かっているんです。彼女は目が不自由なので、一人で残しては行けないんです。
 折角ですが、お気持ちは有難く受け取ったと、どうかお伝えください」
「ノリコ・・・」

ジーナもノリコを心配そうに窺う。

「・・・それは困った・・・貴女をお連れ出来なければ、さぞ主もがっかりされるでしょう。それに主は明日にもこの
 花の町を発つ御身。是非とも会って戴きたいのです・・・ 何卒、どうか・・・」
「ぁ・・・でも・・・」

男の言葉にノリコは途方に暮れてしまった。


「あら、ノリコじゃない。どうしたの?」
「え・・・」

呼ぶ声に振り返ると、ガーヤの家の向かいに住むリスムが立っていた。気さくで世話好きな、中年の女性である。

「リスムさん」
「あら、随分とイイ男だねぇ。イイねぇ、ノリコはモテモテだっ」
「えっ・・ぁ・・リスムさん、からかわないでください・・あの・・」

リスムの台詞にノリコは慌て、困った顔で事情を説明した。

「へぇ。祝いの言葉を言いたいなんて、随分と殊勝じゃないか。何か祝いの品でもくれるかもしれないよ?ははっ」
「・・・リスムさん・・でも・・」
「じゃあさ、こうするのはどうだぃ? あんたが戻るまであたしがジーナを預かろう。じきにガーヤも戻って来るんだろ?」
「ええ・・・」
「もし間に合わなくても、あたしがジーナをガーヤのところに連れて行ってもいいんだしさ。夕餉の支度まではまだ
 少し間があるし、その菓子もあたしが言葉を添えて子ども等に配っておくよ?」

リスムにそうまで言われ、ノリコは少し考える。遣いの男はその間、何も言わずにじっと佇んでいた。

「あの・・・本当にすぐに戻って来れるのですね?」
「はぃ、必ず無事に送り届けます。どうかご安心を・・・」

ノリコの問いに男は再度頭を下げ、答えた。ノリコはジーナの前に屈む。

「ジーナ・・・リスムさんと一緒に・・いい?」
「ノリコ・・・ うん・・解かった、リスムさんと待ってる。・・・早く戻って来てね?」
「ええ、すぐにね」

ジーナの言葉にノリコは笑顔で答えた。そして、菓子の入った籠をリスムに渡し、リスムはジーナの手を取る。

「じゃあ、すみません。少しの間お願いします」
「あいよ」

後の事をリスムに託すと、ノリコはいざなう男の後について行った。


「・・・はぁ〜、それにしても、ノリコは皆に好かれるねぇ。気立てはいいし可愛いし。わざわざ呼びつけてでも
 祝いを言いたいだなんて、そんな奴まで現れるんだからねぇ〜」

街並みに消えていく男とノリコの姿を見送りながら、リスムは呟く。
その言葉に、ジーナもまた見えないノリコを探るかのように、その去った方向を見つめた。


そして街の時告げし鐘が三度ゆっくり鳴り、午後の刻限を知らしめる。
その音色は静かに街中へと響き渡っていった。






「あの・・・何処まで行くのでしょう?」

男の後をついて歩きながら、ノリコは訊ねた。既に街の喧騒からはだいぶ離れた所まで来ている。
裏の道を通って来たので、途中知り合いにすら会っていない。

「ご足労を掛け申し訳ありません。この先に馬車を待機させてます故・・・そこまで、どうか・・」
「馬車?」

笑みを浮かべてチラとこちらを窺いそう告げる男に、ノリコはやや怪訝な顔で訊き返した。


それから更に歩くと、言われた通り馬車が見えてきた。重厚な黒の馬車で、一目で金持ちのそれだと解かる。
御者台は向こう側を向いており、こちらからは馬車の後ろ側しか望めない。

「ここからはこの馬車で参ります。私は、これにて・・・」
「え・・・あなたはご一緒ではないのですか?」
「私にはこれから別な仕事があります。屋敷では別の者が貴女を案内致します故、ご心配には及びません。
 さ、どうぞお乗りください」

そう言うと、男は扉の取っ手に手を掛けた。

「そうですか・・・解かりました。・・・ぁ、あの・・」
「?・・・何か・・」

「いえ、あの・・、有難うございます」
「・・・ぇ」

扉を開けようとしていたその手が、ひたと止まる。
笑顔で自分に礼を述べるノリコの姿に、男は目を見張った。

「・・・ありが・・とう・・・?」
「そんな大層な者でもない私の為に道案内してくださって、有難うございます」
「・・・ぁ・・」

・・・それ以上の言葉が出ない。男は暫しじっとノリコを見つめた。

「・・・?」

そしてノリコも、黙ってしまった男の様子に不思議そうな顔で小首を傾げた。ノリコに見つめられ、流石に男も我に返る。 頬が若干赤くなり、悟られるのが恥ずかしいのか、その顔を伏せた。

若干であるが、男は動揺していた。しかし、ノリコはそれに気付いてはいない。

「・・主が・・屋敷にて・・お待ちです・・・ どうぞ・・お乗りください・・」

顔を伏せたまま男はようやく言葉にし、馬車の扉を開ける。そして、ノリコは男に会釈し、車に乗り込んだ。
その背で、静かに扉は閉じられる。

そして若干の間の後・・・


ドサッ――――・・・! 何かが倒れるような音が中から聞こえた。


男の顔に苦悩の色合いが滲む。暫し動けなかった。

「何をしているんだ、ギスッ! 時間がないぞ、早く乗れッ!」

御者台から別の男の声がした。呼ばれて男は一瞬ビクッとするが、

「ぁ・・・ああ・・」

その顔に苦悩の表情を浮かべたまま踵を返し、御者台へと乗り込んだ。
馬に綱が打たれる。同時に馬の嘶き―――― そして馬車はゆっくりと動き出す。



馬車の中では、ノリコが座席に突っ伏していた。髪は無造作に乱れ広がり、既に意識はない。

車内に立ち込める香り・・・ 甘い甘い花の芳香・・・ 焚かれた香(こう)の甘い匂いが充満していた。
薬剤入りの香は、四隅に設えられた香炉の中で尚も焚かれ、その匂いが薄まる事はない。
乗り込んだ途端不自然な甘い香りに気付くも、充満する薬の成分に程なく身体の自由は奪われ・・・
身構える暇すら与えられず、ノリコの意識は遠のいた。

最も信頼を寄せるかの人に、助けを≪求める≫事すら叶わず・・・――――


馬車の姿が道の木々の間に見えなくなった頃、鐘の音が再び時を告げる。
陽も、そろそろ山の方へとその姿を隠そうとしていた。

空の赤みがその色の濃さを増し、同時に黒い雲も、徐々にであるが広がりつつあった。



――――・・・ふふふ・・・

眠れないのよ・・・ いいえ、いつものではダメね・・・ 私はゆっくりと眠りたいの・・・

そう・・・ 一日半はたっぷりと眠れる薬を、調合して貰って頂戴・・・

それから香の粉も・・・ 良い香りのする花を使ってたっぷりとね・・・


よく眠ったら・・・いずれキレイに忘れられるわ・・・ 嫌な事も、何もかもね・・・

ふふふ・・・ ふふふ・・・―――――


・・・―――――
――――









陽は沈み、辺りは薄闇に包まれていた。


「よぉアレフ、久々だなぁ〜、達者だったか?」

酒場の扉を開け中から顔を出したバラゴは、通りの向こうから走って来たアレフに気付き声を掛けた。
軽く手を挙げアレフは応える。

「や。バラゴ、相変わらず君は元気だね」
「意外と遅かったじゃねぇか、もう皆始めちまってるぜ?」
「ああ、すまん。実はご婦人達がね、明日の支度にああでもない、こうでもないと今更ね・・」

やれやれといった仕草でアレフは苦笑した。

「なるほどなぁ、女の支度は時間が掛かる。厄介なもんだからなぁ〜」

笑いながら二人とも酒場の中に入っていった。店の中には、既にアゴル、ロンタルナ、コーリキ、バーナダム、
カイザック、そしてイザークが来ていた。

「や、遅れてすまないな、皆」
「遅いっすよ、隊長?」
「はははっ、すまん。・・・よっ、久し振りだなイザーク」

アレフの挨拶にイザークは目で応えた。アレフにも酒が用意される。遅れを取り戻すように早速杯を傾けた。

「で、麗しの許婚殿は、いずこに?」
「ガーヤの家にいる」
「はっはっは! イザークは明日までノリコとは会えないんだよ。ここのしきたりとやらでなっ」
「ほぉ〜、それはそれは、実に気の毒だ・・」
「楽しんでるだろアレフ」
「あ、解かっちゃった?」
「目が笑っている」

イザークの鋭い問いにも、アレフはニヤリと応酬するだけだ。

「しかし、よく大人しく甘んじてるね、君も」
「仕方がなかろう・・」
「はははっ、まあそれだけ、明日の再会が格別なものになるという訳だ、な」

冷やかしの笑いはやはり起こるものだ。イザークを祝う気は大いにあっても、そこは馴染みの誼からか、 悪戯半分可愛がり半分と何でもござれだ。酒も進み、小気味いい冗談の口も弾むというものだ。

「あ〜あ、お陰で今日はノリコの顔も拝めないんだよな、詰まんないよなぁ〜、楽しみにしてたのにさ」

頬杖をつきながら天井を睨み、バーナダムは如何にも残念そうにごちた。

「おぃおぃ、聞き捨てならない台詞だぞ〜? そいつは」

とはロンタルナ。コーリキも笑いながら賛同する。

「まかり間違えば命取りになりかねないよ?・・バーナダム君?」

と、ニヤニヤしながらアレフ。イザークも杯を片手にチラとバーナダムを見やる。
今更だから敢えて口には出さないが、その顔は笑ってはいない。

「構わないさ。なあイザーク、おまえがもしノリコを泣かせるようなら、俺はいつでも掻っ攫いに来るぜ?」

わざと下から覗き込みしかも挑戦的な視線。バーナダムも相当酒が進んでいた。

「何だバーナダム。まだおまえ、諦めきれてなかったのかよ・・」
「は・・・そんなに簡単に割り切れるもんじゃないさ。ノリコほどのイイ子なんて・・そうはいないよ・・」
「おぃおぃ・・・今度は愚痴か?」

流石にバラゴも呆れ顔だ。

「まあ、ノリコは確かに特別だが・・・ イザーク、結婚してもうかうかしてられんな・・?」

アゴルのさらりとした口調に、イザークはふっと微笑う。

「いつでも受けて立つ。だが、死ぬ気で来い」

「おぃおぃ〜、冗談抜きで命が幾つあっても足りんぞぉ〜? バーナダム、おまえ何しに来たんだ? いい加減スパッと
 諦めろ。女はノリコだけじゃないんだぞ?」
「そうそう、実はバーナダム君はザーゴでも一目置かれていてね。なかなかなもんですよ。彼目当ての女性も、実
 は何人もいてね」
「た、隊長・・・俺はまだ・・・」
「ふ・・・君の気持ちはよく解かる。しかしね、やはりここはノリコの気持ちを一番に尊重しようじゃないか?」
「・・・そりゃ、ノリコはイザークに惚れてるさ。解かってるよ。俺だって、二人を祝福したいから来たのさ。ただ俺は
 今もノリコを敬愛している。だから、幸せになって欲しいだけだよ」
「お利口だね、バーナダム」
「諦めの悪い男の最後の足掻きさ。だからこそだイザーク、あん時みたいにノリコを泣かすなよっ、もし泣かしたら
 絶対に承知しないぞっ」

拳を突き出すバーナダムに、流石のイザークも一瞬二の句が継げなかった。しかし、

「・・・無用の心配だと言いたいが、改めて肝に銘じておこう」

改めて返す。アレフはバーナダムの頭をくしゃりとした。

怪しげな空気もひとまず去り、その後はまた酒が進み笑いも飛び交った。
そして含みを込めて、アゴルが呟き笑んだ。

「しかし、結婚ってのは人生の墓場にも成り得る・・・と、聞く・・」

イザークの手が止まり、他の皆は酒を噴出しそうになった。

「・・・墓場?」
「墓場だとぉ〜、イザークに掛かれば墓場でも甘くしちまいそうだぞ? 特にノリコ入りの墓場は・・・甘過ぎる・・」

甘ったるいのを想像し、バラゴが呻いた。

「そりゃそうだ。そんなに甘い墓場なら、代わりに俺が埋められたいくらいだ・・」
「本気か? アレフ・・」
「冗談だ。俺はまだ命が惜しい。ノリコ入りの墓場は、おまえ専用だイザーク」

真顔のイザークを軽くいなすように、アレフはふふんと笑う。

「アレフ、おまえにはグローシア入りの墓場があるだろうがっ」
「おぃおぃ、俺とグローシア様は、まだそんなんじゃないですよ?」

バラゴの台詞に、やや慌ててアレフは弁解する。

「へぇ、俺達はもうとっくに認めてるんだけどなぁ〜、な、コーリキ?」
「ああ、そうさ。もたもたしてると、グローシアに見限られるぞ? アレフ」
「ロンタルナ様、コーリキ様・・ それは少々キツイです・・」
「父さん達だってさ・・・実はちゃんと認めてるんだぜ?」
「えっ・・・」

左大公の名まで出ては、流石にアレフも固まる。

「アレフ、おまえ・・・まだグローシアとカタついてなかったのか?」

バラゴにボソッと耳打ちされる。

「ええ、実はまだなんですよ・・」
「グローシアはおまえに惚れてるんだろが・・・? さっさと申し込んじまえよ、じれったいのはイザークだけで充分だぜ?」
「何故俺を引き合いに出す?」
「お。聞こえちまったか?」
「筒抜けだ」

「まあまあ、今夜はイザークの前祝いだからな。俺の話はこれで終いにするよ」
「そうだそうだ、今日はイザークの独身最後の日だからな〜、実にめでたいじゃないか!」

笑いながらカイザックはイザークの肩に手を回した。

「カイザック・・」
「呑めよイザーク。昔から婚礼の日には花が咲き乱れるんだ。明日はおまえにも、幸せという名の花が咲くぜ」

「そうだ、どんどん呑めよーー!」
「でもってなぁ、甘い墓場も早速稼動だぜっ」
「はっはっはー! そりゃいいぜっ!」

「しかしあんまり呑むと、明日のお披露目に響くぞ? 揃って二日酔いは拙いっ、程ほどにしとけよ〜?」
「二日酔いの花婿に二日酔いの立会人! そして二日酔いの参列者だっ! それも傑作だよなあ〜、はははっ」
「ヤバイぞヤバイぞっ、第一日目にして花嫁に愛想尽かされたら・・・それはそれで面白いかもなっ!」
「なんのなんのっ、ノリコは懐が大きいさ。それくらいじゃ、愛想尽かされる心配はないよっ」
「かぁ〜、いいねぇ〜! 羨ましいぞっ!」

「何言ってるんだ? おまえ等はともかく、こいつが酒で酔っ払う性質かあ〜? 一度でいいから、イザークがへべれけ
 に酔ってる姿を拝んでみたいもんだぜ〜〜!」
「そうともさっ、普段落ち着き払ってるおまえの醜態を、一度でイイから拝んでやりたいっ!」

仲間達の台詞で、勢い付いたバラゴには羽交い絞めにされ、バーナダムには髪をわしゃわしゃにされるイザーク。

「はっはっはっ! 全くだっ!」
「おーし、もっと酒持って来いよー!」


神代(かみよ)の昔から、羽目を外す男達の酒の席とはこんなものだ。兎にも角にも品がない。
元より・・・この場に品というものを求めるのが、そも間違っているのだろうが・・・
しかし品がないなりにも彼等はやはりイザークを祝いたい訳で・・・それが解かっているから、イザークももみくちゃにされながらも 嫌な顔一つしないのだ。そして冗談に真顔で返すのも彼の性質と見るなら、これほど可笑しい場面はないだろう。その後も尚爆笑の 渦と共に、男達の酒は進んでいった。





男達の酒が進む中、酒場の扉が勢いよく開けられ、血相を変えたガーヤが息を切らして飛び込んで来た。
その場にいた男達は、皆扉の方に注目した。

「よぉ、ガーヤ・・・どうしたんだ? そんなに慌ててよぉ、俺たちと酒でも飲みたくなったのか?」

バラゴが笑う。しかし、呼吸の整わないままガーヤはぐるりと店の中を見渡すと、苦悩に満ちた顔でイザークに視線を移した。

「イザーク・・・まさかとは思うけど・・・ ここに、ノリコは来ちゃいないよね?」
「え・・・?」

ガーヤの言葉で、にわかに表情が曇る。

「なに寝ぼけた事言ってるんだ? ガーヤ。ノリコが酒場になんぞ来る訳がな・・・」

バラゴの暢気な台詞を制するように手を翳し、イザークが前に出る。

「どういう事だ、ガーヤ・・・ノリコに何かあったのか・・?」

その徒ならぬ言葉に、他の男達も真顔になる。ガーヤの表情は深刻そのものだ。

「・・・実は、三時過ぎほどに出掛けたまま・・まだ戻ってないんだよ・・・とっくに陽が沈んだというのに・・・」

ガーヤの説明にイザークの表情は益々険しくなる。

「出掛けた・・だと? ガーヤの家にずっといる筈ではなかったのか? 何処へ行ったというんだ!?・・」
「・・・それが・・」

ガーヤは言葉に詰まってしまった。


咄嗟にイザークは意識を集中させる。


――― ノリコっ! ノリコっ! 何処にいる!? 返事をしてくれ、ノリコっ! ――――


ノリコに遠耳で呼び掛ける。何度も何度も呼び掛けた。
普段ならば呼び掛ければすぐに返事を返してくれる筈なのだ。
彼女特有の優しく柔らかな調子で・・・明るく返事を返してくれる筈なのだ。

《やだなぁ・・慌ててどうしたの? イザーク・・》

そんな返事が返ってくれば、すぐにでもこの不安から解放されるというのに・・・!!


「イザークっ、ノリコからの返事はないのか?」

アゴルの問いにも応えず、イザークは呼び掛けを続ける。だが・・・
酷く長い、重苦しい沈黙の後・・・

「・・・ない・・」

ギリ・・と歯を噛み締めたその顔は、既に蒼白だった。


酔いなど当に吹き飛んでいる。外で雨音がし始める中、その場にいた仲間全員に緊張感が走った。
そして追い討ちを掛けるかのように、雨は次第にその音を強くしていった。






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品のある香は好きです。白檀の香り… 線香ですよ、それじゃ。。
んー、アロマ…といえば、聞こえは良いかな。

更新が遅くなってしまいました。
実は…やってしまいました、ぎっくり腰モドキ。。orz …ああ、誰か、私を助けて…(泣)。
痛みを騙し騙し… なので時間を掛けざるを得なくて、すみません。
予定通りに進まないのは、世の常という事で… どうか笑ってお赦しを。

ですが、ようやくお話ここまで来ました。ある意味感慨も深いです。
あ…品のないドンちゃん騒ぎと化した男達のヨイヨイは、申し訳ありません。
後半の品のない台詞は、誰がどれかは…ニュアンスでどうか掴んでください。
もう、誰がどれといちいち説明加えるのも…力尽きました。orz 平にどうか。

次回、天啓が下ります事を願って…
あ、痛みも回復しています事を願って…orz

不定期更新に更に輪を掛ける事になりますが、ご了承願います。

夢霧 拝(06.11.22)
--素材提供『空色地図』様--


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